自分で作った人形やぬいぐるみを売ることもありますが、私のようにとろい人間にとって、手作り品の販売は売れば売るほど赤字がふくらむのが実情だから、積極的に売り出しはしておりません。
それよりも、作ったものを展示したり、作り方や型紙を載せて人を集め、広告収入を得ることを主体にしたいところです。
型紙はすべて無料でダウンロードできるようにしていて、このことが国内はともかく、海外では好評を博しています。
というのも、あちらでは型紙は買うものであって、自作の型紙を売る個人ビジネスがたいそう盛んです。
型紙がタダであるのに加え、それを使って作ったものは自由に販売してよろしいとサイトに明記しているとあって、私は「世界一generousなアーティスト」と(一部の人から)絶賛されています。
そんなに盛んなら、型紙販売に参入すれば、多少なりとも収入の足しになるではないか。
その予定はありません。根がものぐさだし、「売る」という行為に精神的重圧を感じる人間なので、結局引き合わないと思うのです。
ウェブにアップした型紙はデジタルデータなので、無限増殖が可能です。得た人はメールに添付して友人に送ることもできます。
うちからタダのものを取ってきて販売しようとたくらむ輩が現れるのは当然ともいえます。
欧米には著作権意識が浸透していますが、発展途上国ではその概念さえ生まれていません。道ばたに落ちている空き缶を拾ったり、誰でも立ち入り可能な山できのこを採集したりして売るのとどう違うんだと開き直られれば、ちょっと返答に窮したりして。
2年余り前、「あなたのサンタ人形の型紙を売っている人がいる」というメッセージをもらい、そのことを英語ブログに書いたところ、かなりの反響がありました。そのサイトはetsy.comといいますが、コメントの多くは「あなたはetsyとコンタクトすべきだ」というものでした。
しかしほうっておきました。当該ページをじっくり見なかったので、etsyという中国人が開設したサイトだと早とちりしたのです。そんな相手にメールアドレスやIPアドレスを教えるなんてまっぴらですからね。
その後、etsyは素人でも手軽に手作り品を売り買いできる場を提供する会員制サイトだと知りましたが、とにかくかかわり合う気はありませんでした。
昨年のこと。「あなたのダックスフントの型紙がetsyで販売されている」という情報が立て続けに寄せられました。
実を言うと、こういう善意の密告はいささか迷惑に感じます。それに気づいたアナタがさっさとetsyに報告してくれたらありがたいのにさ。この要求が間違っているのは承知していますが、とにかく英語を読み書きするのが面倒で面倒でたまらないのです。
今回は渋々ながら、etsyに苦情を申し立てることにしました。
ところがコンタクトフォームからの送信は、会員登録しないと受け付けないのです。これだからかかわりたくないのよね。苦々しい気分で登録して、「お宅のメンバーにドロボーがいる」と書き送りました。
etsyからはすぐに返信が届きました。長々しい定型文です。
翻訳ソフトで訳したら、「著作権侵害の申し立ては、被害者本人がポリシーページをちゃんと読んで所定の様式で送れ」「あなたが本人でないなら、本人に知らせればよい」みたいな内容だと判断されました。
ああ、なるほど。私に知らせてくれた善意の人々は、先にetsyに届けて、同じ定型メールを受け取ったのかも。
私はポリシーなど読む気になれず、とりあえずメールを送りました。「私は本人であるが、英語が苦手だから、複雑な手続きには耐えられない。ドロボーの放置はあなたの損害になることだから、自力で調査して対処してほしい」
その後etsyからは、なしのつぶてです。
私は著作権を侵害されてもどうってことないのです。むしろ私の型紙が優良だから有料で売る奴もいるのさ、と自己満足。
買った人はこんないいもんがたったの1ドルだなんて♪、と喜ぶ。
ドロボーさんは濡れ手で粟だからウハウハ。
誰も損をしない不思議な犯罪でありまする。
そりゃあ、そんな理屈が通ると本気で思っているわけではありません。
不正な手段で稼いでいる人を見た人々は、不愉快でしょう。
第一、買った人が真実を知ったら怒り心頭。でもね、それは世界一のアーティスト、Runoの存在を知らなかったあなたの罪です。1ドルは罰金だとおあきらめなさいませ。
ともあれ、私個人はこういった事態を深く憂慮する必要はないと考えています。
ウェブの口コミを甘く見ると怖いぞー。軽い気持ちで不正を行う素人は、遅かれ早かれ悪評を広めて自滅するに決まっています。
2012年01月14日
雪だるま追想
最近はめったに雪が降らず、降っても積もることは珍しくなりました。私が住むのは九州の某都市です。積もりにくいのは、温暖化のせいだけでなく、雪の降り方が変わったからだとも思えます。
このごろは昼間に降ることが多いようです。昼間だと融けやすいのです。
「本日の最高気温は真夜中に出ました」などと聞くこともあり、ナンカヘンダナって気がします。ヒートアイランドで、街が地熱を蓄えて、日没後もあまり温度が下がらないのでしょうか。
かつて雪は夜中にしんしんと降り積もりました。雪の降る夜は車も通らず、不気味なくらい静まり返ります。朝起きて窓を開けたら、一面の白世界に「わあ」と声をあげたものです。そして子どもたちは雪だるまを作りに表へ駆け出すのでした。
雪だるまといえば、目鼻には炭を埋め込んだものです。
炭が一般家庭の常備品でなくなった現在、何を使っているのかよく知りません。アボカドや人参?
