良い意味でも有名になってくると、知らん人から姓名を呼び捨てにされても致し方ないようです。
その時点で名前はひとり歩きをしているというか、個人を指すよりも、名前が喚起するバリューやら副産物のほうが先にイメージされるからです。
業績もなく名前だけが知れ渡るのは、本人や家族にとって不名誉な事態であることが多いようです。
「綾辻行人が好き」とか書いたが、別に恋愛感情ではないし、綾辻個人についての知識はさっぱり持ちません。
一般の人が作家や芸能人を「さん付け」で論評するのを見ると、なんだかムズムズすることがあります。名前はブランドだからモノとして扱うべきじゃないですか。
などと言う当人が別の場所では杉浦日向子さんなどと書いておる。杉浦日向子に対して失礼千万であります。まして名字を取っ払って「日向子さん」呼ばわりとは、馴れ馴れしさきわまれり。
私が「ますむらひろし」を呼び捨てにするのは、ゴッホに画伯をつけないのと同様です。ますむらとゴッホは同格か。別にゴッホの絵に感銘を受けたことはないけど。
「猫十字社」というペンネームの漫画家がいます。社名っぽくて呼び捨てられてもあまり気にならない、という理由で名づけたと昔どこかで聞きました。「一条ゆかり」みたくキラキラなネーミングが流行っていたころの人と思えば、いいセンスですだ。
個人名がブランド化するのはいつなのか。決まったルールはないので、その場その場で判断するしかありません。名前を聞けば大多数が「ああ、あの人」と思い浮かべるころが呼び捨てどきかな。
むろんジャンル・地域・歴史や習慣によって事情が異なるので、ルールの制定など無理な話。
数年前、某小国の独裁者が某大国(英語使用)の独裁者にミスター付けで呼ばれて気をよくしたという話がありました。それ以前は呼び捨てだったようです。
某小国のあるアジアの人は英語のミスターやミセスが敬意を含むと単純に信じていますが、実態は違うんだとは、某ページで述べたとおりです。
日に1回くらいGoogle Newsの英語版を見ます。「読む」のではなく「見る」だけなので、1分で済みます。
プリンス・ウィリアムのガールフレンドは呼び捨てにされていました。有名だからでしょうか。
海外では名前につける称号の類は「識別」の意味合いが強いのです。
我が国では政治家を呼び捨てにせず肩書きをつける風習があります。
彼らは名前で仕事をしているわけではない。個人個人のパフォなどどうでもいい、個性だの独創性だの発揮せずともかまわぬ、そのポストが執り行うべき最低限の仕事だけでもしてくれー。国民の切実な願いをよそに、その最低限のことさえできないのが政治家という人種のようですな。
それら無能(無脳?)な連中が牛耳る国だから、国民の程度もリンクしてます。ほんの短期間椅子を温めただけの輩にいつまでも元○○大臣の呼称を奉ってしまうのです。
「元」がつくことは、「今」がそれよりも低いと知らしめているわけで、これはまるきり蔑称ではないですか。よって、元○○大臣の「元」の字には「おちぶれ」とルビを振るのが正しいマナーでありましょう。
2008年01月27日
こんな姿に誰がした
長らく姿を見せなかったメジロが、最近ペアでやってくるようになりました。
で、時々みかんを置くんですけど、今度のメジロは警戒心が強く、一口食べるごとにあたりをうかがい、近づくとさっと逃げるので、カメラに収める機会がありません。
代用品として、フェルトのぬいぐるみを作ってみました。
全長11センチ、コロコロ太って、実物よりやや大きめです。

ベランダには雀もよく来ます。メジロは雀に比べると格段に上品です。集団で押し寄せて騒ぐ雀に対して、いつも2羽というのもつつましくほほえましい。
鳴き声は儚げで耳に快く、黄緑色のボディはみかんのオレンジ色に映えます。
半分に切ったみかんは底が丸くてぐらつきますが、その縁にしっかりつかまってバランスをとりながらせっせと実をつついているようすは、なかなかに可愛らしいものです。
そのみかんの中にしばしばウンチを置いていくのには呆れます。混ざってても平気でついばむんです。上品だなんて遠目だけ。
さて、ウサギが自分のウンチを食べることはよく知られています。
人間の感覚からしたら不快なものですが、当のウサギにとっては、生きていくために欠かせない食行動です。体内で生成したビタミンなどを再摂取するのだとか。食用と非食用はちゃんと産み分け(って、表現がヘンだが)ているのです。
ハムスターにも同様の習性があると聞きました。
この行為、適当な名称がないようです。ペットの本などには「食糞」と書かれています。見るからにイメージ悪いですねえ。一般の辞書には載っていません。
その点英語は素晴らしい。ウサギなどが自分のフンを食べることをrefectionといい、その第一義は『飲食による元気回復(むろん人間の行為)』とあります。ウサギの生理機能を理解したうえで当てはめたことばなのですね。
犬も時として自分のをおもちゃや食べ物にすることがあり、飼い主を困らせるそうです。犬にとっては必須食品では全然ないので、これはすでに問題行動です。ストレスがたまっているのかもしれません。
猫が砂をかけるように、多くの野生動物は排泄物を隠したり、巣から遠いところに運んだりします。主に天敵に見つからないようにするためです。ライオンがゾウのフンの中に転がるのは、草食獣の匂いをまとって獲物を油断させるためらしい。
現代の人間がトイレを独立させ、全く目に触れないように即時片づけてしまうのは、主に清潔さと快適さを求めるからです。あんなもん、テーブルの上に載せときたくはないもんね。匂いはひどいし、色もキレイとはいえない。味は・・・知らん。ピリッときそう。昔はやった「究極の選択」なる戯れ言を思い出しました。
そうやって、汚い、クサイと忌み嫌うが、つい前日には香り高く美味な食べ物だったんです。こんなふうに加工したのは、嫌ってる本人じゃないか。
どうして人間はそれを快いものと認識できないようになっているのでしょう。
例外的にできる人々もいまして、介護の現場では最大級の悩みとなっているし、それ以外の状況ではしばしば異常者扱いされます。
