2007年09月30日

したい時には親はなし

先日の記事で、幼いころ感じた死の恐怖に触れ、おとなになっても「死は最大級の恐怖」と述べました。
人は、生物は、ほぼ例外なく死を恐れます。死をもたらしそうなものを本能的に回避しようと努めます。
生物は生きているから生物であり、死んだら「生物」ではなくなって、存在意義を失うのです。

それにしても、死はほんとうに怖いことなのでしょうか。

幼少時の思い出をきっかけに、改めて「死」に思いを馳せてみても、「恐怖」が実感として湧いてこないのです。歳月は流れ、死はすぐそばまで来ているのに・・・。
もはや「ジタバタしたってしょうがないじゃん」て感じ。それは誰にでも平等に訪れるのだから。
死が避けられないからこそ今を大切に生きよう。などと人生訓の書は説くのでしょうが、別に気負うのでもヤケになるのでもなく、淡々と余生を過ごしましょう・・・ワハハ、これが悟りか。

そんなことよりも、もっと現実的で差し迫った問題があります。

親の死。

親が死ぬのは順当であるし、これまた致し方ないとは思うが、葬式などといった形式ばったものが大嫌いなんです。
墓は本人が用意してくれているし、式だの香典返しだのは一過性のものだからなんとか耐えるとして、もし死ぬまでに延々介護の問題が生じたら・・・悲惨です。介護はするほうもされるほうも地獄。想像だけで気が遠くなりそう。
先手を打って死にたくなっちゃうかも。親に葬式を出させるのは最大の親不孝らしいけど。

とまあ、埒もないことを夢想しておりましたら、昔ウェブで知り合った人からメッセージが届きました。
だいぶ前にサイトを畳んで消息不明だったので、ちょっと心配していました。ご本人はいちおう元気らしいけど、親御さんが亡くなったとの由。それだけがウェブから消えた理由ではないようですが、『HP作成に費やした膨大な時間があればもっと親孝行できたのではと、後悔の念で自虐的な日々を送っている』とか・・・。

他人事ではない気持ちになりました。極めつけの不孝人生を歩む立場として。

あえて他人事として言わせてもらえば、身近な人の死に直面すれば、まともな人間なら誰しも悔やむものです。
「ああすべきだった」「こうしてあげることもできたはず」「あんなことを言わなければよかった」云々。材料は無限に湧き出でます。
とりわけ相手が親だと、さんざん親不孝を重ねてきた記憶がずっしりのしかかってきます。
精一杯親孝行してきたように見える人々さえ、悔やまずにはいられないのが人情です。
人間はそうできているのであって、解決してくれるのは時の経過です。

手痛い経験から教訓を得て次の行動に反映させることは、人間だけでなく、狼にもプラナリアにもできます。
しかし教訓を伴わない、非生産的で後ろ向きな「後悔の念」はおそらく人間だけが持つのではないでしょうか。

その後悔はいったい誰のためのもの?
死んだ人は何の感情もないのだから、責めたりはしません。責め立てるのは自分です。自責が自己憐憫になり自己満足(こんなに悔やんでいる自分は善良な人間だと慰める)と入り混じって、自分の内部で堂々巡りをしている状況・・・辛辣に言えば、後悔は人のためでなく、自分の「気を済ませる」儀式なのでしょう。

そしてふと思う。
介護の苦労というものは、最後に親孝行をした気分にさせてくれる方便かもしれないな。

個人的にはそんな方便に振り回されるなんざまっぴらだ。
だから親には、元気で生きてポックリ逝くための健康情報をあれこれ説いているのだけど、ちっとも実行してくれません。

親不孝を(気分的に)正当化する手段ならほかにもあります。
自分が親不孝なのは親孝行する能力を授けなかった親のせいだ、とか。

あるいは子供のころ受けたひどい仕打ちを数え上げてみる。
親ってのは子供のココロなんか全然わかっちゃくれなくて、弱者である幼子を不条理な権力で押さえつけるんですよね(でも親不孝を後悔する年齢になると、わかっちゃくれなかった事情がわかっちゃう場合もある・・・それを我が子への理解に応用する人は少ないが)。

