2007年10月28日

サンタクロースがいる

サンタクロースの存在を信じる子供たちは日本にも大勢います。小学校低学年どころか、中学生になってもいると思い込んでいたと述懐する人々だって。

身も蓋もない言い方をすれば、子どもがサンタを信じたいのは、それが自分を益する(プレゼントをくれる)からかもしれません。子どもって計算高いでしょ。

サンタの存在に関する文といえば、19世紀末、サンタを信じる8歳の少女バージニアに宛てて書かれた、ニューヨーク・サン紙の社説が挙げられます。
その中ではサンタの存在がはっきり肯定されています。『サンタクロースは誰にも見えないけれど、それはサンタがいない証拠ではない』
このコラムはあまりに有名で、日本でも多くのかたがご存じのはずです。全文を読みたい人は検索すればあちこちに出てきます。

"Yes, Virginia, there is a Santa Claus" という書き出しなのですが、中身はいくぶん形而上的で難しいとか。読解力の乏しい私にはちょっと・・・。
それよりも注目したのは、Santa Clausに不定冠詞 a がつくこと。

定冠詞や不定冠詞の使い方は、日本人が非常に苦手とするところであります。
以前『A Happy New Year の A』というコラムを書いたことがありますが、自分でじゅうぶん理解していたわけでもなくてねえ。

サンタクロースという名は子どもの守護聖人セント・ニコラス(聖ニコラウス)から来ていると言われます。
もっとも現代のサンタクロースという存在は象徴的なものであり、大文字だけど固有名詞ではありません。クリスマスセールでサンタの扮装をした人もサンタクロースと呼ばれるし、ひとりひとりは a Santa Clausですね。

とはいえ、この場合、誰でも知ってるそのサンタさんのことなのだから無冠詞であってもよさそうなのに、と思うのは、やはり英語苦手の私くらいでしょうか。

きょうはまあまあ短文で済みました。メデタシメデタシ?

フェルトのミニサンタ

なのに、蛇足。
クリスマスとサンタクロースに関する雑学の詰まった『クリスマスおもしろ事典』は、クリスマスパーティの席で博識を披露したいかたや、西欧人のお友だちとクリスマスを過ごす予定のかたにおすすめですよ。

発行所が『日本キリスト教団出版局』と聞くと、宗教色が強いんじゃなかろうかと敬遠したくなりそうですが、中身は軽く奥深く充実しています。ありきたりの雑学本ではないとの自負は認めてよろしい。無宗教ならぬ反宗教派の私が楽しめたくらいです。
腹を抱えて笑うようなバカ話ではないけれど、文章のすみずみにソコハカとなくおかしいところがあって、もうどうしたものかと。
全部読み終えて、表紙絵をじっくり眺めると、ソコハカとなく2度おいしいのでありました。
投稿者:ルノ 23:28 | コメント(0) | トラバ(0) | 英語・英文・英会話
2007年10月24日

二次元半

とある町で、スティッチという怪獣の子供みたいなキャラクターを描いた、何やらイベントの看板が道端にいくつも立っていました。車の中からちらと見かけただけなので詳細は知らねど(なにせ動体視力がアレレ)、うげ、昨今はああいうのが人気なのか。

たまたま借りた手芸本「ディズニーのフェルトマスコット&小物」に、そのスティッチの作り方が載っておりました。ああ、ディズニーだったのね。確かにあの「かわいくなさ」は洋モノっぽい。
日本製キャラクターはポケモンみたいに、完全に毒を抜いた純粋なかわいらしさが特徴です。
それゆえ世界を席巻しつつあるのかもしれません。

とかなんとかいいつつ、せっかく借りたので作ってみました。
スティッチ
なかなか躍動的でしょ。(耳の切れ込みが逆みたいだが。)

この本で紹介されているマスコットの作り方は、私が想定したことがないものでした。アニメのワンシーンからひとつのポーズを正確に切り取っているのです。

一見立体的だけど、その実、平面がわずかにふくらんだに過ぎません。この斜め向きのポーズが真正面であって、向かって左側に視線をずらしても、正面を向いた顔に見えるわけではありません。
横から見たらペタンコだし、後ろ姿もなんかヘン。これなんか、右腕は頭からはえています。いくらモンスター(?)だからって。
バックスタイル
右肩の位置から右腕が出ているとすれば、地面に届くくらいの長い腕でなければならないはず。でも表から見てそのようなアンバランス感はありませんよね。