で、思い出しました。この私、学芸会で主役を演じたことがあるのですよ。
小学校2年まで過ごした田舎町でのこと。どっちの学年だったか、記憶はあやふや。
私が選ばれたのは、たぶん一番のっぽで「お姉さん」てイメージだから、でしょう。弟役には同姓の小柄な男の子がなりました。その地域でありふれた名字というわけではないのに、その子は親戚でもなんでもありません。担任教師としては、ちょっとしたしゃれのつもりだったかも。
ストーリーは、たいそう貧しい姉弟がいて、家では病気の母が寝込んでいるのに、炭を買うお金もなく、部屋は寒々しい。ふたりはとてもいい子だったので、雪だるまたちは何か役に立ちたいと話し合って、目鼻の炭をプレゼントする、と。
「貧乏な家の子だからね、いつものボロ服を着ておいで」と、先生からわりと傷つくようなことを言われました。
確かにうちは貧乏だったけど、まわりに「分限者」は珍しいくらいだったので、さほどひけ目を感じたことはなかったような・・・。
学校だって貧しくて(?)、真冬でもストーブがあるのは職員室だけ。ずるーい。
このお話は、衣装や大道具などが安上がりで済む点も、魅力だったのでしょう。
雪だるまの目がひとりでにぽとりと落ちるシーンはちょっとした山場なのですが、そこをどう演出しようと悩んだ結果、雪だるま形に切った厚紙に本物の炭を糸でくくりつけ、後ろで支える雪だるま役の子がはさみで切ることにしました。先生のアイデアです。子どもたちにはなかなか思いつきません。
落ちた炭を拾ったふたりは「雪だるまさん、ありがとう」と手を振って退場。残るはのっぺらぼうの雪だるまたち・・・と、感動のラストシーン?
ま、地味でつまんない話だから、観客には受けなかったことでしょう。そのへんはよく覚えていません。
このごろは昼間に降ることが多いようです。昼間だと融けやすいのです。
「本日の最高気温は真夜中に出ました」などと聞くこともあり、ナンカヘンダナって気がします。ヒートアイランドで、街が地熱を蓄えて、日没後もあまり温度が下がらないのでしょうか。
かつて雪は夜中にしんしんと降り積もりました。雪の降る夜は車も通らず、不気味なくらい静まり返ります。朝起きて窓を開けたら、一面の白世界に「わあ」と声をあげたものです。そして子どもたちは雪だるまを作りに表へ駆け出すのでした。
雪だるまといえば、目鼻には炭を埋め込んだものです。
炭が一般家庭の常備品でなくなった現在、何を使っているのかよく知りません。アボカドや人参?
で、思い出しました。この私、学芸会で主役を演じたことがあるのですよ。
小学校2年まで過ごした田舎町でのこと。どっちの学年だったか、記憶はあやふや。
私が選ばれたのは、たぶん一番のっぽで「お姉さん」てイメージだから、でしょう。弟役には同姓の小柄な男の子がなりました。その地域でありふれた名字というわけではないのに、その子は親戚でもなんでもありません。担任教師としては、ちょっとしたしゃれのつもりだったかも。
ストーリーは、たいそう貧しい姉弟がいて、家では病気の母が寝込んでいるのに、炭を買うお金もなく、部屋は寒々しい。ふたりはとてもいい子だったので、雪だるまたちは何か役に立ちたいと話し合って、目鼻の炭をプレゼントする、と。
「貧乏な家の子だからね、いつものボロ服を着ておいで」と、先生からわりと傷つくようなことを言われました。
確かにうちは貧乏だったけど、まわりに「分限者」は珍しいくらいだったので、さほどひけ目を感じたことはなかったような・・・。
学校だって貧しくて(?)、真冬でもストーブがあるのは職員室だけ。ずるーい。
このお話は、衣装や大道具などが安上がりで済む点も、魅力だったのでしょう。
雪だるまの目がひとりでにぽとりと落ちるシーンはちょっとした山場なのですが、そこをどう演出しようと悩んだ結果、雪だるま形に切った厚紙に本物の炭を糸でくくりつけ、後ろで支える雪だるま役の子がはさみで切ることにしました。先生のアイデアです。子どもたちにはなかなか思いつきません。
落ちた炭を拾ったふたりは「雪だるまさん、ありがとう」と手を振って退場。残るはのっぺらぼうの雪だるまたち・・・と、感動のラストシーン?
ま、地味でつまんない話だから、観客には受けなかったことでしょう。そのへんはよく覚えていません。
投稿者:ルノ 17:21
| レトロ
2011年12月28日
グズにつける薬
自慢じゃないが私はグズです。筋金入りのグズです。骨の髄までグズです。私からグズを取ったら、抜け殻になってそよそよと飛んでいきます。ええい、取れるもんなら取ってみろ。
たとえば、メール1通書くのにさえ、何日もかかります。何日もぶっ続けで書き続けるという意味ではなく、何日も(どうかしたら何年も)なおざりにしてしまう(書き始めない)のです。借金の申込とか借金申込への断りなどのややこしい用件ならともかく、送信済みトレイからコピペして数十秒でできあがる簡単な内容であっても、です。
忘れているだけならただの脳天気ですみますが、あのメール早く片づけなきゃといつも心の隅に引っかかっていて、夢にまでみるのです。せっせとメールを書いている夢から醒め、メールが仕上がっていないことを知ったときの疲労感は、あらためてメールに取り組む気力を失わせてしまいます。
どうして私はメールいっこ書けないほどのグズなんだろ、そうだ、図書館に行ってグズ対策本でも読んでみよう。こういうときだけやけに身軽にホイホイ出かけてしまう。そんなヒマがあるならさっさと書いて出せば解放されるのに。
そういうわけで、目についたグズ本は片っ端から読みました。
今や私はグズのエキスパート。ますますグズ道を究めつつあります。
筆頭は『グズをなおせば人生はうまくいく ついつい“先のばし”する損な人たち
』(斉藤茂太)
なんと魅力的なタイトルでしょう。これで人生がうまくいったかた、おめでとうございます。
『グズをきっぱりやめるコツ!』(ジェーン・ブルカ+レノーラ・ユエン)
グズな著者によるグズ脱却の指南。本書が完成したのは締め切りから2年後だったとか。えーっ、大丈夫?