積極的に何かしたというのでなくとも、自分を産んだことそのものが悪だ、愚行だと思ったことってありませんか? 青春時代にはそんな怒りに駆られて、親を恨み、憎む人が少なからずいると思います。自分にさしたる才能がないことを嘆くゆえの一時的な感情かもしれません。中にはそれが高じて、こんなに恨まれちゃかなわん、自分は絶対にコドモなんか作らないぞと心に誓ったり・・・。

・・・こんなことをあらかじめうじうじと考え続けている私は、きっと後悔するでしょう。
投稿者:ルノ 23:45 | コメント(2) | トラバ(0) | 生老病死
2007年09月27日

サラダ貯金日

ページタイトルをつけるに当たって、意味不明の語句や、内容と無関係な単なる語呂合わせを選ぶことが時々あります。

タイトルは検索の最重要項目です。それが不適切だと訪問者を惑わせたり不愉快にさせたりしかねません。本人にとっても、本来獲得すべきアクセスを逃すわけで、何のメリットもなーい。

「おつむてんてん」の意味を問われてもねえ・・・赤ちゃんや幼児をあやす言葉でしょ? 「おつーむ・てん・てん」と言いながら、おでこをつついたりするんでちゅ。
なお、おつむの「つむ」は、つむり(頭)の略だそうな。なぜ頭がつむりなの? それは丸いから。円(つぶら)→つぶり→つむりと変化したのです。余談でした。

ま、アクセス数がすべてじゃないし、たとえ適切に検索してやってきた人でさえ得るものはない趣味の産物なんだから、たまには遊んだってよかろうもん。
とへらへら構えていたら、ワードサラダというスパムの存在をこのごろ知りました。

ワードサラダとは、文法的には正しくても全く意味をなさない文章を指します。人気検索語を組み合わせて訪問者を呼び込むわけです。

キーワードを羅列するスパムは昔からありました。特にアダルト方面。
サーチエンジンが進化してそういった手法が通用しなくなったので、苦し紛れに助詞でつないだり語尾を活用させたり修飾語をはさんだりして、文法ミスのない文章にしたのが、ワードサラダの発端でしょう。
訪問者は無意味な文面に怒り、踵を返しますが、お土産にアフィリエイト味のクッキーなどを持ち帰ってしまうのです。

私自身は典型的なワードサラダページを実際に見たことはありません(日本語でも英語でも・・・というか、私にとって英文はすべてword saladだ)。
具体的な文例や詳細について興味をお持ちのかたは、自分で調べてみましょうね。

ワードサラダの古典は『手術台の上のミシンとこうもり傘』あたりじゃないかしらん。
出会いのこうもり傘は偶然に美しいミシンの上の手術台のようだ。にしてみよか。

つと、今後Gさんがワードサラダ追放キャンペーンを始めたら、自作の前衛詩を載せたり、人のを引用したらアブナイってこと?
心配には及びません。ポテトサラダかコールスローか判別できるほどコンピュータが賢くなるのはうんと先です。

クッキー嫌いの私に言わせれば、アフィリエイトプロバイダがしっかりしたシステムを構築すれば済む話なんだけどな。

一部ブログの機能に「タグクラウド」というものがあります。ページに関連したキーワードが重要度に応じて大小の文字で表わされ、雲みたいに固まっています。ページのジャンルや傾向が判断でき、同種のページに行けるらしいのだけど、私は使ったことがありません。
最初ワードサラダと聞いたとき、なんとなくそれを思い浮かべたのです。サラダボウルから言葉があふれているように見えませんか?

雑多なワードのてんこ盛りをサラダとは言い得ているようですが・・・。

一般にサラダ(salad)の語源は塩(salt)といわれます。野菜に塩を振って食べたのがサラダの始まり。
とあるサラダ料理本を見たら、語源は甲(かぶと)だと書かれていました。戦場で兵士たちがヘルメットをボウル代わりに野菜を食べたのだと。
日本語のサラダという言葉はフランス語のサラダ(salade)から来ているようです。
一方中世にはsaladeまたはsalletと呼ばれるかぶとがありました。語源は別らしいので、サラダ本は混同したのかもしれませんが、実際のところは知りません。