これも一種のリアリティです。

これまで私はなるべく立体的になるよう人形をデザインしてきました。
10センチ程度の簡単なドールはかなり平面的ですが、それでも髪のつけ方や服の縫い方など、可能な限り三次元を意識しています。その結果、手間ひまかかるわりに手足が棒のようで見映えのしないものができてしまったような気がします。
もっと柔軟な考え方を取り入れて、このディズニーシリーズのように平たくてもドラマのあるミニドールも面白そう。
平たいほうがブローチや髪飾りなど、応用も広がります。

人の視覚は実に厄介なものです。リアリティを狙って人間と同じ比率に仕上げると、かえって不自然な場合があります。
固定ポーズの人形を作る場合、膝を曲げて座っている人形は立ち人形よりも脚を長く作るのが一般的です。
左右の腕が同じ長さでも、片腕のみ曲げると、伸ばした腕よりも短いように見えます。

ウェディングドレスなどでふんわりとして丈の長いスカートを着せると、股下が身長の半分以上あっても、胴長短足に見えてしまうのは困ったことです。添わせる花婿は花嫁よりも長身であるべしが不文律だから、ズボンをはかせると脚の長さがいっそう目立ってしまう。

これは人間にも当てはまりますよ。一生に一度(でもないか)の結婚式に美しく見せたいなら、スカートのボリュームは極力抑えましょう。膝から上はスリムフィット、その下をぱーっと広げてトレーンを引くとまあまあ脚長に見えます。

私たちは自分で信じているよりも立体的な感覚が鈍くて、視界を1枚の絵として捉えているのではないでしょうか。
パースペクティブなる技法を編み出したのもその現れです。遠くにあるものを小さく描けば奥行きを感じるなんて、視力のずさんさを示しています。
化粧や着こなししだいで小顔脚長ほっそりプロポーションを演出できるというメリットもありますが。

イエスの死体を抱く母マリアの姿を表わした『ピエタ』(ミケランジェロ)。マリアの顔がやけに若いと突っ込まれているようですが、年の差は15くらいなんだから、そんな些事にこだわらなくても。
ほかには特段おかしな点は感じられません。
しかし同じ構図を生身の人間で再現するとなると、小柄な男と雲衝く大女を起用しないと無理だとか。
配置されたのが小さなマリアなら、作品そのものの迫力や情趣は減ぜられたことでしょう。聖母の存在感を出すには大きく作ることがミケさんの演出であったのか。

見せるものを作る立場としては、そうした視覚の傾向を計算に入れる必要があるのだと、このごろやっとわかりかけてきたところです。
投稿者:ルノ 22:50 | コメント(2) | トラバ(0) | 人形・ぬいぐるみ
2007年10月13日

右や左の旦那さま〜

右脳人間なんて言葉が話題になったのはずいぶん前ですが、今でも人のタイプを右脳型、左脳型と分けることがしばしばあります。おおざっぱに芸術肌は右、理論派は左。こくごやさんすうができる子は左、おえかきやおんがくが得意なら右、と。
思考や行動の種類によって脳の働く場所が決まっているのは確からしいけど、それをもって人を右脳・左脳と分類してしまうのはいささか乱暴です。科学的医学的根拠はないといえましょう。

こういう分類って、日本人の心根にはまるみたいですね。
非科学的といえば、血液型性格診断も日本独自のカルチャーです。
黒髪お茶目オークル肌で均質な民族だし、学校や会社では制服を着せられるから、何かで分けて遊びたい・・・ってことでしょうか。

お遊びだと割り切ったうえで乗ってみますと、私は自分を左脳人間だと思います。
わりと理屈っぽいし、画像よりも文章を好むし。でも算数は苦手だな。要は芸術的センスに不自由しているから、右ではありえない、やむなく左。ちょっと情けないような消極的理由です。

「人形作りには芸術的センスが必要だろもん」などと姑息な慰めはよしてください。自分の作ったものを眺めると、どうにもセンスが悪いと「論理的に」判断せざるを得ないのです。
えー、しつこいようですが、「姑息」とは「その場しのぎ」という意味です。←こーゆとこなんか、左っぽい。
ちなみに「右脳左脳なんて考え方は非科学的だ」とバカにする人々は、例外なく左型です。お遊び、お遊び。右往左往。