『今日できることを、つい明日に延ばしてしまうあなたへ』(ウィンディ・ドライデン)
長年グズピープル指導を行ってきた人による実践的な本で、本人は全くグズでないと豪語しています。
人がやるべきことを先延ばしする理由を分析し、心理面からの解決策を提示。考え方を変えなければなおらないということ。
この本では「グズ」という言葉は使われていません。
『グズの人にはわけがある』(ランダ・サパディン+ジャック・マガイヤー)
グズのタイプを6つに分けて分析。それぞれ対処法が違います。
『「あとでやろう」と考えて「いつまでも」しない人へ』(和田秀樹)
「のろま」受難の時代を乗り切る仕事術、つまりビジネス書です。「グズ」はわりと愛嬌あるけど、「のろま」ってのはグサッとくる表現じゃないかなあ。
『あなたはなぜ段取りが悪いのか』(渋谷昌三)・・・副題『要領がよくなる心理学』
万事モタモタしてうまくやり遂げられない人へ、心理面からアドバイスしています。私に言わせれば、この本自体、あまり要領を得ないように感じられ、段取りが悪い見本のようです。
『キッパリ! たった5分間で自分を変える方法
』(上大岡トメ)
ミリオンセラーの人気本だから、手に取ったことのある人も多いはず。
一見グズとは関係がなさそうですが、『だらだら地獄を抜け出す』きっかけとなる小さな行動の提案です。『難しい仕事はカンタンな仕事をひとつ終えてからすぐにとりかかる』など、グズ対策の実践的項目もいろいろ。冒頭の『脱いだ靴はそろえる』のような些細なことでも、『あとで、ではなく、その場でやる』習慣を身につける第一歩なのだと。
こうしてみると、グズ本には海外の著書が意外に多い。グズで悩む人々は全世界に分布しています。
概してあちらの書は論理的・分析的で、本気でグズをなおしたい人々のために書かれた専門書って感じ。あまりかたくならないよう、訳者も苦労しているようです。
日本人の手になるものは、情緒的でやや未整理、読み物としては面白く、読めば納得するけど、グズ脱却にはあまり結びつかないような気もします。
英語でグズは“procrastination”といいます。正確な訳は「遅延、先延ばし」(“cras”は「明日」という意味)。
日本語のグズ(愚図)は「行動がのろいこと」です。ぐずぐずすることと先延ばしすることはたいていくっついているから、ひとくくりにできそうですが、世の中には先延ばしせず直ちに着手しても、あまりに不器用で要領が悪いからいつまでも仕上げることができない「真正グズ」だって存在します。
私がメールを書けないのは純粋な「先延ばし」です。汚れた食器をためこむのも「先延ばし」ですが、いざ洗い始めると、とろくてやたらと時間がかかるから、二重のグズなのです。
一般のグズ本が問題にしているのは「真正グズ」よりも、やるべきことを先延ばしまたは放置してしまう習癖です。そのために自分も損をし、周囲にも迷惑をかけていて、本人もすぐにやればいいことはわかっているのに、なぜか絶対にとりかかれないという厄介な症状なのです。症状? 確かにグズは一種の病気だ。
人がものごとを先延ばしする心理は性格によって違ってきます。
その分類を見ると、まさしく私はこれだーというのやら、これも多少は当てはまるぞ、など、けっこう思い当たります。
強制されるのがイヤ、なんでも自発的にやりたいんだというタイプは、命令されたことをやりたがりません。職場では完全なダメ社員。
私がメールの返信を放置するのも、返事を強要されているように感じるからかもしれません。ならばホームページなどさっさと削除して、メールが来ないようにしろ。
スリルを味わいたくてギリギリまで手をつけない人々もいます。
夏休みの宿題を最後の1日で仕上げるのが常だった私は、典型的スリル派のようです。その裏には、もしそれが間に合わなかったり、出来が悪かった場合、早くからやっていればもっと良い結果を出せたはずという言い訳を隠しているのです。
自分もグズ本を読破してグズをなおそうとお考えのグズさん、いまだに私がグズのままであるという事実は、いくら本を読んでもグズはなおせないことを証明しています。読むだけ時間の無駄ですよ。
要は私、単なる怠け者なのです。先延ばしする理由も半端ながら分析できていて、それは苦あれば楽ありに記載したので、ここでぐだぐだ述べません。
留意すべきは、どんなグズでも、万事にグズなわけではないってこと。
私だって3度のごはんは遅滞なく食べますし、目先のメールを放置して図書館に行く行動力はある。生存に必要なこと、好きなことならちゃんとできるのです。
嫌いなこと、したくないことを先延ばししてもいちおう生きていける恵まれた環境が、グズを育てているというわけ。
ほんとうに「恵まれた環境」なら申し分ないのですが、私の場合、自己実現にはほど遠い、最低限の生活しかできていません。
人がそれなりのことを成し遂げるには、多少の無理と我慢が求められます。その「多少」に耐えられないから、いつまでもダメ人間に甘んじるはめになるのです。
とはいえ、実のところ、私は真に自分が「ダメ人間」だとは思っていません。昨日もできなかった、今日も怠けてしまった、と後悔の連続にありながら、明日こそは必ずちゃんとやって、すべてが好転するだろうと楽観しているのです。Tomorrow never comes という真理を延々と実践しているだけなのに。
そんなとき手に取った本『読んだらきちんと自分の知識にする方法』(宮口公寿)。読む片端から忘れてしまう私には、ズキンとくるタイトルなのでした。
が、案の定、自分の知識にはならず。ただ、procrastinationが成功への唯一の障害だというあたりは納得。
そしてこの本で一番印象に残ったのは、著者の姿勢です。『人生はチョロい。でも、もし失敗したら気のせいと思え』とかなんとか。
この底抜けの楽天主義、まさしく私の生き方と同じではないか。
ひとつ大きな違いは、向こうは成功者、こっちは敗残者ってこと。・・・などと自嘲しつつ、やっぱり私は決して真の敗残者ではないと思っています。今は敗残者に見えたとしても、そのうちバリバリ働いて華々しい人生に突入するぞう、と。
それでいて、多少の無理と我慢をおして立ち上がろうとはしない。
こんな私につける薬はありません。
たとえば、メール1通書くのにさえ、何日もかかります。何日もぶっ続けで書き続けるという意味ではなく、何日も(どうかしたら何年も)なおざりにしてしまう(書き始めない)のです。借金の申込とか借金申込への断りなどのややこしい用件ならともかく、送信済みトレイからコピペして数十秒でできあがる簡単な内容であっても、です。
忘れているだけならただの脳天気ですみますが、あのメール早く片づけなきゃといつも心の隅に引っかかっていて、夢にまでみるのです。せっせとメールを書いている夢から醒め、メールが仕上がっていないことを知ったときの疲労感は、あらためてメールに取り組む気力を失わせてしまいます。
どうして私はメールいっこ書けないほどのグズなんだろ、そうだ、図書館に行ってグズ対策本でも読んでみよう。こういうときだけやけに身軽にホイホイ出かけてしまう。そんなヒマがあるならさっさと書いて出せば解放されるのに。
そういうわけで、目についたグズ本は片っ端から読みました。
今や私はグズのエキスパート。ますますグズ道を究めつつあります。
筆頭は『グズをなおせば人生はうまくいく ついつい“先のばし”する損な人たち
なんと魅力的なタイトルでしょう。これで人生がうまくいったかた、おめでとうございます。
『グズをきっぱりやめるコツ!』(ジェーン・ブルカ+レノーラ・ユエン)
グズな著者によるグズ脱却の指南。本書が完成したのは締め切りから2年後だったとか。えーっ、大丈夫?