まあつまり、いろいろ取り合わせなくても一種類の野菜だけでじゅうぶんサラダになるのです。そんなわけでこの記事にはサラダを20個。しかもタイトルと内容が一致していますだよ。サラダを貯金したら腐るでしょうね。
投稿者:ルノ 22:37 | コメント(4) | トラバ(0) | ちょっとSEO
2007年09月14日

清濁併せ呑む

「Tバックビキニの作り方」にリンクしているページにアクセス解析を入れてみると、「バックの作り方」や「布のバック」などで検索して訪れる人が毎日幾人もいました。
私に責任はないにしても、なんとなく申し訳ない気分。あなたが求めるバックは当サイトにはありませんよ。おきのどくさま。

少なからぬ人々がハンドバッグやショルダーバッグなどのバッグをバックと呼び、そう書くようです。
スーパーに「エコバック48円」というポップがあっても驚かないが、カバン屋さんで「この秋の新作バック」となると、いやはや。

同様にダブルベット、ビックイベントなどよく見かけます。ブルドックソースのマークは犬のブルドッグだそうで、人の名前さえデビットボウイと澄ましちゃうのを見ると、日本人は濁音を汚いものとして減らしたがっているのかと疑いたくなります。

むろんそうでないことは、アボガドやジャガード(Jacquard)やハンフリー・ボガードなどが示しているのであります。どっかでキャスチングボードというのを見たけど、これは単なる・・・。
言い易さを狙ってそうなったのでしょうか。いえいえ、アボガドはアボカドよりもっと舌をかみそう。

方言から推測すると、東北は濁りがちで九州は澄ませがちな傾向がありますが、外来語には影響しないようです。
まるきり法則がないわけではないでしょう。「聞こえるとおり」が基本、でしょうか。

英語でもkとg、dとt、sとzなどは同系列だし、発音も渾然としている点で、日本語と同様です。清濁の発音は行き来し、揺れることが多いのです。もちろん発音し易いように変化するのです。
ドレス丈が長いことを日本語でフルレングスとかいいますが、このlength、gだけどk音ぽくて、レンクスが正しい。レングスは言いにくいでしょ。もっとも、耳にした限りではgもkも聴き分ける余裕などないのでは? (レンスと聞こえる)

ジャンパースカートはまあ間違いですが、もともとが和製語だからイチャモンの対象ですらない。ドイツ語などではbをpと発音するケースもあるしね。

言葉は記号なのだから、外来語が本来の発音から離れた表記になっても、それでなじんでしまえば特に問題はありません。
記号であるがゆえに、本来の発音に近づけてレンクスと書いても通じないわけです。

バッグをバックと言ったり書いたりしても、これまで日常生活では問題なかったわけですが、インターネットが日常生活になってくると、コンピュータは言葉に厳密だからいくぶん支障が出てきます。「バックの作り方」で検索して出てきたページに、はたして「バッグ」に関する有益な情報が詰まっているでしょうか。

「アクセス解析顛末記」で、検索ワードは訪問者の要望を知る手がかりだと書きました。
その方針に沿って、今年やっと簡単なバッグの作り方ページをいくつかアップしたのですよ。でも仕上げに「バック」というワードをちりばめる気配りまでは不要だろうと軽んじていました。

が、本日実際に検索してみて、がぴょーん。
世の中には「バッグ」ではなく「バック」が正しいと思い込んでいる人のほうが多いらしいと気づきました。みんながそうだから、バッグ屋さんもバックでアピールせざるを得ないみたいです。

「バック」なんてどうせ少数派。というのは単なる思い込みだったんですねえ。またSEOの見直しを迫られそうです。
投稿者:ルノ 23:50 | コメント(6) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2007年09月13日

コンテンツな話

インターネットというものが注目され、通信によるデータの行き来が盛んになると、「コンテンツ」という言葉があちこちで使われ始めました。
ウェブ上では「コンテンツ豊富なホームページ」とか「そのサイトにはどんなコンテンツがあるんですか」などと、普通に使われていますが、改めてコンテンツとはなんぞやと問うと、いくぶんおさまりの悪い言葉であるようです。