むろん栄養を搾り取って役に立たないカスだから捨てるのであり、何よりも生成の過程で大量の細菌や雑菌が加味されるから危ないという事情があります。昔の人は細菌の存在なんて知らなかったから、本能的に忌避するようにDNAに刷り込まれているのでしょう。
飲めば芳香を放つ(?)健康食品や薬みたいなものも販売されているそうですが、よくなっていかほどのもんや。
平安時代の文学『平中物語』には「マリは香ばしく、いばりは甘くて苦い」という、この世の人ではないような女官が登場するとか。
もし人間がそうなったら、地球の食糧危機は解決しますぞ。なわけないか。
で、時々みかんを置くんですけど、今度のメジロは警戒心が強く、一口食べるごとにあたりをうかがい、近づくとさっと逃げるので、カメラに収める機会がありません。
代用品として、フェルトのぬいぐるみを作ってみました。
全長11センチ、コロコロ太って、実物よりやや大きめです。

ベランダには雀もよく来ます。メジロは雀に比べると格段に上品です。集団で押し寄せて騒ぐ雀に対して、いつも2羽というのもつつましくほほえましい。
鳴き声は儚げで耳に快く、黄緑色のボディはみかんのオレンジ色に映えます。
半分に切ったみかんは底が丸くてぐらつきますが、その縁にしっかりつかまってバランスをとりながらせっせと実をつついているようすは、なかなかに可愛らしいものです。
そのみかんの中にしばしばウンチを置いていくのには呆れます。混ざってても平気でついばむんです。上品だなんて遠目だけ。
さて、ウサギが自分のウンチを食べることはよく知られています。
人間の感覚からしたら不快なものですが、当のウサギにとっては、生きていくために欠かせない食行動です。体内で生成したビタミンなどを再摂取するのだとか。食用と非食用はちゃんと産み分け(って、表現がヘンだが)ているのです。
ハムスターにも同様の習性があると聞きました。
この行為、適当な名称がないようです。ペットの本などには「食糞」と書かれています。見るからにイメージ悪いですねえ。一般の辞書には載っていません。
その点英語は素晴らしい。ウサギなどが自分のフンを食べることをrefectionといい、その第一義は『飲食による元気回復(むろん人間の行為)』とあります。ウサギの生理機能を理解したうえで当てはめたことばなのですね。
犬も時として自分のをおもちゃや食べ物にすることがあり、飼い主を困らせるそうです。犬にとっては必須食品では全然ないので、これはすでに問題行動です。ストレスがたまっているのかもしれません。
猫が砂をかけるように、多くの野生動物は排泄物を隠したり、巣から遠いところに運んだりします。主に天敵に見つからないようにするためです。ライオンがゾウのフンの中に転がるのは、草食獣の匂いをまとって獲物を油断させるためらしい。
現代の人間がトイレを独立させ、全く目に触れないように即時片づけてしまうのは、主に清潔さと快適さを求めるからです。あんなもん、テーブルの上に載せときたくはないもんね。匂いはひどいし、色もキレイとはいえない。味は・・・知らん。ピリッときそう。昔はやった「究極の選択」なる戯れ言を思い出しました。
そうやって、汚い、クサイと忌み嫌うが、つい前日には香り高く美味な食べ物だったんです。こんなふうに加工したのは、嫌ってる本人じゃないか。
どうして人間はそれを快いものと認識できないようになっているのでしょう。
例外的にできる人々もいまして、介護の現場では最大級の悩みとなっているし、それ以外の状況ではしばしば異常者扱いされます。
むろん栄養を搾り取って役に立たないカスだから捨てるのであり、何よりも生成の過程で大量の細菌や雑菌が加味されるから危ないという事情があります。昔の人は細菌の存在なんて知らなかったから、本能的に忌避するようにDNAに刷り込まれているのでしょう。
飲めば芳香を放つ(?)健康食品や薬みたいなものも販売されているそうですが、よくなっていかほどのもんや。
平安時代の文学『平中物語』には「マリは香ばしく、いばりは甘くて苦い」という、この世の人ではないような女官が登場するとか。
もし人間がそうなったら、地球の食糧危機は解決しますぞ。なわけないか。
2008年01月26日
ウイルス遍歴
昨年は3鉢購入した洋蘭が軒並みウイルスにやられてしまい、大損害でした。
それはそれとして、今回はウイルスソフトの件。
「ウイルスソフト」だなんて失礼な。面倒がらずに「ウイルス対策ソフト」とか「アンチウイルスソフト」と表記しなさい。
昨今インターネット上の脅威はウイルスよりも、スパイウェアやボットのほうに比重が移ってきているので、単なるアンチウイルスソフトでは不十分です。総合セキュリティソフトが主流となっています。
昨年9月に導入したこのパソコンにはウイルスバスターのお試し版が入っていました。
世の三大ウイルスソフトは、トレンドマイクロ、シマンテック、マカフィーの各社が出しているものだとか。いずれも機能が充実して信頼性が高いけど、値段も高い。しかも重い。
そこを突いて、軽くて低価格の製品が幅を利かせ始め、私もウイルスセキュリティZEROに乗り換えたわけなのです。
ウイルスセキュリティZEROを1年間使ってみた感想を。・・・うーむ、ようわからん。
動作が軽快で、さくさく動きます。バスターが重過ぎたのでしょう。ウイルス定義ファイルの更新はたびたびおこなっていたようですが、なにぶんウイルス検知能力が低いという噂だったので、ちゃんと防御できていたのかどうか疑問です。
「ウイルスを検知した」との警告が出たことが1度ありまして、FTPをつないでいる最中だったのですが、その後どこかに隔離されたのか、詳細は不明です。
ともあれ、10年版なら相当お得なウイルスセキュリティZEROなのに、1年版を買ったということは1年間しか使うつもりがなかったからです。
いろいろ試したい気分だったし。
馬には乗ってみよ、プリンは食ってみよ。と、ことわざに言うではありませんか。
だけど、期限が迫ると鬱陶しいのはどこもいっしょ。あと何日、早く更新しろ、あと何日、今すぐ更新・・・。四六時中ポップアップが出ます。ポップアップブロック機能がここだけ効かないという皮肉。
これを見るたびに次は断固よそのにするぞと決意が高まるから、人間心理は複雑、いや単純なものです。ウイルス会社の皆さん、ちょっと方針を見直したらどう?
