2010年12月30日

凡人だって幸福論をぶつぞう

新明解国語辞典によりますと、
幸福  現在(に至るまで)の自分の境遇に十分な安らぎや精神的な充足感を覚え、あえてそれ以上を望もうとする気持を抱くことも無く、現状が持続してほしいと思うこと(心の状態)。

凡人  自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人。
一生を終えたあとでなければその人が凡人であったかどうか判断できないのか。などと揚げ足とるつもりはないけど、『影響力が皆無』とはちと厳しすぎませんか? 孤島で独り暮らすのでない限り、どんなに非力な人でも他者になんらかの影響を及ぼすことはありえましょう。そしてまた、孤島で独り暮らす人は、そのことによってすでに非「凡人」です。

おっと、本日は凡人論ではなく、幸福論です。
生ける凡人ルノがぶち上げる幸福論は、他に対する影響力が皆無だろうから、気楽に好き勝手を言えますぞ。

ちなみに私は新明解国語辞典を持ちません。触ったこともありません。
「読める辞書」として名高い『新解さん』ですが、辞書好きの私には、いったん手に取ったら中毒しそうでコワい。老後の読書リストに掲げておきましょう。

じゃあ上記引用はどこから取ってきたんだ?
夏石鈴子『新解さんリターンズ』です。つまり、引用の引用というものぐさぶり。

この『リターンズ』と出世作『新解さんの読み方』は、面白いところだけ抜き出している分、本家本元『新解さん』より面白いようです。あちこちで笑っちゃいます。
とりわけ引用順序の妙とでもいいましょうか。凡人でも3人タッグを組めば、その並び方しだいでは天才をしのぐ可能性があると思えてきます。
新解さんでも事例の掲載順序が面白いみたいで、それは『リターンズ』の『物の順コーナー』で堪能できます。

おっと、本日は新解さん論ではありませぬ。

「幸福」とほぼ同じ状況をあらわす「幸せ」、両者はどう違うのでしょうか。

「幸福」は二字熟語で硬い印象だから、とりわけ口語では「幸せ」が使われる傾向にあります。

「幸せ」は「仕合わせ(為合わせ)」から来ています。運命の巡り合わせです。字面に良い悪いの判定は含まれませんが、通常良い方面に使います。「幸運」のことです。

仕合わせや運は自分ではどうすることもできません。

幸福ならば、上にも引いたように「心の状態」だから、自力でどうにかなりそうです。
傍目にはどんなに「不仕合わせ」でも、本人が「幸せ」だと思っていれば、その人は「幸福」なのです。

現実には「心の状態」なんて、そう簡単にコントロールできるもんじゃありません。できないからこそ、世の中トラブルだらけなのです。

『幸福論』の大御所アランは『意志で自分の感情をどうこうすることできないが、態度はただちにコントロールできる』と述べています。

そっか、幸せそうな態度をしていれば、幸せ気分になれるのかも。それって、どんな態度?
まずはニコニコ。幸せならきっと笑顔がこぼれるでしょうから。はい、チーズ。ニコニコ、にっこり、むふふ、わははは、がっはっは・・・。
そもそも笑いの効用はすごいらしくて、おかしくなくても笑っていれば免疫力が上がって癌さえ退治するのだとか。

しかし・・・幸せそうに振る舞い、笑ってさえいれば、飢えや失業が解決するだろうか。

ここでいきなり根源的な質問。
幸福ってそんなにいいものか?

戻って、新解さんの定義を再読しましょう。そこはかとなく「幸福」をバカにしているように感じられません?
幸福とは向上心を失った状態です。というか、向上が不要(不可能)になった、最上の段階です。幸福な人は、幸福を維持できなければ、不幸になるしか道がないのです。

むろん語句の意味に関すれば、新明解が「絶対正しい」わけではない。
たとえば当辞典には『全知全能を振り絞る』という用例が載っているようです。
神が天地を創造する際は全知全能を振り絞ったかもしれません。が、振り絞らずともできるのが全知全能のゆえんじゃないですかね。
おーっと、またも脱線。

別の(まともな)辞書を開いてみます。
幸福  すべてのことにみちたりていて、心がおだやかなこと。しあわせ。
すべてに満ち足りるってこと、人生にありうるのでしょうか。
仮にそうなって幸福を満喫していたとして、たとえば、ふと外を見たら雨が降ってきた。
「うわー、これから出かけようとしていたのに、やだなー」と顔をしかめた時点で、「すべて」の片隅にひびが入ります。
「わーい、雨だ。昨日買ったピンクのレインブーツを履ける」と喜ぶポリアンナイストもいましょうが、出かけておニューのブーツが泥はねで汚れたら悲しくなるかもしれません。

テレビをつければ戦争や自爆テロ、殺人、いじめ自殺など悲惨なニュースが目白押しです。それらを見て、いささかも心が痛まない人がいるでしょうか。引き比べて自分の幸せを再認識するだけの人間は、幸福だとしても、客観的にはあわれです。

人は幸福でなくたっていいんです。満ち足りていなくていいんです。心穏やかでなくたっていいんです。
満ち足りた愚者よりも、不遇のソクラテスたれ、ですよ。

むろん幸福に価値がないわけではありません。努力目標として、まっとうな方法で目指せばよろしい。
『幸福は目的として望ましいただひとつのものである』とか言ったのは、経済学的に幸福を求めたミルです。『その他は幸福という目的の手段だ』とも。

一般に、人は幸せになるために行動します。
ただし、幸福そのものは目指すには漠然としすぎています。「幸福」という言葉はさほど意識せず、自分自身や生活をより良くしたいといった感覚で、具体的な目標を設定するものです。

目標を決めた時点では、達成したときのことを考えてワクワクします。
途中ではいろんな障害が発生し、しばしば挫折も味わいますが、やり直したり軌道修正したりと努力の結果、どうにか乗り越えてもう少しで手が届くところまできたら、かなりの充実感があるはずです。

達成してしまったら、実はこんなもんじゃなかったと失望することもままありますが、それはそれでOK。自分が成長しているから、次はより高いものを目指したくなるのです。
そうやってチャレンジし続けることが人生の醍醐味です。「幸福」とやらにはいつまでも手が届かないかもしれないけど、満足(停滞)してしみじみと幸福を味わうよりも、ずっと素晴らしいことだと思いませんか?
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投稿者:ルノ 22:21 | コメント(0) | トラバ(0) | 人生燻
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