当初、マスメディアの注釈は「コンテンツとは情報の中身」でした。
「情報の中身」・・・なにそれ? 中身があるんなら「情報の外側」も存在するんだよね?
ちらと調べたら、外側とは入れ物(気取っていえば媒体・・・情報を記録したり記憶させておく物品や場所)を指すようです。

Contentという名詞はcontain(含む、収容する)という動詞から来ています。輸送に使われるコンテナ(container)は容器のことです。ウェブマスターの皆さんは、レイアウトコンテナ(div)でお馴染みですね。
何物であれ、中身だけの存在は不安定なので、容器はあれば便利、時には必須と思われます。

パソコンを指して「あれは情報だ」と言う人はいないでしょう。
メモリーカードを「これが情報だよ」と渡されたら、その中に情報が入っていることは推定可能としても、カードそのものを情報と見なすのはなんとなく変ですね。

「情報」なんて、初めっから「中身」じゃないか。

そもそも「コンテンツ」を説明するのに「情報」を付与した点に偏りが生じたような気がします。それゆえ「情報の中身」なる奇妙な表現は数年で影を潜めたのでしょう。
中身のない状態をcontent-freeといいます。空っぽの容器なら何かを詰めて再利用できるので捨てるには及ばないけど、空っぽの情報に存在価値はありません。

ならば、情報とは何?
情報をひとことで表わすのは難しいのですが、一種の知識です。「知識」というと何やら知的で立派なものを想像しますが、情報は知識になる一歩手前の材料といったところです。
主に特定の事柄に関するおしらせ・・・どちらかといえば実利的で、片方向のイメージがあります。
情報の命は正確であること。情報というものに、美的、創造的、芸術的な要素は薄いといえましょう。

とある文学作品を読み、人生の意義について深い洞察を学んだとしましょう。何かを教えてくれたんだから、その文学は情報でしょうか。まさか。やはり芸術と呼びたいものです。
文学同様に活字が並んだものを読み、人生の意義を深く考えさせられたとして、それがニュースなら、情報に過ぎません。
別に文学は高尚で情報は低劣だと断ずるつもりは毛頭ありません。貴重な情報もクソ文学も山ほど転がっています。何かの価値を決めるのは利用者個人個人です。(えーと、我がブログは正確さに欠けるので、情報ではなくゲージュツですな。)

さて、コンテンツに戻ります。
コンテンツは「中身」です。容器、外観、形式や様式など、表面に現れたものに対する内容物ということです。目に見えるものだけに限りません。言葉の奥に潜む真意なども指します。コンテンツは情報だけではないのです。中身のあるものなら、物質もデータも芸術も哲学も含みます。

インターネット以前に私が知っていたcontentsの意味は「目次」でした。
初期のハイパーテクストTowns Gear君が「コンテンツは目次だよ」と教えてくれたのを、そのまま覚え込んでいたのです。

目次・・・それこそ「中身」とは対極に位置する、いわば「情報の外側」じゃありません?

辞書でcontentを引くと、「内容物、中身、書物などの記事、目次、内容目録」云々・・・。
内容を説明した見出しを並べたものが目次です。中身と目次が並列に扱われることには首を傾げました。
正式にはtable of contents(内容一覧)とされていたものが、上を省略してcontentsだけで一覧を意味するようになったようです。

名は体を表わす。形式は一見表面的でも、中身を指し示すことで中身も同然と見なされるのは、ある意味お約束なのでしょうね。
箱に「牛肉」のラベルがあれば、牛肉として取り扱わないと、物流は混乱し停滞します。ずるをして豚肉を詰めておいた業者は、いずれ信用を失って消滅します(希望的観測)。

ウェブにも目次(コンテンツ)だけは立派に整えられていても、いざページに飛んだら内容(コンテンツ)はお粗末きわまるというケースがまま見られます。それでは訪問者の満足を得られず、衰退してしまいますよ。
そうなんです、contentには満足という意味もあるのです。調べるほどに深みの出る言葉といえましょう。
投稿者:ルノ 23:27 | コメント(0) | トラバ(0) | 英語・英文・英会話
2007年09月11日