次は無難に大手3社から選んで永続使用を検討。候補はマカフィー。
その前に、もちょっと浮気。
でもって、高いと評判(?)のカスペルスキーを入れてみました。
比較サイトなどを見ましたら、カスペルスキーは軽くて検知能力に優れて(アップデートが頻繁)いるが、使い勝手が悪い、とか。
軽いのは確かです。ウイルスセキュリティZEROに比べても遜色がない。メールソフトの起動が気持ち(1、2秒)遅くなったような。
使い勝手はよくないですね。設定がややこしくて、意味不明なことばが多いし。最初につないだとたん、「信頼するネットワーク」かどうか判断を迫られて迷いました。
導入して2日間で、「攻撃を検知しました」というファイアウォールからのメッセージが2回くらい出ました。えっ、なんだか不気味。常時接続していなくてこのありさまじゃ、普通の人はどうなんでしょう。
ともあれこれで1年間過ごすことになりそうです。
それはそれとして、今回はウイルスソフトの件。
「ウイルスソフト」だなんて失礼な。面倒がらずに「ウイルス対策ソフト」とか「アンチウイルスソフト」と表記しなさい。
昨今インターネット上の脅威はウイルスよりも、スパイウェアやボットのほうに比重が移ってきているので、単なるアンチウイルスソフトでは不十分です。総合セキュリティソフトが主流となっています。
昨年9月に導入したこのパソコンにはウイルスバスターのお試し版が入っていました。
世の三大ウイルスソフトは、トレンドマイクロ、シマンテック、マカフィーの各社が出しているものだとか。いずれも機能が充実して信頼性が高いけど、値段も高い。しかも重い。
そこを突いて、軽くて低価格の製品が幅を利かせ始め、私もウイルスセキュリティZEROに乗り換えたわけなのです。
ウイルスセキュリティZEROを1年間使ってみた感想を。・・・うーむ、ようわからん。
動作が軽快で、さくさく動きます。バスターが重過ぎたのでしょう。ウイルス定義ファイルの更新はたびたびおこなっていたようですが、なにぶんウイルス検知能力が低いという噂だったので、ちゃんと防御できていたのかどうか疑問です。
「ウイルスを検知した」との警告が出たことが1度ありまして、FTPをつないでいる最中だったのですが、その後どこかに隔離されたのか、詳細は不明です。
ともあれ、10年版なら相当お得なウイルスセキュリティZEROなのに、1年版を買ったということは1年間しか使うつもりがなかったからです。
いろいろ試したい気分だったし。
馬には乗ってみよ、プリンは食ってみよ。と、ことわざに言うではありませんか。
だけど、期限が迫ると鬱陶しいのはどこもいっしょ。あと何日、早く更新しろ、あと何日、今すぐ更新・・・。四六時中ポップアップが出ます。ポップアップブロック機能がここだけ効かないという皮肉。
これを見るたびに次は断固よそのにするぞと決意が高まるから、人間心理は複雑、いや単純なものです。ウイルス会社の皆さん、ちょっと方針を見直したらどう?
次は無難に大手3社から選んで永続使用を検討。候補はマカフィー。
その前に、もちょっと浮気。
でもって、高いと評判(?)のカスペルスキーを入れてみました。
比較サイトなどを見ましたら、カスペルスキーは軽くて検知能力に優れて(アップデートが頻繁)いるが、使い勝手が悪い、とか。
軽いのは確かです。ウイルスセキュリティZEROに比べても遜色がない。メールソフトの起動が気持ち(1、2秒)遅くなったような。
使い勝手はよくないですね。設定がややこしくて、意味不明なことばが多いし。最初につないだとたん、「信頼するネットワーク」かどうか判断を迫られて迷いました。
導入して2日間で、「攻撃を検知しました」というファイアウォールからのメッセージが2回くらい出ました。えっ、なんだか不気味。常時接続していなくてこのありさまじゃ、普通の人はどうなんでしょう。
ともあれこれで1年間過ごすことになりそうです。
2008年01月21日
情けは誰のため
「情けは人の為ならず」を正反対の意味に捉える人が増えたと報道されてからずいぶん年月が流れました。当時日本語もろくに知らないと嘲笑された若者たちも中高年となり、「情けは人のためならずって言うからね」と偉ぶって、部下をビシバシ鍛えているのでしょうか。
「人のためならず」という文自体は否定形なので、「人のためにならない」と素直に解釈した人々の気持ちは理解できます。
改めて辞書を見ましたら『情けをかけるとその人のためになるだけでなく、巡り巡って自分にもいいことがある』とか『人に情けをかけておけば、必ずそのよい報いが自分に返ってくるものだ』などとあります。
つまり「情けをかけることは人のためにするのではなく、むしろ自分のためにするのだ」であり、「自分のため」云々は省略されているのです。
ここからいろんなことが読み取れると思いませんか?
まず、情けをかける行為は、人があまりやりたがらないこと、やった人の損になると思われることである。
ちなみに「情け」とは、「あわれみ」「思いやり」「同情」「恵み」「慈愛」などと説明されています。
しかし将来的には情けをかけた本人に果報が回ってくると説いて奨励しているわけだから、個人個人にはちょっとした負担でも、世間全体としては情けが充満していたほうがいろんな局面でメリットが大きいのでしょう。
苦労が報われる点で「苦あれば楽あり」の別バージョンとも言えます。
「苦あれば楽あり」はストレートでわかりやすいのに、なぜ「情けは人の為ならず」では「楽あり」に相当する部分が隠されているのでしょう。以心伝心を旨とする日本人は、しばしばいろんなことを省略するものですが。
わかりますよ。「苦」はひとりでもできるけど、「情け」は他人とのかかわりです。「人のためじゃなくて自分のためにやる」では、打算が見え見えですもんね。
きっと現代の若者たちは、このフレーズに潜む偽善の匂いを、青春の潔癖さでもって察知したのでしょう。だから敢えて潔く「ヘタに甘やかすとかえって相手を堕落させる」てな新解釈を取り入れた、と。
ま、これはうがちすぎだと自分でも思います。だいたい、世相が裏付けてくれません。
昨今の日本人はやたらとせっかちです。何事も直ちに結果が出るよう要求します。
いつになるかわからないけど、そのうちいいことがあるだろ・・・そんな悠長なことには耐えられません。当てにならない「情け」なんてものにかかずらってるヒマはないのでしょう。
とはいえ、せっかちであることは思いやりがないことを意味しません。両者は別問題です。
昔の人は情味があった、今の若者は損得勘定ばかりさとくて自分勝手だ、見返りも求めず他人に親切にするようなことが少ない。などと言う大人がいますが、ほんとうにそうでしょうか。老若男女を問わず、自分に優しく他者に冷たいのが普通の人であり、それは昔からちっとも変わっていないのです。
だからこんな成句が生まれたんじゃありませんか。
「人のためならず」という文自体は否定形なので、「人のためにならない」と素直に解釈した人々の気持ちは理解できます。
改めて辞書を見ましたら『情けをかけるとその人のためになるだけでなく、巡り巡って自分にもいいことがある』とか『人に情けをかけておけば、必ずそのよい報いが自分に返ってくるものだ』などとあります。
つまり「情けをかけることは人のためにするのではなく、むしろ自分のためにするのだ」であり、「自分のため」云々は省略されているのです。
ここからいろんなことが読み取れると思いませんか?