欲を言えばもっと左翼でありたいのですが、普通の人ならはっきりわかるほど偏ってはいないものです。
右脳人間を自称する人でも、6対4、あるいは5.5対4.5くらいじゃないのかしら。あまりにバランスが崩れると生きにくいはず。

各界で活躍する才人たちには、どちらも群を抜いて優れている人々が大勢います。一般人が足して10程度のところを、8:7とか、6:11とか。
21:13、18:18ともなると、万能の天才。天才と呼ばれる人々は偏っていることが多いのですが、サヴァン症候群は、26:2みたいに極端です。なお、これらの数値は適当に打ったもので、根拠はありません。

人の潜在能力は広大で深遠であり、私みたいな凡人にだって天才と同等の能力が備わっているらしいのですが、たまたまそれが発現していないだけなのです。多くの人では持てる能力の数パーセントが使われるのみと聞きます。

知的障害者が恐るべき画才を発揮したり、視力を失った人の聴力が並外れて優れている事例は枚挙にいとまありません。後天的障害であっても、代償的にほかの機能が急速に発達するのが常であり、もともと人が無限の可能性を持つことを知らせているのです。

運動神経や絶対音感は遺伝的な要素が大きいと誰もが思っています。しかし生育環境が及ぼす影響は無視できません。音楽家の子どもは音楽に囲まれて育つのですから。
反面、音楽とは無縁の家系に生まれた全盲の子どもが、誰に教わることもなく天才的音感を示すことは稀でないとか。
人間はほかの動物に比べると、とりわけ視力を発達させてきました。見えないと実生活上不便の度合いが高いのです。それだけに視力障害は代償能力をより高めるのかもしれません。

凡人がそうした才能を代償ではなく得ることは可能なのでしょうか。
教育や訓練、本人の努力ではまず無理です。私の定義によれば努力できないのが凡人ですし。
生きるか死ぬかの壮絶な体験で「人が変わる」ことはありえます。それを人為的にプログラムしたのが「修行」というシステムかもしれません。厳しい修行によりある程度のレベルまで到達できる場合がありますが、天才に匹敵する力を得るには更に「突き抜ける」ことが必要です。
結局普通の人には無縁の世界なのです。

さて、左右脳の使われ方が民族や文化事情で異なるという話もよく耳にしますね。
代表的なのは、日本人は虫の音(むしのね)を左脳で聴き、西欧人は右脳で処理する。だから日本人にとって虫の声は何かを訴えるような風情をかもし、ガイジンにとっては雑音に過ぎぬ、と。
最近の日本人は洋風化されてきたらしく、隣の風鈴が耳障りだと怒鳴り込んだりするとか。私もどちらかといえば「虫の音=雑音」派です。蝉しぐれとなると音の暴力でしかない。激しい雨音はわりと好きだけど。

で、これについて、私は逆だと思っていたのです。
虫の音を左の論理脳が捉えたならば、それこそ雑音ではないのか。まさか鈴虫のリーンリーンがE=mc2と聞こえるはずもあるまいし。かたや虫の音に心をなごませ、感情移入できるのは右の感覚脳のなせる技であり、なんらかの音楽的センスの持ち主でなければ困難だろうに、と。
そういう勘違いが生じたのは、左右の優位と左右の分担をごっちゃにしたからでしょう。それとも私に音感が不足しているせい?

私は芸術全般・・・絵画、造形、映画、書道、詩、音楽、どれも苦手ですが、とりわけ音楽のセンスは×です。
チェ・ゲバラを好きになったのは彼がオンチだったからだ、とか言い放ったくらいだしぃ。

そんな私でも音楽は聴くし、好き嫌いの判別もできます。
好みはもっぱら洋モノです。日本語の歌は全くダメ。聞くに堪えません。私にとって日本語の歌は「文章」なのです。文法ミスや文脈の論理的破綻が気になってメロディは耳を素通り。
その点英語のヴォーカルは意味不明だから楽器と同じなんですよね。つまり虫の音です。インストゥルメンタルではなく「声」の入ったものにこだわり、ドイツ語よりは英語を選ぶ背景には、別の要素が嗜好に反映されているのでしょうが。

