2008年01月13日

0 one 2 many

ピーター・ペレットが作った曲には映画からタイトルを拝借したものがいくつか見受けられます。映画嫌いの私でさえ気づいたくらいだから、実際には「いくつか」どころか、たっくさん存在するんじゃないでしょうか。リリシストとして実に安易な姿勢です。
それはそれとして、The Big Sleepはペレットらしくて、私はたいそう好きです。

"The Big Sleep"はレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説で、『大いなる眠り』と翻訳されています。
いつだったか、それとは無関係のハードボイルド短編を読んでいたら、『三つ数えろ』というフレーズに『ビッグ・スリープ』とルビが振られているのを目にしました。どういうこと?

検索したら、映画化されたときの邦題が『三つ数えろ』だったとか。
当該小説も映画も見ていない私には、そのようなタイトルとなった事情は全くわかりません(し、興味もない)。
とにかく「三つ数えろ」ってのは、ギャングの決まり文句のひとつみたいですね。ワン、ツー、スリー、バム!

窓の外に目をやって、ごみごみしたビル群や並木道、通り過ぎる車やバイク、歩行者たちなど雑多な風景が見えたとします。その中から、1軒の建物と1本の銀杏とひとかたまりの雲を選び「ああ、3つあるな」と数える人はあまりいないでしょう。いたとしたら、その3つは(その人にとって)ほかと区別され、取り立てて数えるに値する特別な共通点を持っているはずです。

そんな取り留めもない思いが浮かんだのは、何気なく開いた国語辞典(学研国語大辞典)のある項目が目に留まったからでした。
数[かず]:同じ種類のものが集まっている場合、どの程度に重複しているかを表わすもの。
なんとまあもって回った説明。

別の辞書ではもっと簡単に『物の多少や順番を表わすことば』などとあります。
しかし単なる多少や順番では言い足りないんですよね。人が何かを数えるとき、それに先立って「分類」や「定義」が行われます。全く関連のないものを取り合わせて数えることは無意味です。

さて、日本には摩訶不思議な「数え年」というものがあります。
生まれた年を1歳として、お正月のたびにひとつずつ増やしていくのです。新年に全国民がいっせいに年を取るわけで、スッキリした年齢計算ともいえますが、視点を変えれば、個々人の誕生日を無視したファッショな方式だと反発する人も。

だいたい、ひとりの人が最大2歳の開きを持つふたつの年齢を生涯保持するなんて、ややこしくてかないません。
昔は出生届がいいかげんで、1月1日生まれの人がやたらと多かったと聞いたことがあります。単に正月はめでたいからとか、誕生祝いとお年玉とを兼ねようとの倹約精神などではなく、数えと満年齢の差をなくす方策だったのかもしれません。

この数え年、せめて生まれた年は0歳とするのなら、誤差が1で済んだのですが、だからといってややこしさに変わりはないですね。
現在ではゼロ歳、零歳児など、ごく当たり前に使っていますが、昔は「零歳」という概念は想定しにくかったのかもしれません。零は無であり、何もないことですが、赤ん坊は厳然と存在するのですから。

ゼロを発見したのはインド人と言われています。無なるものに存在を与えるとは、素晴らしい着想です。

今生きている人の多くがふたつの世紀を体験しています。
2000年を迎えるに当たって人々を困惑させたのは、Y2K問題などより、世紀表示の不合理さではなかったでしょうか。
たとえば1964年が20世紀ということからして納得しがたいけど、ま、それが決まりだからしょうがないと割り切れなさを抑えつけていました。じゃあ2000年をもって21世紀が始まるかというと、それも違う。もうキモチワルイったらありゃしない。

世紀を制定した人がゼロの存在を知ってさえいれば、こんな掻痒感は避けられたのに。
元年が1年でその前が紀元前1年なのもなんかヘン。特定宗教と関連しているのも問題だし、西暦なんてものは即刻廃止しろと叫びたい。

余談ですが、百科事典によると、天文学では紀元前1年を紀元0年、紀元前2年を紀元-1年と(便宜上)定めています。よってユリウス日のある紀元前4713年は-4712年とな。頭こんがらがっちゃう。

人間が数値にこだわるのは、食料や武器やお金を貯め込み始めたのがきっかけだったかも。ものを数で表わせば、自然と次の行為は「比較」になってしまいます。数字は比較が容易なのです。