まず、情けをかける行為は、人があまりやりたがらないこと、やった人の損になると思われることである。
ちなみに「情け」とは、「あわれみ」「思いやり」「同情」「恵み」「慈愛」などと説明されています。
しかし将来的には情けをかけた本人に果報が回ってくると説いて奨励しているわけだから、個人個人にはちょっとした負担でも、世間全体としては情けが充満していたほうがいろんな局面でメリットが大きいのでしょう。
苦労が報われる点で「苦あれば楽あり」の別バージョンとも言えます。
「苦あれば楽あり」はストレートでわかりやすいのに、なぜ「情けは人の為ならず」では「楽あり」に相当する部分が隠されているのでしょう。以心伝心を旨とする日本人は、しばしばいろんなことを省略するものですが。
わかりますよ。「苦」はひとりでもできるけど、「情け」は他人とのかかわりです。「人のためじゃなくて自分のためにやる」では、打算が見え見えですもんね。
きっと現代の若者たちは、このフレーズに潜む偽善の匂いを、青春の潔癖さでもって察知したのでしょう。だから敢えて潔く「ヘタに甘やかすとかえって相手を堕落させる」てな新解釈を取り入れた、と。
ま、これはうがちすぎだと自分でも思います。だいたい、世相が裏付けてくれません。
昨今の日本人はやたらとせっかちです。何事も直ちに結果が出るよう要求します。
いつになるかわからないけど、そのうちいいことがあるだろ・・・そんな悠長なことには耐えられません。当てにならない「情け」なんてものにかかずらってるヒマはないのでしょう。
とはいえ、せっかちであることは思いやりがないことを意味しません。両者は別問題です。
昔の人は情味があった、今の若者は損得勘定ばかりさとくて自分勝手だ、見返りも求めず他人に親切にするようなことが少ない。などと言う大人がいますが、ほんとうにそうでしょうか。老若男女を問わず、自分に優しく他者に冷たいのが普通の人であり、それは昔からちっとも変わっていないのです。
だからこんな成句が生まれたんじゃありませんか。
2008年01月20日
プレ殺人者
ありていに言って、推理小説などで殺された人が一人だけだと、えらく損した気分になります。やっきになる警察や(天才的)探偵の裏をかいてじゃかじゃか殺してくれなきゃ読み応えがない。
もっとも私は「動機」重視派だから、サイコホラーみたいに無意味な死体が積み重なる状況には辟易だけど。
では納得のいく事情があれば殺人も許されると思うのか?
そういう問題じゃありません。意表を突く動機が好みなんです。
東野圭吾『悪意
』、ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター
』などは、けっこうおもしろい動機でした。短編では小池真理子『妻の女友達』とか。同じく倉知淳『闇ニ笑フ』は誰も死なないけど秀逸。『動機
』といえば横山秀夫だが、どんな動機だったか忘れた。
レーンもポアロも、最後はくだらんことで人生を汚したと思うよ。
それはおいといて、今回はフィクションでなく、現実の話をしたいのです。
ひところはやってすたれた「なぜ人を殺してはいけないか」という問いかけ。
猫好きのおばあちゃま左近寺祥子いわく、後悔しても償えない行為だからだ(『自分を知るための哲学』より)。
えっ、そんなもん? 哲学研究者ってもっと複雑な理屈をこねくり回すもんだと思ってた。
虫好きのおじいちゃん養老孟司も『死の壁
』で同じこと言ってました。壊すのは簡単だが、作ることは不可能だ、と。
償えない、取り返しがつかないとは、生き返らないということです。生き返りさえすれば、殺人もOKってことですかね。
医学の発達はめざましいから、死んだ生物の蘇生が可能になるのは遠い未来のことではなさそう。
最初はロボコップみたいにぎこちないかもしれない。そのうち、木っ端微塵の自爆テロ犯でも、細胞の一片を採取できれば、培養して元通りに育て、司直の下で死刑、てなことに。
脳が壊れてしまえば、その人のアイデンティティたる「意識」の継続はどうなるんだ? えーと、中央制御機関みたいなとこに毎日自動的にセーブされるようになっていて、ほぼ復元可能としましょう。死ぬ直前に苦痛があったとしても、そのあたりの記憶は戻らないからハッピ〜。
「や、昨日はごめん。つい手が滑って殺しちゃったんだ」
「悪いと思ってんなら、昼飯くらいおごれ」
といった会話が、殺人者と被害者の間で交わされるのでしょうか。あれ? なんかヘンですね。人殺しが悪くないなら、怒ったり謝ったりの必要もないんだった。
人が永遠の生命を得た暁には、完全死は金持ちと王侯貴族だけの特権となり、ビンボー下層民たちは死んでも死んでも生き返らせられ、あくせくあくせく働き続けなければならないのでした。これは恐怖だ。
妄想は続きます。
「どうして人殺しは悪いか」という問いは、「お日さまはなぜ赤い?」とか「なぜ鏡に映る像の上下は正しいのに左右が逆なのか」に似ています。前提が間違っているのです。
太陽は赤くなんかないでしょ。鏡には上のものは上、下のものは下、右のものは右に、左のものは左側に映る。どこが逆なんだ?