まあ、そういうわけで、英語ペラペラになんかなりたくない。音楽に対する最後の楽しみを奪われるから。
それは「左脳人間を自覚するなら英語くらいできなきゃ」という皮肉に対する言い訳なのでした。
投稿者:ルノ 14:57 | コメント(4) | トラバ(0) | おつむてんてん
2007年10月09日

苦あれば楽あり

「楽あれば苦あり」とセットになっていることも多いですね。また「楽は苦の種、苦は楽の種」とも。
英語・英文を検索したい人のために先回りしますと、No cross, no crown(苦難なくして栄光なし)・・・否定方向だけど、頭韻ですな。No pain, no gain も似たようなものです。学校では No pains, no gains と習ったような気がするが。

嫌なことでもどうせしなきゃいけないのなら、さっさと済ませて肩の荷を下ろしたい。
実にごもっともですが、なぜか人間というものは、今やらずに済むことを可能な限り先延ばししてしまう性分を持っているようです。
むろん私もその典型。夏休みの末日には毎年ヒーヒー言ってました。今でもグズゆえに抱え込みっぱなしのさまざまな懸案事項に押しつぶされかけています。

屁理屈をこねて心理分析いたしますと・・・。
手を着けないでいるうちに状況が変化してやらずに済むかもしれないという期待。
今よりもあとになってからのほうがより手際よくできるであろう(人間は成長するものだから、あるいは時を経たほうが情報が集まったり準備が整ったりするから)。
早々とやり遂げてしまうと、もっと難しい仕事を押しつけられかねないと懸念したり。

現実には「やらずに済む状況」になる可能性が低いからこそ「さっさと済ますべき事柄」なのであり、経験的には思い切って早めに取りかかれば案外楽に終えることだって多いのです。その後は真にやりたかったことに思う存分打ち込めます。
いわゆる成功者はその切り分けと見極めを確実に判断し実行した人々なのでしょう。

さあ諸君、何事も明日に伸ばすことをやめて今日、たった今、片づけてしまおう。
・・・とお説教めいた話をするつもりはありません。

おとなになった人は多かれ少なかれ後悔すると思うんです。子どものころもっと真面目に勉強していれば、もう少しましな日々を送っていたろうに、と。
「別にぃ。おいらはいっしょけんめー勉強したから、現状に満足だよ」
そうですか。そういうご立派なかたはお引取りください。私とはレベルが違う。

どうして子どもってあんなに勉強嫌いなんだろ。同じことを今勉強しようとしても、日に10万個だか100万個だか死につつある脳細胞が受けつけない。あのころが一番多くのことを吸収できたはずなのに。
これはもう、親の責任です。子供の将来を慮るなら、机に縛りつけてでも勉強させるべきだった。

おーおー、自己の怠惰を親に転嫁しますか。

だって、子どもにはわからない、実感できないんですよ。今サボると将来後悔するということが。
理屈では納得してるんです。というか、さんざっぱらお小言くらったものでしょ。ちゃんと勉強しないとお父さんのようにうだつが上がらず苦労するよ。違った。しっかり勉強しないとお父さんみたいな立派な人になれないぞ。我が家がどっちに当てはまるかは、子どもの目にも一目瞭然。
実例を目の当たりにしても、やっぱり勉強しない。絶対しない。机に縛られたらなおのこと反発して収拾がつかなくなったでしょう。
もはやそう決まっていたとしか言いようがないような気がします。運命だ、と。

ま、そんなバカは私だけであり、たいていの人はバラ色の将来を思い描いて地道に勉強したに違いありません。

子ども時代の愚かな自分を反省させるには、今の悔恨を保持したまま過去に戻って殴りつけるしか方法がないのか。
てなことを夢想する人々がけっこういるらしく、タイムマシンやタイムスリップもののフィクションを見ると、恐竜狩りやキリストとの面会なんて壮大なものよりも、ちまちまと2、30年前に戻って結婚前の両親に会う、なんてのが好まれるようです。

『パンドラの火花(黒武洋)』が試みたのは、死刑囚を過去に送って自分自身を説得させ、起きたはずの犯罪を未然に防ぐことでした。凶悪犯罪をなかったことにして、歴史的な影響はだいじょうぶなの? そんな疑問をお持ちのかたは読んでみるよろし。