だから一見数えられないものを数える方法も工夫してきました。
計ることで、アナログがデジタル化するのです。「測る」は一、二次元。「量る」は主に三次元を受け持っています。「計る」は0次元から4次元までカバーするようです。数字にはならないけど、「謀る」や「図る」は心まで計っちゃうらしい。

太った人も痩せた人も、数的にはそれぞれ1ですが、秤に乗って目盛りを数えると、72キロとか45キロなどの数値で表わされます。賢い人とおバカな人はIQの差で区分けされてしまう。便利といえば便利。
そんな数値化ははたして人類の幸せをサポートできるんでしょうか。
投稿者:ルノ 22:43 | コメント(2) | トラバ(0) | 辞書と戯れる
2007年12月02日

蒲公英譚

紅葉の季節です。
が、街なかではなかなかちゃんと色づきませんね。
木の葉が色づくためにはじゅうぶんな気温の低下が必要ですが、温暖化のせいで遅れがちになっていると聞きます。

ただし同じ場所でも個体差が見受けられます。近所のイチョウも木によって緑、黄色、茶色っぽいの、ほとんど枯れ落ちてるのなど、さまざま。

黄葉並木

条件は温度だけではないのですね。
同じ年齢で同じように暮らしていても、若々しい人とやけに老けてる人がいるのと似ています。

もみじやかえでの赤い色はアントシアニンという色素だとか。
アントシアニンといえば、人間界ではアンチエイジング成分として脚光を浴びています。

植物が色素を蓄積するのはひとつの防御反応です。
人間が日焼けしてメラニンを増やすのと同様に、アントシアニンで層を形成して紫外線など有害物質の刺激から身を守る(細胞の酸化を防ぐ)機能を持つのです。

しかし紅葉はもはや死にかけた葉。防御も手遅れではないのですか?
たぶん守ろうとしているのは葉ではなく本体なのでしょう。自然のしくみは奥深いのですよ。

この銀杏並木の近くで、落ち葉に埋もれかけながら咲くタンポポを見つけました。背丈も低く、かわいらしいじゃありませんか。

花咲く蒲公英

タンポポって今ごろ咲くもんだろうかと、家に帰ってから古い百科事典を開いてみました。秋咲きたんぽぽの記載などありません。やはり温暖化の影響?
なお、ここ九州あたりに生えているのは真のタンポポではなく、西洋タンポポだとか。

英語でタンポポはdandelionです。フランス語のdent de lion(ライオンの歯)から来ているそうな。ギザギザの葉っぱからのイメージです。そういえばdentからはデンタルなど歯に関した語が思い浮かびます。

花言葉はcoquetry(媚態)・・・おお、雑草らしからぬ。そのほか「恋の託宣」というのもあります。綿毛を吹いて占いをするところから来ました。恋だけでなく幸せを告げる花でもあります。

事典にはタンポポという名の由来も載っていました。
中国では婆婆丁(ポポチン)といいます(婆をふたつも重ねられてかわいそうに。媚態が泣きますわ)。
しかし古くは「丁婆婆」と呼ばれていたそうです。転じてタンポポ。わっかりやすいですねえ。

 
投稿者:ルノ 23:09 | コメント(8) | トラバ(0) | 辞書と戯れる
2007年11月23日

男は胸キュン

胸キュンなんて言葉がはやったのはいつのことだったか。
胸キュンって、英語ではどう表現するのでしょう。

というようなことに興味を持ったわけでは全然ないけど、胸キュンにたどり着いたのは英和辞典がきっかけです。

某英語サイトのタイトルを変更しようとあれこれ考えまして、やっぱcuteが無難かな・・・と辞書をめくりました。

このcute、もともとはアメリカ語であって、イギリスでは別の意味を持ちます。もっとも、今や世界のどこでもcuteの第一義は「かわいい」でありましょう。
当該サイトにも"cute men"などで検索してくる人がけっこういました。ひとかどのオトコには似つかわしくない形容詞だけど、女子高生や若い女性が見境なく「カワイイ」を連発する現象は日本だけではないと思われます。

英語にいくつかある「かわいい」を意味する言葉の中では、cuteが最も一般的です。
lovelyやprettyは、美しさに温かみや親しみが加わったようなかわいらしさです。
ほかにcuddlyという言葉もあり、「抱きしめたいほど可愛い」などと訳されまして、人よりもぬいぐるみや人形に使われるようです。

