2007年07月21日

黄金律

『あれも嫌いこれもキライ』というカテゴリを作りまして、嫌いなものについてあれこれ書く予定でしたが、じき意欲ダウンしてしまいました。給食やマヨネーズ嫌い、メール恐怖症など、よそに回したネタもありますが、山ほど候補に挙がった「嫌いなもの」はほとんどお蔵入りしています。

「好き」と違って「嫌い」という感情はマイナスのイメージが強く、否定的、攻撃的、後ろ向きです。嫌い、嫌いと書きたてた文章を読んだ人は多かれ少なかれ不快になるでしょう。その対象が自分の好きなものだったらなおさらです。
たまに「自分もそれが大っ嫌いなんだ。よくぞ言ってくれた」と快哉を唱える人もいましょうが、「嫌い」で意気投合したところで、ネクラの二乗ではないか。

世の中には「自分が好きなものは他人も好きであろう」「自分が嫌いなものは誰でも嫌いに違いない」と考える人が多すぎませんか。
そういう単純な思い込みに一石を投じたい・・・とはオーバーですが、とにかく世の中にはあなたとは違った嗜好を持つ人がいるんだよと教えてあげたかったのです。

私自身は取り立てて異常な嗜好や性癖の持ち主ではありません。
甘いものが大好きだし、ゴキブリは大嫌い。きれいに片づいた部屋は好きだけど掃除は嫌い。快晴より曇り空を好み、雨の日には出かけたくない。ロックや漫画には好きなものもあれば嫌いなものも多い。
まあ、おおむねフツーです。

そして普通の人でもどこかしら人と違った好みを持っているのが「より普通」ということではないでしょうか。何から何まで平均的な人はかえって異常ですよ。

黄金律とはイエス・キリストの教えのひとつです。わざわざ「黄金」がつくからには、最高・最上のランクなのでしょう。
内容は『何事も人々からしてほしいと望むことは人々にもそのようにせよ』です。

こうした教えはさまざまな宗教や哲学や訓示に見られます。
論語にも『己の欲せざる所人に施す勿れ』とあります。イエスの裏返しというか、トーンが消極的ですね(個人的にはこの消極性が好きです)。「人にされたくないことは人にもするな」ということで、思いやりの精神を説いたものです。

自分がしてほしいことを人にしてあげなさい。
ほんじゃ、なんですか、まぞさんは人を鞭打たねばならないのですか。そりゃトラブルの元ですぞ。

どんな変人でも、腹ペコの時には食べものを欲するでしょう。
とはいえ、みんながみんなパンを望むわけではありません。自分がパン好きだからと人に分け与えようとしたら、相手は小麦アレルギーってこともありえます。

「人の望みはみな同じ」が前提の教えに価値はあるのだろうか。ひとりひとりの個性はどうなるんだ。
そもそもイエス本人がまぞっぽいというか、一般人とはずいぶん違った嗜好の持ち主だったようだし。でなきゃ、右のホッペを打たれたら左も出す、なんてことは思いつかないでしょ。

それでいいんですよ。
突き詰めれば「してほしい」とは、鞭打つだのパンを与えるだのといった個別行動ではなく、「自分が何を望んでいるかを調べるなり推察するなりして、それにかなうようにしてほしい」ということなのです。
鞭打たれたがっている人には鞭打ってやり、鞭打ちたがっている人には鞭打たせてやる。鞭打たれたい人がどうせなら鞭打ちたがらない人に鞭打たれるよりも鞭打ちたがっている人に鞭打たれたいと願うなら、鞭打ちたがる人を見つけてきてあげる。それが真の黄金律です。とはルノ的解釈。

以心伝心は日本的思想であって、契約を旨とする西欧にはなじみません。日本人なら黙っていても察してあげるのが好まれましょうが、あちらの人には単刀直入に問いかけて知るのが妥当でしょう。
もっとも日本人もさまざまだから、察するなんてブキミな真似はされたくないとごねる人だっているはず。何をしてほしいのと訊いても、本心を答えない人だってわんさかいます。

そう考えていったらきりがありません。
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