小さな哲学者

昔、死をひどく恐れた時期があります。たぶん幼稚園に通っていたころです。
毎晩そのことに思いを馳せ、胸苦しさに真夜中まで眠れぬときを過ごしました。

「死を恐れる」とは、むろん自分が死ぬことが怖かったのですが、どうもそれは入り口に過ぎなかったようです。
自分が死んだあとも世界は永遠に続いていくであろう。永遠とはどういうことなのだろう。私はその永遠なるものに耐えられるだろうか。えらく退屈で気が狂うんじゃなかろうか。
死ねばいなくなるんだから、「耐える」も「退屈」もないだろうに。
そのころの私は死んだあとも意識のようなものが残るというふうに受け止めていたようです。霊とか魂などととはまた別のイメージでした。実体のない「意識」だけが無限の闇をひたすら浮遊する、みたいな。底なし沼に引き込まれる感じでした。
つまり私が真に恐れたのは、止まらない時の流れに翻弄される「永遠の生」ではなかったのか。

年端もゆかぬ無知な子が、永遠だの無限だのといった抽象的な事柄について、夜も眠れないほど考え詰めるもんかね。そんな疑問が湧きますか?
実のところ私自身、正確に上記のような内容を考えたのか、もはや自信がありません。年月を経るうちに歪みが加わった可能性もあります。

それでも私は、人間誰にでもそういう時期があると確信します。

育児相談などで時たま見かけますよね。「急にうちの子が死にたくないと怯えて泣くようになりました。どう対処したらいいでしょう」という類の質問を。
きっとこのお母さん、自分にもそういう経験があったことを忘れちゃったんだ。

幼児が死を怖がるようになる直接のきっかけは、祖父母やペットなど身近な死が多いようです。本やテレビの中ではよく人が死ぬからさほど影響はないのですが、感受性の強い子どもは、時としておとなには信じがたいような些末事にショックを受けたりします。取り立てて関連事項が見えない場合もありましょう。私はどうだったのか不明。
自分の死ではなく、親きょうだいが死んでひとり取り残されることを恐れるケースもあります。

単純に自分や家族の死による家庭の崩壊を恐れているだけなのでしょうか。
死を通して人生の意味を考え始めたという説は大げさですか?

以下、個人的推測です。
幼児期における死の恐怖は、自分というものの存在をはっきり認識し、自分と他者のかかわりや距離がわかってくるころの通過儀礼のようなものでしょう。
自分が生きて暮らしているという感覚は、果てしない希望に満ちています。日常が楽しく充実していればなおのこと。
そんなふうに自己の存在を貴重だと感じると、存在の対極にあって存在を終わらせる役割を担う「死」というものについて思い及ぶとき、想像を絶する理不尽さにおののくのです。こうやって懸命に生きているのに、必ず終わりが来るなんてひどい。それでも生きなければならないのか。
「天国へ行く」とか「お星様になる」などの説明はごまかしだと直感しています。自分の目で確認できないのみならず、人が死んだら泣いたり悲しんだりするものだと、すでにドラマなどで知っているし、何よりもおとな自身が天国を信じず、死を最大級の恐怖と位置づけているのだから、説得力なし。
幼い私は無理やり死を否定すべく「永遠の生」なるものを設定してしまい、自ら混乱を招いたようにも思えます。

子どもはそうした気持ちを説明するには、語彙も知識もあわれなほど貧弱です。曲りなりにも言い表せたとして、それを理解し、納得のいく解決策を提示してくれるおとななど、まずおりません。
内面では非常に深遠で根源的なことに近づき、人生の謎を解きたいと切望しながら、表面はただ「死ぬのはイヤだ」と泣くしかないのです。

幸か不幸か、それはほんの一過性の発作です。
私もひとりで悶々としたあげく速やかに脱却し、なんの憂いもなくほかの子どもたちと遊ぶようになりました。
人は死んだらどうなるのか、永遠とはなんなのか・・・問題は全然解決していないのに。
怖かった記憶は成長の過程でしばしばよみがえりましたが、何をあんなに怖がったんだろうと、他人事同然に関心が失せたのです。そうでなければ生きてゆけませんよね。

あるいはその感覚をいつまでも持ち続けた希少な人が、長じて哲学者だの宗教家だのになるのかもしれません。
投稿者:ルノ 22:06 | コメント(2) | トラバ(0) | 生老病死
2007年09月09日