『今日できることを、つい明日に延ばしてしまうあなたへ』(ウィンディ・ドライデン)
長年グズピープル指導を行ってきた人による実践的な本で、本人は全くグズでないと豪語しています。
人がやるべきことを先延ばしする理由を分析し、心理面からの解決策を提示。考え方を変えなければなおらないということ。
この本では「グズ」という言葉は使われていません。
『グズの人にはわけがある』(ランダ・サパディン+ジャック・マガイヤー)
グズのタイプを6つに分けて分析。それぞれ対処法が違います。
『「あとでやろう」と考えて「いつまでも」しない人へ』(和田秀樹)
「のろま」受難の時代を乗り切る仕事術、つまりビジネス書です。「グズ」はわりと愛嬌あるけど、「のろま」ってのはグサッとくる表現じゃないかなあ。
『あなたはなぜ段取りが悪いのか』(渋谷昌三)・・・副題『要領がよくなる心理学』
万事モタモタしてうまくやり遂げられない人へ、心理面からアドバイスしています。私に言わせれば、この本自体、あまり要領を得ないように感じられ、段取りが悪い見本のようです。
『キッパリ! たった5分間で自分を変える方法
ミリオンセラーの人気本だから、手に取ったことのある人も多いはず。
一見グズとは関係がなさそうですが、『だらだら地獄を抜け出す』きっかけとなる小さな行動の提案です。『難しい仕事はカンタンな仕事をひとつ終えてからすぐにとりかかる』など、グズ対策の実践的項目もいろいろ。冒頭の『脱いだ靴はそろえる』のような些細なことでも、『あとで、ではなく、その場でやる』習慣を身につける第一歩なのだと。
こうしてみると、グズ本には海外の著書が意外に多い。グズで悩む人々は全世界に分布しています。
概してあちらの書は論理的・分析的で、本気でグズをなおしたい人々のために書かれた専門書って感じ。あまりかたくならないよう、訳者も苦労しているようです。
日本人の手になるものは、情緒的でやや未整理、読み物としては面白く、読めば納得するけど、グズ脱却にはあまり結びつかないような気もします。
英語でグズは“procrastination”といいます。正確な訳は「遅延、先延ばし」(“cras”は「明日」という意味)。
日本語のグズ(愚図)は「行動がのろいこと」です。ぐずぐずすることと先延ばしすることはたいていくっついているから、ひとくくりにできそうですが、世の中には先延ばしせず直ちに着手しても、あまりに不器用で要領が悪いからいつまでも仕上げることができない「真正グズ」だって存在します。
私がメールを書けないのは純粋な「先延ばし」です。汚れた食器をためこむのも「先延ばし」ですが、いざ洗い始めると、とろくてやたらと時間がかかるから、二重のグズなのです。
一般のグズ本が問題にしているのは「真正グズ」よりも、やるべきことを先延ばしまたは放置してしまう習癖です。そのために自分も損をし、周囲にも迷惑をかけていて、本人もすぐにやればいいことはわかっているのに、なぜか絶対にとりかかれないという厄介な症状なのです。症状? 確かにグズは一種の病気だ。
人がものごとを先延ばしする心理は性格によって違ってきます。
その分類を見ると、まさしく私はこれだーというのやら、これも多少は当てはまるぞ、など、けっこう思い当たります。
強制されるのがイヤ、なんでも自発的にやりたいんだというタイプは、命令されたことをやりたがりません。職場では完全なダメ社員。
私がメールの返信を放置するのも、返事を強要されているように感じるからかもしれません。ならばホームページなどさっさと削除して、メールが来ないようにしろ。
スリルを味わいたくてギリギリまで手をつけない人々もいます。
夏休みの宿題を最後の1日で仕上げるのが常だった私は、典型的スリル派のようです。その裏には、もしそれが間に合わなかったり、出来が悪かった場合、早くからやっていればもっと良い結果を出せたはずという言い訳を隠しているのです。
自分もグズ本を読破してグズをなおそうとお考えのグズさん、いまだに私がグズのままであるという事実は、いくら本を読んでもグズはなおせないことを証明しています。読むだけ時間の無駄ですよ。
要は私、単なる怠け者なのです。先延ばしする理由も半端ながら分析できていて、それは苦あれば楽ありに記載したので、ここでぐだぐだ述べません。
留意すべきは、どんなグズでも、万事にグズなわけではないってこと。
私だって3度のごはんは遅滞なく食べますし、目先のメールを放置して図書館に行く行動力はある。生存に必要なこと、好きなことならちゃんとできるのです。
嫌いなこと、したくないことを先延ばししてもいちおう生きていける恵まれた環境が、グズを育てているというわけ。
ほんとうに「恵まれた環境」なら申し分ないのですが、私の場合、自己実現にはほど遠い、最低限の生活しかできていません。
人がそれなりのことを成し遂げるには、多少の無理と我慢が求められます。その「多少」に耐えられないから、いつまでもダメ人間に甘んじるはめになるのです。
とはいえ、実のところ、私は真に自分が「ダメ人間」だとは思っていません。昨日もできなかった、今日も怠けてしまった、と後悔の連続にありながら、明日こそは必ずちゃんとやって、すべてが好転するだろうと楽観しているのです。Tomorrow never comes という真理を延々と実践しているだけなのに。
そんなとき手に取った本『読んだらきちんと自分の知識にする方法』(宮口公寿)。読む片端から忘れてしまう私には、ズキンとくるタイトルなのでした。
が、案の定、自分の知識にはならず。ただ、procrastinationが成功への唯一の障害だというあたりは納得。
そしてこの本で一番印象に残ったのは、著者の姿勢です。『人生はチョロい。でも、もし失敗したら気のせいと思え』とかなんとか。
この底抜けの楽天主義、まさしく私の生き方と同じではないか。
ひとつ大きな違いは、向こうは成功者、こっちは敗残者ってこと。・・・などと自嘲しつつ、やっぱり私は決して真の敗残者ではないと思っています。今は敗残者に見えたとしても、そのうちバリバリ働いて華々しい人生に突入するぞう、と。
それでいて、多少の無理と我慢をおして立ち上がろうとはしない。
こんな私につける薬はありません。
投稿者:ルノ 14:19
| 人生燻
2011年12月27日
私まだ生きてます