しかしこのような質問が「なぜ道端に落ちているものを食べちゃいけないの?」などに比べてもっともらしいのは、実にもっともらしいからでしょうね(なんの説明にもなっとらん)。殺人者は悪い奴だと非難されるし、夕陽は時として赤に近い。鏡の中の自分はどう見ても左右だけがひっくり返っている。
人を殺すことはほんとうにいけないんでしょうか。
必ずしもいけないわけじゃないでしょう。
A国のB大統領なんか、正義の名のもとに複数の国へ攻め込み、無辜の民やら自国の兵士やら何万人も殺しておきながら、夏冬はバカンス楽しんでいます(ヤツは自ら手を下したわけじゃない、と言うなら、オウムの親豚だってそうだ)。
殺人願望を持つ人々のため、国家が殺人を代行してくれることがあります。その願望は「遺族感情」などと呼ばれたりします。
死刑は確定から6ヶ月以内に執行しなければならないと刑事訴訟法で定められていますが、現実には7年以上かかっているとか。殺人担当大臣がビビっちゃうんでしょう。法の元締め自らが法を犯しているわけだから、しもじもの犯罪が減らんのもうなずける。
そんなに長期間死刑囚を税金で養うのかと怒る声もあろうし、死の恐怖をいたずらに長引かせる点が残酷だともいえるし、その延びた期間に冤罪の証拠を見つけようと期待が高まったり。
もっか平和に似たものにずぶずぶ浸かってるニッポンでも、ちょっと前までは日常的に殺し合いが行われていました。武士には斬り捨て御免の特権があったし、仇討ち禁止令は明治のことだし、戦時中はその辺の人々も鬼畜BA皆殺しと叫んで竹槍研いでたんじゃないんですか。
今だって社会にはあまたの殺人者が野放しになっているに違いありません。殺人犯を捕まえて裁判にかけるのはちょっとした努力目標としても、警官足りないし、検挙率落ちたし、それ以前に犯罪として発覚していない事件も多数。なんたって我が国の検死件数は情けないほど少ないとか。その陰で高笑いする強殺犯や保険金成金たち。彼らにとって殺人は人生を豊かにする良い手段なのです。
それでも多くの人は殺人とは無縁の生涯を送ります。
自分が人殺しに手を染めるなんて論外、選択外だと思っているはず。けっこう体力が要るみたいだし、死体を埋めたり刻んだりの付帯作業が煩わしそうだし、血やわけのわからん液体固体がついたら汚いし、事情聴取で震えるかもしれないし・・・。
捕まるのが怖いってのも理由かな。となると、捕まらない保証があるならやるのか?
案外そうかもしれません。
厳罰化の影響で飲酒運転の件数が減ったらしい(ニュースを見てるとそんな気はしないけど)。
酔っ払って運転しても人に迷惑かけなきゃかまわんと、個人的には思っています。教習所で上手な酒飲み運転のテクニックを教えたらどうだ。事故全般の厳罰化は支持するけど。
検挙や処罰を恐れて飲酒運転を控えるようになった人は、自分自身の中に規範を持たない、つまり善悪の判断がつかないのです。状況いかんで人を殺す可能性は高いといえましょう。
嘘つきは泥棒の始まりとは真実です。
犯罪だけではありません。公共のマナーが守れない人も同様です。
道端にゴミを捨てるのは気分が悪いから私はしません。ゴミ箱か自宅まで持っていけば済むことじゃないですか。こんな簡単なことができない人が将来の犯罪者になるのです。
タバコの吸殻をポイ捨てして平気なそこの人、あなたが明日殺人を犯す確率は、ミステリは連続殺人でなきゃ物足りないとか殺人は悪くないとかほざいている私なんかよりずっと高いのです。
もっとも私は「動機」重視派だから、サイコホラーみたいに無意味な死体が積み重なる状況には辟易だけど。
では納得のいく事情があれば殺人も許されると思うのか?
そういう問題じゃありません。意表を突く動機が好みなんです。
東野圭吾『悪意
レーンもポアロも、最後はくだらんことで人生を汚したと思うよ。
それはおいといて、今回はフィクションでなく、現実の話をしたいのです。
ひところはやってすたれた「なぜ人を殺してはいけないか」という問いかけ。
猫好きのおばあちゃま左近寺祥子いわく、後悔しても償えない行為だからだ(『自分を知るための哲学』より)。
えっ、そんなもん? 哲学研究者ってもっと複雑な理屈をこねくり回すもんだと思ってた。
虫好きのおじいちゃん養老孟司も『死の壁
償えない、取り返しがつかないとは、生き返らないということです。生き返りさえすれば、殺人もOKってことですかね。
医学の発達はめざましいから、死んだ生物の蘇生が可能になるのは遠い未来のことではなさそう。
最初はロボコップみたいにぎこちないかもしれない。そのうち、木っ端微塵の自爆テロ犯でも、細胞の一片を採取できれば、培養して元通りに育て、司直の下で死刑、てなことに。
脳が壊れてしまえば、その人のアイデンティティたる「意識」の継続はどうなるんだ? えーと、中央制御機関みたいなとこに毎日自動的にセーブされるようになっていて、ほぼ復元可能としましょう。死ぬ直前に苦痛があったとしても、そのあたりの記憶は戻らないからハッピ〜。
「や、昨日はごめん。つい手が滑って殺しちゃったんだ」
「悪いと思ってんなら、昼飯くらいおごれ」
といった会話が、殺人者と被害者の間で交わされるのでしょうか。あれ? なんかヘンですね。人殺しが悪くないなら、怒ったり謝ったりの必要もないんだった。
人が永遠の生命を得た暁には、完全死は金持ちと王侯貴族だけの特権となり、ビンボー下層民たちは死んでも死んでも生き返らせられ、あくせくあくせく働き続けなければならないのでした。これは恐怖だ。
妄想は続きます。
「どうして人殺しは悪いか」という問いは、「お日さまはなぜ赤い?」とか「なぜ鏡に映る像の上下は正しいのに左右が逆なのか」に似ています。前提が間違っているのです。
太陽は赤くなんかないでしょ。鏡には上のものは上、下のものは下、右のものは右に、左のものは左側に映る。どこが逆なんだ?
しかしこのような質問が「なぜ道端に落ちているものを食べちゃいけないの?」などに比べてもっともらしいのは、実にもっともらしいからでしょうね(なんの説明にもなっとらん)。殺人者は悪い奴だと非難されるし、夕陽は時として赤に近い。鏡の中の自分はどう見ても左右だけがひっくり返っている。
人を殺すことはほんとうにいけないんでしょうか。
必ずしもいけないわけじゃないでしょう。
A国のB大統領なんか、正義の名のもとに複数の国へ攻め込み、無辜の民やら自国の兵士やら何万人も殺しておきながら、夏冬はバカンス楽しんでいます(ヤツは自ら手を下したわけじゃない、と言うなら、オウムの親豚だってそうだ)。
殺人願望を持つ人々のため、国家が殺人を代行してくれることがあります。その願望は「遺族感情」などと呼ばれたりします。
死刑は確定から6ヶ月以内に執行しなければならないと刑事訴訟法で定められていますが、現実には7年以上かかっているとか。殺人担当大臣がビビっちゃうんでしょう。法の元締め自らが法を犯しているわけだから、しもじもの犯罪が減らんのもうなずける。
そんなに長期間死刑囚を税金で養うのかと怒る声もあろうし、死の恐怖をいたずらに長引かせる点が残酷だともいえるし、その延びた期間に冤罪の証拠を見つけようと期待が高まったり。
もっか平和に似たものにずぶずぶ浸かってるニッポンでも、ちょっと前までは日常的に殺し合いが行われていました。武士には斬り捨て御免の特権があったし、仇討ち禁止令は明治のことだし、戦時中はその辺の人々も鬼畜BA皆殺しと叫んで竹槍研いでたんじゃないんですか。
今だって社会にはあまたの殺人者が野放しになっているに違いありません。殺人犯を捕まえて裁判にかけるのはちょっとした努力目標としても、警官足りないし、検挙率落ちたし、それ以前に犯罪として発覚していない事件も多数。なんたって我が国の検死件数は情けないほど少ないとか。その陰で高笑いする強殺犯や保険金成金たち。彼らにとって殺人は人生を豊かにする良い手段なのです。
それでも多くの人は殺人とは無縁の生涯を送ります。
自分が人殺しに手を染めるなんて論外、選択外だと思っているはず。けっこう体力が要るみたいだし、死体を埋めたり刻んだりの付帯作業が煩わしそうだし、血やわけのわからん液体固体がついたら汚いし、事情聴取で震えるかもしれないし・・・。
捕まるのが怖いってのも理由かな。となると、捕まらない保証があるならやるのか?