無能な検索エンジン

それはズバリ、Googleです。
世間では、Yahooのほうがひどい、救いがたいという意見のほうが多いようですが。

そうやってグーグルとヤフーを引き比べることができる我々日本人はなんと幸せなのでしょう。
海外ではGoogleの一人勝ちで、選択の余地などありません。果てしなき闇の独裁社会であります。英語サイトを運営していると、身にしみます。

以前の記事で、Googleの言論弾圧を許すな、言葉狩りハンターイ、と息巻きましたが、もちろんその主張にはおかしな点がいっぱい。

ある特定のキーワードが問題だと言うが、それらで検索したら無数のページがリストされるではないか。サマリを見た限りでは、スゴイ言葉を羅列したページも上位にあって、うちのなんかあまりに可愛くて比較にならないくらい。
そもそも検索エンジンが一語一句に価値判断や意味づけをしていたら、コンピュータがパンクします。利用者の支持も失います。

広告表示において言葉が障害になるケースは理解できます。ページ内の語句を読み取り、自動的に関連性の高い広告を選んで配信するというシステムなので、ジャンルによっては何がしかの規制をかける必要はありましょう。
つまり広告表示とインデックス削除は別問題です。私も分けて対処したつもりです。

とはいうものの、Googleに対して根強い不信感をぬぐえないのは事実です。

かなり古くてうろ覚えですが、little girlというフレーズにフィルタがかかって、そういうタイトルやドメインが打撃を受けたという話を小耳にはさんだことがあるのですよ。アブナイ男たちにとってヨダレの源だとしても、あまりにありふれて普遍的な言葉だからちょっと呆れたものです。
真偽がどうなのか、詳細を調べたわけではないけど、自分が冷遇されてみると、それを思い出して、Gならやりかねんとうなずいたりもします。

ともあれ疑心暗鬼に陥って自サイト内の言葉狩りをおこなったのは、ウェブマスターたる私でした。
ただし、問題ありそうな言葉をせっせと排除した一番の理由は、検索がどうのインデックスがどうの以前に、あまり露骨な単語を置いておきたくないというものでした。(しかしま、世の中には、そうやって置き換えたへんてこな単語を使って検索する人々があとを絶たないんですねえ・・・ならば、セッ7ス、マダノレト、パンテ人、なんてのはどうでい)

キャッシュが消えた(インデックスから削除された)のに気づいたときは蒼ざめましたが、すべてのページをチェックしたわけではありません。この貧盗恋歌の中から20ページほど抜き出したら、キャッシュがないのは6枚ほど。かなりの高率ですよね。中には過去ログなど集合ページも。ほかのサイトは未チェックです。

キャッシュが消える原因は、サーバダウンが主なものです。さくらのブログは一時期非常に不安定な状況が続いていたので、改めて思い返せばしかたない面もあります。だとしても、いかにもヤヴァげなページばかり消えたままなのはなぜだ?

言葉狩りから数日経って、『パンティをはく男たち』がなぜか復活していましたが、ほかはさっぱり。
そうなったのは偶然のようにも見えます。

次の手段として、Googleサイトマップとやらを試みました。

サイトマップを登録して2週間後には、『ブラが小さい』や『完全なる性転換』なども徐々にインデックスされたのを確認しました。消えていた間にページランクもゼロに落ちたので、新規ページと同じスタートです。改めて上位を狙うには時間もかかりましょう。

それでも全部復活してよかったじゃないか。

全部かどうかは不明ですよ。その後また消えたかもしんないけど、何度も調べるヒマなどないし。

第一、サイトマップがなければクロールもキャッシュもしてやらんなんて、検索エンジンとしてのGoogleの無能ぶりを示すにほかなりません。

Googleサイトマップとは、サイト内の全頁の更新情報などを一覧表にしてGoogleに送ると、効率的にクロールしてくれるというものです。XMLファイルを特別の場所に置かねばならぬ(実際はそう厳密ではないかも)など、一般ウェブマスターには敷居が高いと聞いていたので、全く関心がありませんでした。
サイト内のリンク構造がきちんとしていれば、クローラはリンクをたどってページを見ることができるから、わざわざそんな手間を要求するのが異常なのです。
リンクの質と数がページの評価材料だと豪語し、インターネットに新たな価値観を植えつけた本人が、そのリンクを無視し、無料とはいえ特殊なツールに頼るなんて背信行為です。