今年の私を漢字一字で表すなら、『惰』でしょうか。
いや、『堕』がピッタリかな。『駄』もあるぞよ。
なんで、ダばかり集めるんだ? これが運命って気がして。ダダダダーン。
ともあれ、ある日突然、生まれ変わったようにバリバリ働き始めるなんてのは、凡人には無理ですよ。
いや、『堕』がピッタリかな。『駄』もあるぞよ。
なんで、ダばかり集めるんだ? これが運命って気がして。ダダダダーン。
ともあれ、ある日突然、生まれ変わったようにバリバリ働き始めるなんてのは、凡人には無理ですよ。
投稿者:ルノ 22:00
| 辞書と戯れる
2011年02月27日
難しゅうございます
大盛況らしいツイッター、私はいまだに見たこともやったこともありません。ブログなど抱えているだけで精一杯なのに、これ以上手を出す余裕などないに決まってます。
この「余裕がない」はあいまいさが便利で、弁解に当たってよく使います。内心では「精神的な余裕」を指していて、要はやる気がないってことだけど、相手は「時間がない=忙しい」と受け止めてくれるだろうと期待してるんだよね(このへん、個人的つぶやき)。
ツイッターは「短文のつぶやき」って形だそうです。一般に「つぶやき」は独り言などに用いられ、他人に聞かせるものではなかったはず。
他人に読ませるものではなかった日記が、ウェブで公開を前提としたとたん発展・増殖していったのと同じような経過をたどっているのでしょう。
いちおう「つぶやき」という建前に気楽さがありそうですね。
普通、人は「ですます体」でつぶやいたりはしません。タラちゃんじゃないんだし。
しかしながら、半数以上のツイッター利用者がそれなりの文体を使っているだろうと推測します。ブログよりはくだけているとしても、公開するものである以上、あまりにぶっきらぼうだと、「このヒト、何様?」とか感じる人が出てきてやりにくいからです。
敬語が嫌いな私も、丁寧語はまあまあ便利なものだと思っています。ちょっとした防護服のようなもの。
丁寧語は聞き手・読み手に対して敬意をあらわす(または距離を置く)ものです。その基本が「ですます体」ということでしょうか。文末を「です」や「ます」で終える形式。「だ」「である」を「です」や「ます」に変えれば、とりあえず丁寧になるから、簡単といえば簡単です。もっと丁寧にするときは「ございます」となります。
その「です」はどんな語にも無条件でつけることができるかというと、むろんブンポーにのっとる必要があります。
たとえば、「きれいですね」も「美しいですね」も、日常の話し言葉では特に違和感なく言い聞きしていますが、この両者、決定的に違うのです。
「きれい」は形容動詞、「美しい」は形容詞です。形容動詞には「です」をつけることが可能ですが、形容詞にはつきません。「美しいです」は文法的に間違っているのです。
じゃあ、なんと言えばいいんだ?
「美しゅうございます」もしくは「美しゅう存じます」が正解。ひえっ。今どきそんな気取った言葉遣いする人なんかいるかよ。
形容詞に関しては、「美しい」からいきなり死語に近い「美しゅうございます」になって、中間がないという、たいそう不自由な空白を生じているのです。これは日本語の欠陥といえます。
尊敬語では「食う」→「食べる」→「召し上がる」→「お召し上がりになる」など、敬意に応じて段階があるのに(この上の「お召し上がりになられる」はNGだす)。
しいて「です」をつけるなら、「美しいのです」となりますが、ちょっと説明的というか、ニュアンスを考えると常に置き換え可能とは限りません。
文法的に間違いとはいっても、文章的に間違いってわけではありません。すでに広く使われていて、『文部省追認形』として認められています。「行きたいです」などはまだ非推奨のようですが。
「ら抜き」に嫌悪感を示す堅物でも「形容詞+です」は普通に使うことが多いようです。
そんなふうに口語ではなんとも感じませんが、手紙やメールなど書き言葉にすると、どうも稚拙な印象を与えます(そう感じる人は減ってきているとは思いますが)。「美しいと思います」など回りくどい表現にしたり、名詞化して「美しさが際立ちます」とかに変えたりで対処する人もいるでしょう。
言葉はめまぐるしい勢いで変化しつつあります。文法的些末事をゴチャゴチャ言う人もそのうちいなくなると願いたいものです。
この「余裕がない」はあいまいさが便利で、弁解に当たってよく使います。内心では「精神的な余裕」を指していて、要はやる気がないってことだけど、相手は「時間がない=忙しい」と受け止めてくれるだろうと期待してるんだよね(このへん、個人的つぶやき)。
ツイッターは「短文のつぶやき」って形だそうです。一般に「つぶやき」は独り言などに用いられ、他人に聞かせるものではなかったはず。
他人に読ませるものではなかった日記が、ウェブで公開を前提としたとたん発展・増殖していったのと同じような経過をたどっているのでしょう。
いちおう「つぶやき」という建前に気楽さがありそうですね。
普通、人は「ですます体」でつぶやいたりはしません。タラちゃんじゃないんだし。
しかしながら、半数以上のツイッター利用者がそれなりの文体を使っているだろうと推測します。ブログよりはくだけているとしても、公開するものである以上、あまりにぶっきらぼうだと、「このヒト、何様?」とか感じる人が出てきてやりにくいからです。
敬語が嫌いな私も、丁寧語はまあまあ便利なものだと思っています。ちょっとした防護服のようなもの。
丁寧語は聞き手・読み手に対して敬意をあらわす(または距離を置く)ものです。その基本が「ですます体」ということでしょうか。文末を「です」や「ます」で終える形式。「だ」「である」を「です」や「ます」に変えれば、とりあえず丁寧になるから、簡単といえば簡単です。もっと丁寧にするときは「ございます」となります。
その「です」はどんな語にも無条件でつけることができるかというと、むろんブンポーにのっとる必要があります。
たとえば、「きれいですね」も「美しいですね」も、日常の話し言葉では特に違和感なく言い聞きしていますが、この両者、決定的に違うのです。
「きれい」は形容動詞、「美しい」は形容詞です。形容動詞には「です」をつけることが可能ですが、形容詞にはつきません。「美しいです」は文法的に間違っているのです。
じゃあ、なんと言えばいいんだ?
