2012年03月26日

雪に変わりはないじゃなし

『シャボン玉飛んだ、(つられて)屋根も飛んじゃった』という解釈について書かれた文(たぶん『日本人の発想、日本語の表現(森田良行)』という本だった)を読み、ふとあの有名な詩を思いました。

『私が両手をひろげても/お空はちつとも飛べないが』

これに対して、「じゃあ、誰が両手を広げたら、お空は飛べるようになるんだ」とツッコミを入れる人は、まずいませんよね。
「お空」とは基本的に「そこを飛ぶ」ものであって、「それ自体が飛ぶ」という発想には至りにくいからです。

その点、屋根は・・・目にする機会はめったにないとしても、台風や竜巻や爆撃で屋根が飛ばされることはありえます。だから「屋根までもが飛んだ」と受け止めても非常識とまではいえません。屋根も飛ぶ大風の中でシャボン玉遊びをする子どもがいるかどうかはさておき。

空は飛ばないとはいえ、あえて想像すると、ちょっとシュールです。空が飛んでいったあとには何が残るのでしょう。宇宙空間? それって空のことじゃないですか。何もない状態? それこそが空です。結局空はどこへも行けないのです。
鉄腕アトムは「空を越えてラララ星のかなた」まで行くらしいが、空はどこまで行っても空でしょ、越えることなど可能なのかな。

シュールといえば、『月の砂漠』・・・これを私は月世界の話だと信じていました。
だって助詞「の」は、まず所有を意味します。「月の砂漠」を「月にある砂漠」と解釈するのは子どもだけではないはずです。
月の駱駝は地球産に比べて色淡く、なぜか脚も細長く、妙に存在感が薄いような気がしていました。月人(Lunarian)のお姫様も透き通るような肌をしてふにょんと細長いようなイメージ。

童謡の詞は、ほとんど意味不明しばしば文法無視の歌謡曲などに比べれば、いったいに格調高いといえましょう。それだけに子どもたちは正しい意味もわからずに歌っていたものです。
うさぎってそんなにおいしいもんだろうかとか、赤とんぼに追っかけられるとは軟弱な子だなとか。
イアン・アーシーさんの本には「赤い靴履いてた女の子を連れていったのは、いい爺さん」と思い込んでいたというマンガが載っていました。連れていったのが異人でなく「ガイジン」なら、誘拐の匂いがするぞ。

ところで、ある日の買い物帰り、唐突に『おお、ブレネリ』が思い浮かびました。「おブレーネリ、あなーたのおうちはどこ?」というあのデュエット曲。
昔からずいぶんとヘンな歌詞だとは感じていました。私が「おうちどこ?」と尋ねられて「ニッポンよ」と答えたら、相手はおちょくられたと怒るでしょうよ。「狼怖い」といったそばから「ヤッホー」ですか。いささか躁鬱的。

巷には同じことを思った人々がいるに違いないと検索したら、実際いろんな説が飛び交っているのですねえ。延々と論文のように書き並べたページもあって、笑い転げてしまいました。

「ブレネリ」が呼び水になって、似たような翻訳民謡の出だしがいくつか出てきました。タイトルや詳細は知らないけど、「泉に水くみにきて娘らが話していた」や「森へ行きましょう娘さん(アハハ)鳥が鳴く(アハハ)あの森へ(ラララララ)」など。

「森へ行きましょう」は、なんだかナンパっぽい始まりだけど、聞いていると、娘さんも僕らも複数だし、たいそう真面目で健全な「勤労の歌」だとわかってきます。昔の子どもは純真だったから、妙な疑いは抱きません。それよりも「アハハ」ってなんなのさと、首を傾げたりしました。

「アハハ」や「ラララ」などの合いの手(?)は、原曲にあるから外せないのでしょうが、それが違和感をもたらすことはままありますね。

「つらく悲しいときにもラララ泣くんじゃないと」・・・ラララ気分じゃねえだろって突っ込みたくなりませんか。この一点のせいで、『グリーン・グリーン』という歌は、歳月を経ても私の記憶から消えないのでした。
スポンサーリンク
投稿者:ルノ 13:49 | コメント(0) | トラバ(0) | レトロ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/54636582
※トラックバックには言及リンクが必要です。

この記事へのトラックバック