ウェブ上には簡単にサイトマップを作れるプログラムも普及しているようですが、サイトマップの存在自体を知らないウェブマスターは多いことでしょう。
どんなに良いサイトでも、インデックスされなければ検索結果に上がってこないので、Google的には「存在しない」ことになります。このような不平等を放置する限り、Googleは無能です。

そりゃあ、YahooやMSNなら黙っていても全部インデックスしてくれるというわけではありません。実態はGoogleよりはるかにお粗末だと断言する人もいます。サイトマップという方法を選べるだけGは良心的という説も外れではない。
しかし世界一のシェアを誇るエンジンなのだから、基本動作であるクロール方法の改善を、プライバシーを侵害しかねない別のマップの開発よりも優先させたってよかろうにと思いますよ。
投稿者:ルノ 23:45 | コメント(2) | トラバ(0) | ちょっとSEO
2007年09月07日

食うか食われるか

カマキリは交尾後にメスがオスを食べる。とカマキリの祈りで述べましたが、正確には「後」にとどまらず、前や最中にもそのようなことがあります。
そんなあ・・・。ことに臨む前に食われちゃったら、オスのレゾンデートルはどーなるんだ。

だいじょうぶ。
カマキリは獲物に頭からかぶりつくのです。
頭がなくても、胸までかじられても、下半身はしばらく生きているので、メスが食事に夢中になっている間に、残った部分で必要なことはやりおおせてしまいます。

てな意味のことを英語のブログには書いたのですが。
日本語ではもちょっと中身がないとねえ。以下、受け売りをいろいろ。

蜘蛛も交尾後にオスが食べられてしまうことがよくあると聞きます。ゴケグモの名の由来はそれです。
しかし自ら犠牲になるわけではなく、すきあらばちゃんと逃亡します。

ジョロウグモなどでは、少女蜘蛛の網の隅に何匹かの花婿候補が居候して、時にはご飯を分けてもらいながら、彼女が大人になるのを待ちます。そしてメスが最後の脱皮を終えてぐたっとしているときに、すかさず襲いかかるのだとか。オスはメスよりもだいぶ小さいし、それまでにオス同士で順番争いをして手足の2、3本なくしたヤツもいるから、逃げ切れないケースも多々あります。
参考文献:『クモの巣と網の不思議』(池田博明:編/文葉社/2003年)

無事逃げ延びたら、別の巣に行って再婚の機会を窺うのでしょうか。

秋にはひとつの網に2匹以上の蜘蛛がいるのをよく見かけます。
蜘蛛カップル
実はこれ、ジョロウグモかどうか知りません。
右上の黒っぽいかたまりは残飯? クモは固形物は食べず、必ず殻が残るのです。クモの残骸らしいものもけっこうあります。

そんなふうに共食いを常とする蜘蛛には、貪欲、獰猛というイメージが強いのですが、コモリグモなどに見られるように、かなり家庭的な生活をする種類も多いのです。

カバキコマチグモは草の葉を折り曲げて巣を作り、その中で子育てをします。母親は卵を守り、世話をして、最後は子どもたちに我が身を食べさせてしまいます。人間の感覚からすれば衝撃的です。虐待親に見せてやりたいもんだ。
母グモは子どもが独り立ちするころには肉体も衰えてあとは死ぬばかりだから、合理的な利用法とも思えます。
『昆虫と遊ぶ図鑑』(おくやまひさし/地球丸/1997年)には、カバキコマチグモの巣や子育ての経過写真などが載っています。

同様の献身はほかの肉食虫などにも見られます。

ハサミムシはごみの中など不潔な場所に生息し、見た目の無気味さはゴキブリにも匹敵します。が、害虫を食べるから生きた農薬としての活用法も研究されているとか。
この虫は母親が卵や幼虫の世話をするので、昔から母性愛の象徴として知られています。母虫は卵にカビや埃がつかないようにきれいになめ、孵化したら幼虫を狙う蟻などと戦って我が子を守ります。そうやって疲れきった母親を最初の食餌とすることで、子どもたちは体力をつけ、自立するのでした。
『図解雑学 昆虫の不思議』(2006年/ナツメ社)より。