「美しゅうございます」もしくは「美しゅう存じます」が正解。ひえっ。今どきそんな気取った言葉遣いする人なんかいるかよ。
形容詞に関しては、「美しい」からいきなり死語に近い「美しゅうございます」になって、中間がないという、たいそう不自由な空白を生じているのです。これは日本語の欠陥といえます。
尊敬語では「食う」→「食べる」→「召し上がる」→「お召し上がりになる」など、敬意に応じて段階があるのに(この上の「お召し上がりになられる」はNGだす)。
しいて「です」をつけるなら、「美しいのです」となりますが、ちょっと説明的というか、ニュアンスを考えると常に置き換え可能とは限りません。
文法的に間違いとはいっても、文章的に間違いってわけではありません。すでに広く使われていて、『文部省追認形』として認められています。「行きたいです」などはまだ非推奨のようですが。
「ら抜き」に嫌悪感を示す堅物でも「形容詞+です」は普通に使うことが多いようです。
そんなふうに口語ではなんとも感じませんが、手紙やメールなど書き言葉にすると、どうも稚拙な印象を与えます(そう感じる人は減ってきているとは思いますが)。「美しいと思います」など回りくどい表現にしたり、名詞化して「美しさが際立ちます」とかに変えたりで対処する人もいるでしょう。
言葉はめまぐるしい勢いで変化しつつあります。文法的些末事をゴチャゴチャ言う人もそのうちいなくなると願いたいものです。
2011年01月31日
皿洗いをバカにする心理
私は皿洗いが嫌いです。ついためこんでしまいます。
とはいえ、ウォーショースキーにならって、きれいな食器がなくなるまで洗わないでおくには、我が家には食器が多すぎ、キッチンは狭すぎます。3日分の汚れ物を積み上げると、まな板を置くスペースもなくなり、料理もできません(もともとあんまりしないけど)。
結果として、しぶしぶながらもけっこうこまめに洗っています。日に3度片づけるのを当然としている人々からは「それがこまめか?」とひんしゅくを買う頻度ですが。
世の中に皿洗いが好きと断言する人は少数派でしょう。毎食後ささっと片づけるのは、むしろ嫌いだから、が本音のはず。
そしてまた、私が食器を洗うようすを見た人は、「ほんとうに嫌いなんだろうか」と首をかしげるかもしれません。
それほど私の洗い方は丁寧です。箸などまとめてガシャガシャと洗うなんて論外で、1本ずつ何度もなでさすります。すすぎも完全に洗剤を落としたスポンジと流水で、なっとくのいくまで仕上げ洗いをし、指先で表面の感触をくまなく確かめてから食器かごへ。
つまりやたらと時間がかかるのです。だから重労働。だから洗いたくない。だからためこむ。だから重労働という悪循環。
重労働ゆえ、茶碗洗いに当たっては、覚悟を決め、エイヤッと気合を入れてから始めます。この時期なら、まず暖房を止めます。それから上着を1枚脱いでエプロンをかけます。
エアコンを切るのは、台所まで温風が届かないし、食器洗いのような「非生産的」「単純作業」時に貴重な電気を無駄遣いしたくないという事情もあります。縫い物やブログ書きは仕事だから(えっ、これも仕事か・・・いちおう)、電気代を費やして温度調整をすることに後ろめたさがないのです。
しかしそれのみにあらず。
洗い物をしていると、体があったまるのです。1枚脱ぐのはそのため。夏場は扇風機をそばに寄せて強風をかけます。
このこと、自分でもちょっと不思議でした。肉体労働とはいえ、一か所に突っ立って手先しか動かさないのに。
ちなみに、この厳寒期でも、お湯はいっさい使いません。すすぎがあまりに丁寧だから、お湯を出すと、温水器が空っぽになって、お風呂に入れないおそれがあるのです(むかーし、1度経験済み)。
皮膚が切れるような流水で延々すすいでいると、手は真っ赤になり、指先の感覚が薄れてきます。冷気が手から体へ這い登って全身が凍りついてもおかしくないのに、なぜか体はぽかぽか。そのうち、手の冷たさも平気になります。
シンクも壁もピカピカに磨いて、洗い物終了。手を拭くと、指先には急速に血行が戻って、あっという間に手もぽかぽか。わりと爽快な気分です。
このスッキリ気分で、さあ、やリかけのぬいぐるみを一気に仕上げるぞう。と取りかかれば、次第に体は冷え、指もかじかんで手元が狂い、我が身にぶすりと針を刺してしまったり。
縫い物をするときには、どうしても暖房が必要です。
座って行う針仕事のエネルギー消費量が多少低いのは理解できますが、どちらもじっとして、動くのは手だけ。それにしては体への影響が違いすぎる。
先日、皿洗いをしていてふと思いました。体が温かいのは、脳が休んでいるからではないか。
脳はぜいたくな器官で、重量は数パーセントなのに、酸素消費量は全身の2割以上必要だと聞いたことがあります。酸素を運ぶのは血液。
単純肉体労働かつ定型作業である皿洗いでは、おツムへの血流を倹約できるから、体や手を温めるほうに回せるのです。
かたや縫い物は高度な創作行為。一見単なる手作業のようでも、緻密な脳内活動を伴います(ほんとうですっ)。大量の血液が脳に送られる分、体や手先は冷えるのです。
私が皿洗いを嫌いなのは、それがぱあでもできる低級な肉体労働だと、心の奥底で知っていたからなんだ〜と、あらためて認識したのでありました。