案外そうかもしれません。
厳罰化の影響で飲酒運転の件数が減ったらしい(ニュースを見てるとそんな気はしないけど)。
酔っ払って運転しても人に迷惑かけなきゃかまわんと、個人的には思っています。教習所で上手な酒飲み運転のテクニックを教えたらどうだ。事故全般の厳罰化は支持するけど。
検挙や処罰を恐れて飲酒運転を控えるようになった人は、自分自身の中に規範を持たない、つまり善悪の判断がつかないのです。状況いかんで人を殺す可能性は高いといえましょう。
嘘つきは泥棒の始まりとは真実です。
犯罪だけではありません。公共のマナーが守れない人も同様です。
道端にゴミを捨てるのは気分が悪いから私はしません。ゴミ箱か自宅まで持っていけば済むことじゃないですか。こんな簡単なことができない人が将来の犯罪者になるのです。
タバコの吸殻をポイ捨てして平気なそこの人、あなたが明日殺人を犯す確率は、ミステリは連続殺人でなきゃ物足りないとか殺人は悪くないとかほざいている私なんかよりずっと高いのです。
2008年01月13日
0 one 2 many
ピーター・ペレットが作った曲には映画からタイトルを拝借したものがいくつか見受けられます。映画嫌いの私でさえ気づいたくらいだから、実際には「いくつか」どころか、たっくさん存在するんじゃないでしょうか。リリシストとして実に安易な姿勢です。
それはそれとして、The Big Sleepはペレットらしくて、私はたいそう好きです。
"The Big Sleep"はレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説で、『大いなる眠り』と翻訳されています。
いつだったか、それとは無関係のハードボイルド短編を読んでいたら、『三つ数えろ』というフレーズに『ビッグ・スリープ』とルビが振られているのを目にしました。どういうこと?
検索したら、映画化されたときの邦題が『三つ数えろ』だったとか。
当該小説も映画も見ていない私には、そのようなタイトルとなった事情は全くわかりません(し、興味もない)。
とにかく「三つ数えろ」ってのは、ギャングの決まり文句のひとつみたいですね。ワン、ツー、スリー、バム!
窓の外に目をやって、ごみごみしたビル群や並木道、通り過ぎる車やバイク、歩行者たちなど雑多な風景が見えたとします。その中から、1軒の建物と1本の銀杏とひとかたまりの雲を選び「ああ、3つあるな」と数える人はあまりいないでしょう。いたとしたら、その3つは(その人にとって)ほかと区別され、取り立てて数えるに値する特別な共通点を持っているはずです。
そんな取り留めもない思いが浮かんだのは、何気なく開いた国語辞典(学研国語大辞典)のある項目が目に留まったからでした。
別の辞書ではもっと簡単に『物の多少や順番を表わすことば』などとあります。
しかし単なる多少や順番では言い足りないんですよね。人が何かを数えるとき、それに先立って「分類」や「定義」が行われます。全く関連のないものを取り合わせて数えることは無意味です。
さて、日本には摩訶不思議な「数え年」というものがあります。
生まれた年を1歳として、お正月のたびにひとつずつ増やしていくのです。新年に全国民がいっせいに年を取るわけで、スッキリした年齢計算ともいえますが、視点を変えれば、個々人の誕生日を無視したファッショな方式だと反発する人も。
だいたい、ひとりの人が最大2歳の開きを持つふたつの年齢を生涯保持するなんて、ややこしくてかないません。
昔は出生届がいいかげんで、1月1日生まれの人がやたらと多かったと聞いたことがあります。単に正月はめでたいからとか、誕生祝いとお年玉とを兼ねようとの倹約精神などではなく、数えと満年齢の差をなくす方策だったのかもしれません。
この数え年、せめて生まれた年は0歳とするのなら、誤差が1で済んだのですが、だからといってややこしさに変わりはないですね。
現在ではゼロ歳、零歳児など、ごく当たり前に使っていますが、昔は「零歳」という概念は想定しにくかったのかもしれません。零は無であり、何もないことですが、赤ん坊は厳然と存在するのですから。
ゼロを発見したのはインド人と言われています。無なるものに存在を与えるとは、素晴らしい着想です。
今生きている人の多くがふたつの世紀を体験しています。
2000年を迎えるに当たって人々を困惑させたのは、Y2K問題などより、世紀表示の不合理さではなかったでしょうか。
たとえば1964年が20世紀ということからして納得しがたいけど、ま、それが決まりだからしょうがないと割り切れなさを抑えつけていました。じゃあ2000年をもって21世紀が始まるかというと、それも違う。もうキモチワルイったらありゃしない。
世紀を制定した人がゼロの存在を知ってさえいれば、こんな掻痒感は避けられたのに。
元年が1年でその前が紀元前1年なのもなんかヘン。特定宗教と関連しているのも問題だし、西暦なんてものは即刻廃止しろと叫びたい。
余談ですが、百科事典によると、天文学では紀元前1年を紀元0年、紀元前2年を紀元-1年と(便宜上)定めています。よってユリウス日のある紀元前4713年は-4712年とな。頭こんがらがっちゃう。
人間が数値にこだわるのは、食料や武器やお金を貯め込み始めたのがきっかけだったかも。ものを数で表わせば、自然と次の行為は「比較」になってしまいます。数字は比較が容易なのです。
だから一見数えられないものを数える方法も工夫してきました。
計ることで、アナログがデジタル化するのです。「測る」は一、二次元。「量る」は主に三次元を受け持っています。「計る」は0次元から4次元までカバーするようです。数字にはならないけど、「謀る」や「図る」は心まで計っちゃうらしい。
太った人も痩せた人も、数的にはそれぞれ1ですが、秤に乗って目盛りを数えると、72キロとか45キロなどの数値で表わされます。賢い人とおバカな人はIQの差で区分けされてしまう。便利といえば便利。
そんな数値化ははたして人類の幸せをサポートできるんでしょうか。
それはそれとして、The Big Sleepはペレットらしくて、私はたいそう好きです。
"The Big Sleep"はレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説で、『大いなる眠り』と翻訳されています。
いつだったか、それとは無関係のハードボイルド短編を読んでいたら、『三つ数えろ』というフレーズに『ビッグ・スリープ』とルビが振られているのを目にしました。どういうこと?