わずかの天才たちはおいといて、世の秀才と凡人の差はなんでしょう。基本的な能力に差はないと思うのです。ただし大きな違い・・・秀才には「努力する才能」があり、凡人にはそれがない。

確かに私には努力の才が不足しているようです。
うんざりするほど悔やんできた経験を活かし、遅まきながらも今悔い改めれば多少は取り返しがつくはずです。今の努力が明日、来月、来年あたりに小さな実を結ぶ可能性はあるのだから。
どうしてそれを実行しないのか・・・自分ながら理解できぬ。わかっていてやらないのはわかっていないことなのです。とわかっていても、結局無為と焦燥の毎日。

スンマセン。愚痴ばっか。

ところで、誰でも一生に一度は必ずしなければならない、極めつきイヤーなことがあります。ほとんどの人はそれを最大限先延ばしすべくあがきます。

遅かれ早かれ死ななきゃいけないんだから、今のうちに死んどこう。そんな理由で死ぬ人はあまりいないようです。
死のあとに楽がある保証はないからね。

死はどんな人生経験を経た人にも謎です。生きている限りは生きているほうが無難だ(当たり前)。
同じ生きるならよりよく生きるのが自分のためであろうに・・・。

どうもこのごろ愚にもつかない抽象的な考えをもてあそぶことが増えました。死期が近づいたせいでしょうか。
投稿者:ルノ 23:09 | コメント(0) | トラバ(0) | 生老病死
2007年10月05日

The Caterpillar

少女漫画家・忠津陽子がデビュー前、伝説のマンガ誌COM(こむ)にイモムシ漫画を投稿し、『ペットにしたいほどかわいいイモムシ』と絶賛されたという事実を知るのは一部マニアのみでありましょう。などといいつつ私はマニアでもファンでもない。

芋虫と青虫は別物なのか。
事典によれば、蝶や蛾の幼虫で、毛がなくボディが太いものを芋虫、緑色のものを青虫と呼ぶのだと。きっちりした定義はなく、見た目で判断しているようです。蛾のほうが太めだし、芋虫の代表は蚕です。
お芋のような形だから、ではなく、昔は芋の葉を食べると思われていたゆえの命名だそうです。
毛が生えていたら、色、形にこだわらず毛虫です。
英語ではどれもcaterpillarです。

江戸川乱歩の短編『芋虫』は、戦争で手足を失った男の話です(グロテスクだが感動的と言う人も)。
とはいえイモムシにはちゃんと足があるのですよ。蛆虫にはないけど。

昆虫の足は6本です。芋虫の足は前方に3対、おなかに4対、しっぽのあたりに1対くらいが標準のようです。ボディは13節。後ろのほうの腹脚と尾脚は成虫になったら消えます(ちょっとうろ覚え)。
芋虫の中には大きな目玉をもつものがいます。あれは本物の目ではなく、敵を威嚇するための模様です。親になっても翅に目玉模様があるものが多いですよね。大きな鳥に対してどの程度効果があるか疑問ですが。

蝶は美しいし、花粉の媒介に貢献しますが、幼虫は人間にとって野菜や果樹を荒らす害虫です。
動けない植物だからって、ただ虫にやられっぱなしかというと、それなりに防衛策を講じてきました。毒を蓄えたり、刺激性の物質を出したり。かたや昆虫側も負けていません。毒に強い体になり、しかも体内に貯めた毒物のおかげで鳥の餌となることを防ぐという一石二鳥の進化を果たした蝶もいます。
人間としては、野菜や果物に毒が含まれたら困ります。ので、せっせと毒(農薬)を振りかけたりして。
植物の中には、虫にかじられたらある種のホルモンを出すものがあるそうです。それをキャッチする寄生蜂がいて、さっそく飛んできて幼虫に卵を産みつけるわけ。
植物も動物も必死で生きているのです。

フェルトでイモムシのぬいぐるみを作ろうと思ったとき、漠然と頭に浮かんだのは、ダンゴが並んだようなフォーム。実際はそんなにコロコロしてはいないんですねえ。
イモムシちゃん
おツムに赤いリボンをつけて。Cata cata cata caterpillar girl.
投稿者:ルノ 21:29 | コメント(12) | トラバ(0) | 虫のいい話