「何がぱあでもできる低級な肉体労働だ」
まじめできれい好きな主婦や家政婦さんや独身の方々から皿や茶碗を投げつけられそう。ス、スンマヘン。個人的こじつけですだ。
とはいえ、ウォーショースキーにならって、きれいな食器がなくなるまで洗わないでおくには、我が家には食器が多すぎ、キッチンは狭すぎます。3日分の汚れ物を積み上げると、まな板を置くスペースもなくなり、料理もできません(もともとあんまりしないけど)。
結果として、しぶしぶながらもけっこうこまめに洗っています。日に3度片づけるのを当然としている人々からは「それがこまめか?」とひんしゅくを買う頻度ですが。
世の中に皿洗いが好きと断言する人は少数派でしょう。毎食後ささっと片づけるのは、むしろ嫌いだから、が本音のはず。
そしてまた、私が食器を洗うようすを見た人は、「ほんとうに嫌いなんだろうか」と首をかしげるかもしれません。
それほど私の洗い方は丁寧です。箸などまとめてガシャガシャと洗うなんて論外で、1本ずつ何度もなでさすります。すすぎも完全に洗剤を落としたスポンジと流水で、なっとくのいくまで仕上げ洗いをし、指先で表面の感触をくまなく確かめてから食器かごへ。
つまりやたらと時間がかかるのです。だから重労働。だから洗いたくない。だからためこむ。だから重労働という悪循環。
重労働ゆえ、茶碗洗いに当たっては、覚悟を決め、エイヤッと気合を入れてから始めます。この時期なら、まず暖房を止めます。それから上着を1枚脱いでエプロンをかけます。
エアコンを切るのは、台所まで温風が届かないし、食器洗いのような「非生産的」「単純作業」時に貴重な電気を無駄遣いしたくないという事情もあります。縫い物やブログ書きは仕事だから(えっ、これも仕事か・・・いちおう)、電気代を費やして温度調整をすることに後ろめたさがないのです。
しかしそれのみにあらず。
洗い物をしていると、体があったまるのです。1枚脱ぐのはそのため。夏場は扇風機をそばに寄せて強風をかけます。
このこと、自分でもちょっと不思議でした。肉体労働とはいえ、一か所に突っ立って手先しか動かさないのに。
ちなみに、この厳寒期でも、お湯はいっさい使いません。すすぎがあまりに丁寧だから、お湯を出すと、温水器が空っぽになって、お風呂に入れないおそれがあるのです(むかーし、1度経験済み)。
皮膚が切れるような流水で延々すすいでいると、手は真っ赤になり、指先の感覚が薄れてきます。冷気が手から体へ這い登って全身が凍りついてもおかしくないのに、なぜか体はぽかぽか。そのうち、手の冷たさも平気になります。
シンクも壁もピカピカに磨いて、洗い物終了。手を拭くと、指先には急速に血行が戻って、あっという間に手もぽかぽか。わりと爽快な気分です。
このスッキリ気分で、さあ、やリかけのぬいぐるみを一気に仕上げるぞう。と取りかかれば、次第に体は冷え、指もかじかんで手元が狂い、我が身にぶすりと針を刺してしまったり。
縫い物をするときには、どうしても暖房が必要です。
座って行う針仕事のエネルギー消費量が多少低いのは理解できますが、どちらもじっとして、動くのは手だけ。それにしては体への影響が違いすぎる。
先日、皿洗いをしていてふと思いました。体が温かいのは、脳が休んでいるからではないか。
脳はぜいたくな器官で、重量は数パーセントなのに、酸素消費量は全身の2割以上必要だと聞いたことがあります。酸素を運ぶのは血液。
単純肉体労働かつ定型作業である皿洗いでは、おツムへの血流を倹約できるから、体や手を温めるほうに回せるのです。
かたや縫い物は高度な創作行為。一見単なる手作業のようでも、緻密な脳内活動を伴います(ほんとうですっ)。大量の血液が脳に送られる分、体や手先は冷えるのです。
私が皿洗いを嫌いなのは、それがぱあでもできる低級な肉体労働だと、心の奥底で知っていたからなんだ〜と、あらためて認識したのでありました。
「何がぱあでもできる低級な肉体労働だ」
まじめできれい好きな主婦や家政婦さんや独身の方々から皿や茶碗を投げつけられそう。ス、スンマヘン。個人的こじつけですだ。
2011年01月03日
門松は冥土の旅の
個人的には正月なんて全然めでたいものではありませんが、長い間に定着した社会のしきたりにイチャモンをつける気などさらさらなく、現に昨日も某所であけおめしてきました。
しましま、こーゆー性分ですから、お正月はどうしてめでたいのか、私なりに考えてみることにします。
一般に、おめでとうという言葉をかける相手は、ノーベル賞や金メダルや福引の一等など、幸運や努力の結果、何か特別なよいものを得た人です。結婚、新築、創業、進学、昇進なども同様。これらは納得がいきます。
祝う人と祝われる人はいちおう線引きされています。
それに対して正月は特定の誰かを祝うものではありません。運が悪かろうと、怠けていようと、万人に公平に訪れます。
正月という特定の時期を祝うものなのです。
クリスマスは正月に似てはいますが、イエスさんという明確な対象がいます。
おお、それで不思議に思ったのは、誕生日を祝うのはなぜでしょう。
誕生日のいったい何がめでたいんですか?