検索したら、映画化されたときの邦題が『三つ数えろ』だったとか。
当該小説も映画も見ていない私には、そのようなタイトルとなった事情は全くわかりません(し、興味もない)。
とにかく「三つ数えろ」ってのは、ギャングの決まり文句のひとつみたいですね。ワン、ツー、スリー、バム!
窓の外に目をやって、ごみごみしたビル群や並木道、通り過ぎる車やバイク、歩行者たちなど雑多な風景が見えたとします。その中から、1軒の建物と1本の銀杏とひとかたまりの雲を選び「ああ、3つあるな」と数える人はあまりいないでしょう。いたとしたら、その3つは(その人にとって)ほかと区別され、取り立てて数えるに値する特別な共通点を持っているはずです。
そんな取り留めもない思いが浮かんだのは、何気なく開いた国語辞典(学研国語大辞典)のある項目が目に留まったからでした。
数[かず]:同じ種類のものが集まっている場合、どの程度に重複しているかを表わすもの。なんとまあもって回った説明。
別の辞書ではもっと簡単に『物の多少や順番を表わすことば』などとあります。
しかし単なる多少や順番では言い足りないんですよね。人が何かを数えるとき、それに先立って「分類」や「定義」が行われます。全く関連のないものを取り合わせて数えることは無意味です。
さて、日本には摩訶不思議な「数え年」というものがあります。
生まれた年を1歳として、お正月のたびにひとつずつ増やしていくのです。新年に全国民がいっせいに年を取るわけで、スッキリした年齢計算ともいえますが、視点を変えれば、個々人の誕生日を無視したファッショな方式だと反発する人も。
だいたい、ひとりの人が最大2歳の開きを持つふたつの年齢を生涯保持するなんて、ややこしくてかないません。
昔は出生届がいいかげんで、1月1日生まれの人がやたらと多かったと聞いたことがあります。単に正月はめでたいからとか、誕生祝いとお年玉とを兼ねようとの倹約精神などではなく、数えと満年齢の差をなくす方策だったのかもしれません。
この数え年、せめて生まれた年は0歳とするのなら、誤差が1で済んだのですが、だからといってややこしさに変わりはないですね。
現在ではゼロ歳、零歳児など、ごく当たり前に使っていますが、昔は「零歳」という概念は想定しにくかったのかもしれません。零は無であり、何もないことですが、赤ん坊は厳然と存在するのですから。
ゼロを発見したのはインド人と言われています。無なるものに存在を与えるとは、素晴らしい着想です。
今生きている人の多くがふたつの世紀を体験しています。
2000年を迎えるに当たって人々を困惑させたのは、Y2K問題などより、世紀表示の不合理さではなかったでしょうか。
たとえば1964年が20世紀ということからして納得しがたいけど、ま、それが決まりだからしょうがないと割り切れなさを抑えつけていました。じゃあ2000年をもって21世紀が始まるかというと、それも違う。もうキモチワルイったらありゃしない。
世紀を制定した人がゼロの存在を知ってさえいれば、こんな掻痒感は避けられたのに。
元年が1年でその前が紀元前1年なのもなんかヘン。特定宗教と関連しているのも問題だし、西暦なんてものは即刻廃止しろと叫びたい。
余談ですが、百科事典によると、天文学では紀元前1年を紀元0年、紀元前2年を紀元-1年と(便宜上)定めています。よってユリウス日のある紀元前4713年は-4712年とな。頭こんがらがっちゃう。
人間が数値にこだわるのは、食料や武器やお金を貯め込み始めたのがきっかけだったかも。ものを数で表わせば、自然と次の行為は「比較」になってしまいます。数字は比較が容易なのです。
だから一見数えられないものを数える方法も工夫してきました。
計ることで、アナログがデジタル化するのです。「測る」は一、二次元。「量る」は主に三次元を受け持っています。「計る」は0次元から4次元までカバーするようです。数字にはならないけど、「謀る」や「図る」は心まで計っちゃうらしい。
太った人も痩せた人も、数的にはそれぞれ1ですが、秤に乗って目盛りを数えると、72キロとか45キロなどの数値で表わされます。賢い人とおバカな人はIQの差で区分けされてしまう。便利といえば便利。
そんな数値化ははたして人類の幸せをサポートできるんでしょうか。
2008年01月12日
墓墓しい
散策コースに広大な霊園があります。
お墓を見るたびに、とある杞憂に襲われます。
人は必ず死ぬ。死んで墓に入る。死者の累計は増える一方で、決して減りはしない。ひとりが占めるスペースは狭いとしても、長い年月を経るうちに地球は墓に覆い尽くされてしまうだろう。生きている人はもはや月や火星に進出するしかないぞ。
それが理由ではないけれど、墓なんか作るのはバカバカしいという考えを、個人的に根深く持っています。
少なくとも私の墓は要らん。葬式も花も線香も鬱陶しいからやめてくれ。そして私が存在した痕跡は速やかに消し去り、思い出は忘却の彼方へ追い払って、幸せに暮らしなさい。
死んだ人は何も感じず、何も思わないんです。
風雅な奥津城に安置されようと、クソ高い戒名を彫ってもらおうと、朝晩陰膳を供えられようと、喜び嬉しがるわけじゃなし。逆に、遺体がそのへんに捨てられてウジに食い荒らされたところで、腹立てたり地団太踏んだりもできません。
死体遺棄や毀損は法に触れるので、相応の取り扱いが求められますが、生活切り詰めてまで豪華な葬式出すのは愚です。
死者への供養は、生者の自己満足に過ぎません。私とて人生全般にわたる自己満足の効用は認めますが、墓参りをしなくても「自分は」平気だと、残された人が判断すれば、墓は不要です。
とはいえ・・・。
私が墓など要らんといくら真剣に書き残しても、遺族が(いたとして)そんな世間体の悪いことはまかりならぬと、墓だの納骨堂だのに無理やり押し込めてしまうことはありうる。
だとしても死んでる私には文句をつけるすべがないわけです。そもそも、死ねば無になるんだから何も感じず考えないと達観していながら、何も感じなくなった後のことまで指図するのは大いなる矛盾じゃないですか。