当の虫たちには愛情だの残酷だのといった感傷はありません。
すべては子どものためです。それはDNAに刻印された種の保存の一環なのです。

とはいえ・・・タガメだったかな。父親が卵を背中に乗せて保護するので「子負い虫」と呼ばれています。でもこのオヤジ、孵化したとたんそのいきさつを忘れ、子虫を餌だと認識しちゃうそうな。だから子どもたちは大急ぎで逃げ出します。

所詮虫けら・・・そう思いますか?
投稿者:ルノ 23:18 | コメント(0) | トラバ(0) | 虫のいい話
2007年09月06日

穿く 履く ハクション

パンティだのスカートだのと、当ブログには「はく」話がいくつかありまして、コメントはそのあたりに集中しちゃっています。
変換機能もかかわっているのか、「履く」と打つ人、「穿く」を使う人、さまざまですね。

服飾分野ではほかに「佩く」という語があります。腰に下げたりはさんだりすることです。わが国では佩剣、佩刀などもっぱら武器を帯びることを指しますが、もともとは数珠みたいな飾りを腰に吊るすことだったようです。

で、「穿く」と「履く」はどう違うの?

「雨だれ石を穿つ」といいます。「穿」の字源は牙で穴をあける。穿孔とか穿鑿とかの熟語もそういった方面。「衣弊履穿」とはボロ服にボロ靴ということ?
なぜに「穿く」がズボンやパンツを身に着けることになったんでしょう。手持ちの小さな漢和辞典には、そういう語義は明確には記載されておらず、熟語例も穴ぼこ関連のみ。もしかして日本で意味づけされたのか。

「穿く」を国語辞典で引くと、「はかまやズボンなどに足を入れて腰から下に着ける」とあります。なるほど、穴のあいた衣装に足を通すから「穿く」なのですね。

一方の「履」は、履物(くつ)を意味します。字形の成り立ちは人が舟形の木靴をはいているようす、とな。
履物を指す漢字はいくつかあり、材料や形によって分けられます。履は主に革製の短靴で、いっとう一般的なものです。革が化ける「靴」は、どちらかというと丈長のブーツ。

古代日本では中国風なくつを履いていたようですが、次第に鼻緒のついた草履や下駄が主流となりました。夏の多湿と甲高幅広の足型に被甲型の履はつらかったのでしょうか。
明治維新以降、合わない欧米型の靴に無理やり足を押し込めてきた弊害は甚大なものがあります。いや、脱線。

履行、履修、履歴などの熟語に見られるように、「履」には「踏む」から派生したらしい「行う」「経験する」といった意味もあります。なべて人の行為はしっかり足を踏みしめることが基本となるわけです。

ともあれ「履く」は足先の靴に限定されます。穴もあいてないし。サンダルはどうなんだーと突っ込まれそうだけど、それはデザインのバリエーションに過ぎません。

靴の亜型と見える靴下はどうなのかというと、これが「穿く」なのです。新品だろうと、はき古しの穴あきだろうと。
レギンスやパンストは「穿く」が合いそうだけど、ソックスにはなんとなく納得がいきませんね。
足袋や靴下は履物ではなく衣類として扱われたということでしょうか。足袋や靴下を意味する「襪」は衣へんです(韈という異体もありますが)。
足先にかぶせるものだから、「履く」としても違和感はなく、間違いとまではいえないようです。

そんなわけで、パンツやスカートを「履く」としている表記も多数見受けますが、常用漢字外だから代用しているケースも考えられます。あまり厳密に当てはめようとすると疑問点も出てくるし、無難なのはひらがなでしょうね。

私はひらがなを含め、不統一の姿勢です。同一エリアに表記ゆれが多在することは、昔だったら許しがたいと思ったのに、ウェブ上では意識して揺らす習慣がついてしまいました。我ながらバカバカしいと思いつつも。
投稿者:ルノ 19:47 | コメント(6) | トラバ(0) | 辞書と戯れる