幼いころは、1年間無事に生き延びて成長したという実感が(まわりには)あっても、現代日本では特別なことともいえず、本人の努力の成果でもないでしょう。
一定の年齢を過ぎると、とりわけ女性は、誕生日なんかちっともめでたくない気分に、いや、恐怖の的とさえなってしまいます。
誕生日を祝う風習は、おそらく近年、西欧から入ってきたものです。昔の日本では数え年が一般的で、個人の誕生日など問題にならなかったと思われるからです。
誕生日のおおもととなる、実際の誕生、これはめでたいものです。ほとんどの両親が我が子の誕生を嬉しく思うに違いありません。
そのめでたい気分を再現しようと、毎年の同月同日にお祝いをするというのが趣旨ではないでしょうか。結婚記念日などと同様です。
そうしてみると、誕生日にプレゼントをもらうのは本人ですが、ほんとうは両親を祝うべきだと思うのです。
少なくとも、自分の誕生日は両親へ感謝の気持ちを新たにする日だと思い直せば、年をとるのがいやだーというマイナーな感情を払拭できるかもしれません。
正月も一種の記念日ってとこでしょうか。その国の誕生日みたいなもので、それは建国の日みたいに厳密でない、つまり数え年の日。
だから国民ひとりひとりが自分を祝おうってことです。
お年玉をもらえるからめでたいと思ってる子どもたち、正月がめでたいからお年玉をもらえるんだぞ。
昔はその年のツケがチャラになるとかで、年末には借金取りから逃げ回る光景が見られたとか。うまく逃げ延びれば、正月はめでたしめでたし、ですなあ。だけど踏み倒し族に同調して国中がめでたがるのは本末転倒。正月がめでたいから借金も恩赦にしようってことでしょう。
商売人にとって正月はめでたいどころじゃないし、実際にどうだったのかよく知りませんが。
ともあれ、それくらい我が国では、正月を特別な日としてきたのです。
新年を祝う行事は世界中いろんな国で行われますが、日本ほど極端に雰囲気が変わる国は珍しいように思います。
全国いっせいにお正月モードになり、多くの日本人が自分が日本人であることを思い出すようにしむけられるって印象。着るものの食べるものも「和」に回帰しちゃうんですからね。太陽暦なのに。
お祭りだからそれでいいんです。
特別なことをするとお金がかかります。正月は人が動き、お金が動き、経済効果は莫大です。
毎日がお正月ならいいのになー。それではお祭りの意味ないだろ。
相変わらずしょうもないゴタクを並べている私って、1年中おめでたい人なのですよ。
しましま、こーゆー性分ですから、お正月はどうしてめでたいのか、私なりに考えてみることにします。
一般に、おめでとうという言葉をかける相手は、ノーベル賞や金メダルや福引の一等など、幸運や努力の結果、何か特別なよいものを得た人です。結婚、新築、創業、進学、昇進なども同様。これらは納得がいきます。
祝う人と祝われる人はいちおう線引きされています。
それに対して正月は特定の誰かを祝うものではありません。運が悪かろうと、怠けていようと、万人に公平に訪れます。
正月という特定の時期を祝うものなのです。
クリスマスは正月に似てはいますが、イエスさんという明確な対象がいます。
おお、それで不思議に思ったのは、誕生日を祝うのはなぜでしょう。
誕生日のいったい何がめでたいんですか?
幼いころは、1年間無事に生き延びて成長したという実感が(まわりには)あっても、現代日本では特別なことともいえず、本人の努力の成果でもないでしょう。
一定の年齢を過ぎると、とりわけ女性は、誕生日なんかちっともめでたくない気分に、いや、恐怖の的とさえなってしまいます。
誕生日を祝う風習は、おそらく近年、西欧から入ってきたものです。昔の日本では数え年が一般的で、個人の誕生日など問題にならなかったと思われるからです。
誕生日のおおもととなる、実際の誕生、これはめでたいものです。ほとんどの両親が我が子の誕生を嬉しく思うに違いありません。
そのめでたい気分を再現しようと、毎年の同月同日にお祝いをするというのが趣旨ではないでしょうか。結婚記念日などと同様です。
そうしてみると、誕生日にプレゼントをもらうのは本人ですが、ほんとうは両親を祝うべきだと思うのです。
少なくとも、自分の誕生日は両親へ感謝の気持ちを新たにする日だと思い直せば、年をとるのがいやだーというマイナーな感情を払拭できるかもしれません。
正月も一種の記念日ってとこでしょうか。その国の誕生日みたいなもので、それは建国の日みたいに厳密でない、つまり数え年の日。
だから国民ひとりひとりが自分を祝おうってことです。
お年玉をもらえるからめでたいと思ってる子どもたち、正月がめでたいからお年玉をもらえるんだぞ。
昔はその年のツケがチャラになるとかで、年末には借金取りから逃げ回る光景が見られたとか。うまく逃げ延びれば、正月はめでたしめでたし、ですなあ。だけど踏み倒し族に同調して国中がめでたがるのは本末転倒。正月がめでたいから借金も恩赦にしようってことでしょう。
商売人にとって正月はめでたいどころじゃないし、実際にどうだったのかよく知りませんが。
ともあれ、それくらい我が国では、正月を特別な日としてきたのです。
新年を祝う行事は世界中いろんな国で行われますが、日本ほど極端に雰囲気が変わる国は珍しいように思います。
全国いっせいにお正月モードになり、多くの日本人が自分が日本人であることを思い出すようにしむけられるって印象。着るものの食べるものも「和」に回帰しちゃうんですからね。太陽暦なのに。
お祭りだからそれでいいんです。
特別なことをするとお金がかかります。正月は人が動き、お金が動き、経済効果は莫大です。
毎日がお正月ならいいのになー。それではお祭りの意味ないだろ。
相変わらずしょうもないゴタクを並べている私って、1年中おめでたい人なのですよ。