死にゆく者の願いをできるだけかなえてあげたいのが遺族や関係者の人情です(でないと寝覚めが悪いらしいからね)。そこにつけこんで非常識な命令を残すのは故人横暴というもの。
それどころか、そういうジャドーな望みは、表明するだけでじゅうぶん罪作りです。なぜって、自分の墓を拒絶することは、人の墓を粗末にすることにつながります。黄金律に従えば当然です。
さよう、私は先祖の墓参なんかしたくないから、自分の墓は要らないと思うんです。
私を遺族にするつもりでいる人々はたいそうまともな神経の持ち主なので、自分の墓が荒れ果てたり売っ払われては成仏できぬと、心労のあげく寿命を縮めてしまうおそれもあります。
死んだあとはどうでもいいからこそ、生きている人々を苦しめることは私にとって不本意です。不穏な考えは大急ぎで撤回しなければなりません。
お母様、冗談、冗談ですわよ。こういう信条の人も世の中にはいるんじゃないかなーと思っただけよ。お母様のお墓の周りにはかわいいヒナギクの花を植え、お兄様や万里絵といっしょに毎月必ずお参りいたしますから、どうぞ安らかにご永眠あそばせ。
人生ってのは、バカバカしくても嫌でもやらなきゃいけないことが多すぎるから、墓守りの義務がいっこ増えたくらいどうってことないのも事実でしょう。
ところで、夫やその家族と同じ墓に入るのはごめんだと、自分専用の墓を準備する妻が増えていると聞いたことがあります。
どこに埋められようと大差ないでしょ。焼かれたお骨が何を嫌がるって言うんですか。そんなことに金を使うより、温泉旅行などで今を楽しんでストレス解消すれば、夫婦関係の修復も期待できようものを。
しかし、自分の死後のあれこれを手配することは、生前を心安らかに過ごすための儀式です。死んだら無になり何も感じないという境地を理解できない人々には有用だと認めざるをえません。
墓を嫌うことは、死を軽んじたり不誠実に生きることを意味しません。
自分や他人の死後に向けるエネルギーを現在の生に投入することで、より善い(幸せな)人生を得るチャンスが広がるはずなのです。もっとも、傍目にはあわれな生き方をしている私がこんな主張をしても、やぶへびのような気はしますが。
お墓を見るたびに、とある杞憂に襲われます。
人は必ず死ぬ。死んで墓に入る。死者の累計は増える一方で、決して減りはしない。ひとりが占めるスペースは狭いとしても、長い年月を経るうちに地球は墓に覆い尽くされてしまうだろう。生きている人はもはや月や火星に進出するしかないぞ。
それが理由ではないけれど、墓なんか作るのはバカバカしいという考えを、個人的に根深く持っています。
少なくとも私の墓は要らん。葬式も花も線香も鬱陶しいからやめてくれ。そして私が存在した痕跡は速やかに消し去り、思い出は忘却の彼方へ追い払って、幸せに暮らしなさい。
死んだ人は何も感じず、何も思わないんです。
風雅な奥津城に安置されようと、クソ高い戒名を彫ってもらおうと、朝晩陰膳を供えられようと、喜び嬉しがるわけじゃなし。逆に、遺体がそのへんに捨てられてウジに食い荒らされたところで、腹立てたり地団太踏んだりもできません。
死体遺棄や毀損は法に触れるので、相応の取り扱いが求められますが、生活切り詰めてまで豪華な葬式出すのは愚です。
死者への供養は、生者の自己満足に過ぎません。私とて人生全般にわたる自己満足の効用は認めますが、墓参りをしなくても「自分は」平気だと、残された人が判断すれば、墓は不要です。
とはいえ・・・。
私が墓など要らんといくら真剣に書き残しても、遺族が(いたとして)そんな世間体の悪いことはまかりならぬと、墓だの納骨堂だのに無理やり押し込めてしまうことはありうる。
だとしても死んでる私には文句をつけるすべがないわけです。そもそも、死ねば無になるんだから何も感じず考えないと達観していながら、何も感じなくなった後のことまで指図するのは大いなる矛盾じゃないですか。
死にゆく者の願いをできるだけかなえてあげたいのが遺族や関係者の人情です(でないと寝覚めが悪いらしいからね)。そこにつけこんで非常識な命令を残すのは故人横暴というもの。
それどころか、そういうジャドーな望みは、表明するだけでじゅうぶん罪作りです。なぜって、自分の墓を拒絶することは、人の墓を粗末にすることにつながります。黄金律に従えば当然です。
さよう、私は先祖の墓参なんかしたくないから、自分の墓は要らないと思うんです。
私を遺族にするつもりでいる人々はたいそうまともな神経の持ち主なので、自分の墓が荒れ果てたり売っ払われては成仏できぬと、心労のあげく寿命を縮めてしまうおそれもあります。
死んだあとはどうでもいいからこそ、生きている人々を苦しめることは私にとって不本意です。不穏な考えは大急ぎで撤回しなければなりません。
お母様、冗談、冗談ですわよ。こういう信条の人も世の中にはいるんじゃないかなーと思っただけよ。お母様のお墓の周りにはかわいいヒナギクの花を植え、お兄様や万里絵といっしょに毎月必ずお参りいたしますから、どうぞ安らかにご永眠あそばせ。
人生ってのは、バカバカしくても嫌でもやらなきゃいけないことが多すぎるから、墓守りの義務がいっこ増えたくらいどうってことないのも事実でしょう。
ところで、夫やその家族と同じ墓に入るのはごめんだと、自分専用の墓を準備する妻が増えていると聞いたことがあります。
どこに埋められようと大差ないでしょ。焼かれたお骨が何を嫌がるって言うんですか。そんなことに金を使うより、温泉旅行などで今を楽しんでストレス解消すれば、夫婦関係の修復も期待できようものを。
しかし、自分の死後のあれこれを手配することは、生前を心安らかに過ごすための儀式です。死んだら無になり何も感じないという境地を理解できない人々には有用だと認めざるをえません。
墓を嫌うことは、死を軽んじたり不誠実に生きることを意味しません。
自分や他人の死後に向けるエネルギーを現在の生に投入することで、より善い(幸せな)人生を得るチャンスが広がるはずなのです。もっとも、傍目にはあわれな生き方をしている私がこんな主張をしても、やぶへびのような気はしますが。