お墓を見るたびに、とある杞憂に襲われます。
人は必ず死ぬ。死んで墓に入る。死者の累計は増える一方で、決して減りはしない。ひとりが占めるスペースは狭いとしても、長い年月を経るうちに地球は墓に覆い尽くされてしまうだろう。生きている人はもはや月や火星に進出するしかないぞ。
それが理由ではないけれど、墓なんか作るのはバカバカしいという考えを、個人的に根深く持っています。
少なくとも私の墓は要らん。葬式も花も線香も鬱陶しいからやめてくれ。そして私が存在した痕跡は速やかに消し去り、思い出は忘却の彼方へ追い払って、幸せに暮らしなさい。
死んだ人は何も感じず、何も思わないんです。
風雅な奥津城に安置されようと、クソ高い戒名を彫ってもらおうと、朝晩陰膳を供えられようと、喜び嬉しがるわけじゃなし。逆に、遺体がそのへんに捨てられてウジに食い荒らされたところで、腹立てたり地団太踏んだりもできません。
死体遺棄や毀損は法に触れるので、相応の取り扱いが求められますが、生活切り詰めてまで豪華な葬式出すのは愚です。
死者への供養は、生者の自己満足に過ぎません。私とて人生全般にわたる自己満足の効用は認めますが、墓参りをしなくても「自分は」平気だと、残された人が判断すれば、墓は不要です。
とはいえ・・・。
私が墓など要らんといくら真剣に書き残しても、遺族が(いたとして)そんな世間体の悪いことはまかりならぬと、墓だの納骨堂だのに無理やり押し込めてしまうことはありうる。
だとしても死んでる私には文句をつけるすべがないわけです。そもそも、死ねば無になるんだから何も感じず考えないと達観していながら、何も感じなくなった後のことまで指図するのは大いなる矛盾じゃないですか。
死にゆく者の願いをできるだけかなえてあげたいのが遺族や関係者の人情です(でないと寝覚めが悪いらしいからね)。そこにつけこんで非常識な命令を残すのは故人横暴というもの。
それどころか、そういうジャドーな望みは、表明するだけでじゅうぶん罪作りです。なぜって、自分の墓を拒絶することは、人の墓を粗末にすることにつながります。黄金律に従えば当然です。
さよう、私は先祖の墓参なんかしたくないから、自分の墓は要らないと思うんです。
私を遺族にするつもりでいる人々はたいそうまともな神経の持ち主なので、自分の墓が荒れ果てたり売っ払われては成仏できぬと、心労のあげく寿命を縮めてしまうおそれもあります。
死んだあとはどうでもいいからこそ、生きている人々を苦しめることは私にとって不本意です。不穏な考えは大急ぎで撤回しなければなりません。
お母様、冗談、冗談ですわよ。こういう信条の人も世の中にはいるんじゃないかなーと思っただけよ。お母様のお墓の周りにはかわいいヒナギクの花を植え、お兄様や万里絵といっしょに毎月必ずお参りいたしますから、どうぞ安らかにご永眠あそばせ。
人生ってのは、バカバカしくても嫌でもやらなきゃいけないことが多すぎるから、墓守りの義務がいっこ増えたくらいどうってことないのも事実でしょう。
ところで、夫やその家族と同じ墓に入るのはごめんだと、自分専用の墓を準備する妻が増えていると聞いたことがあります。
どこに埋められようと大差ないでしょ。焼かれたお骨が何を嫌がるって言うんですか。そんなことに金を使うより、温泉旅行などで今を楽しんでストレス解消すれば、夫婦関係の修復も期待できようものを。
しかし、自分の死後のあれこれを手配することは、生前を心安らかに過ごすための儀式です。死んだら無になり何も感じないという境地を理解できない人々には有用だと認めざるをえません。
墓を嫌うことは、死を軽んじたり不誠実に生きることを意味しません。
自分や他人の死後に向けるエネルギーを現在の生に投入することで、より善い(幸せな)人生を得るチャンスが広がるはずなのです。もっとも、傍目にはあわれな生き方をしている私がこんな主張をしても、やぶへびのような気はしますが。