ところがです。一見ありふれたcuteなのに、どうもタダモノじゃないようだ。瞠目したのは語源です。
ランダムハウスには『ACUTEの頭音消失異形』とあります。そのacuteは「鋭い、激しい」苦痛や悲哀を表わす形容詞です。「激しい」よりももっと強い「激烈な」が適当な感じ。

えっ、どうしてそんな激しい痛みが、aが取れたくらいで「かわいい」になっちゃうの?
再度cuteの項に戻りますと、『鋭く胸を刺すようにかわいい』のだと。

「可愛い」って、胸をキュッと刺すほどの強い刺激なのですね。
ここから胸キュンまでは一足飛び。ですが、ちょと待った、日本語にはcuteと同等の伝統的な言葉がありました。

愛くるしい

この「くるしい」はひらがなであって、「愛苦しい」とは書きません。語源も知りません。
それでも「むさくるしい」や「重苦しい」の仲間だとは想像がつきます。

愛くるしいもcuteも、子どもや若い女性など自分より小さい対象に使う言葉です、本来は。
西洋人も日本人も、小さな可愛いものは痛みや苦しみに似た感情を呼び起こすことをひしひしと感じていたのです。

だからきっと、胸キュンもその延長なのですよ。キュンが激しいと心筋梗塞のおそれもありまする。

つまりですね、若い女性がベッカムを見て胸をときめかせるのはいいとして、それは胸キュンとはちょっと違うんじゃないかなってこと。ベッカム(ってもうオジサンやんか)に胸キュンする資格があるのは、もっとでっかくて年いってて強くて・・・うへえ。

さてあなたは、そんなふうに胸が痛いほどかわいいものに出会ったことがありますか?

私はあまり記憶にありません。
いーのよ、オンナはかわいいと言われる立場なんだから。胸キュンは男の特権、男の義務だーい。

いやはや、差別的発言でした。
よりポリティカリーに言い直しますと、大きくて強い人間は、自分よりも小さい非力な人間に接したら、そのひたむきさ、可憐さに胸打たれ、「かわいい」「守ってあげたい」「いつまでも大切にしたい」と思うべきです。それを実行すべきです。

人類は恐竜に追われ、マンモスに踏まれて散々な思いをする一方、小さなうさぎやねずみを糧としてきました。いわゆる弱肉強食です。生きるためには致し方ありません。小さな獲物で満足せず、マンモスまで狩ってしまう創意工夫は人間の誇りとしても、安易な方向へ流れるのが一般人の常です。

小さなものに対する攻撃が同じ種に向かうと、その種は滅びます。
それを回避するためか、小さくて丸っこい形は母性本能を刺激するらしいのです(クヌートのページでも述べました)。とりわけ哺乳類はそういうしくみがなければ、赤ん坊はたちまち死に至ります。
かわいらしさが苦痛に近い感銘を与えることが民族を超える共通意識であるのもその表れではないでしょうか。

強く大きくなった人間が小さなかわいいものへの感受性を持ち続けるなら、いたいけな幼子を床に叩きつけたり、熱湯に浸したりできるはずはありません。
無力な相手を蹂躙するのはいともたやすく、頭脳と膂力ある人間が決してやってはならないこと、恥ずべきことです。子どもだけじゃない、無能な部下も気弱な同級生もいちおう「か弱き者」だ。
だいたいね、我が子も同然の幼子を殺して懲役6年だなんて、そもそも求刑10年からして少なすぎるが、ほぼ半額セールではないか。私が裁判員になったらそんな甘っちょろい判決は許さんぞ。
うー、横道か?

男たちよ、胸キュンを忘れるな。
あ、それで、胸キュンを英語でなんと言うかは自分で考えてね。
投稿者:ルノ 22:56 | コメント(2) | トラバ(0) | 辞書と戯れる
2007年09月06日

穿く 履く ハクション

パンティだのスカートだのと、当ブログには「はく」話がいくつかありまして、コメントはそのあたりに集中しちゃっています。
変換機能もかかわっているのか、「履く」と打つ人、「穿く」を使う人、さまざまですね。

服飾分野ではほかに「佩く」という語があります。腰に下げたりはさんだりすることです。わが国では佩剣、佩刀などもっぱら武器を帯びることを指しますが、もともとは数珠みたいな飾りを腰に吊るすことだったようです。

で、「穿く」と「履く」はどう違うの?

「雨だれ石を穿つ」といいます。「穿」の字源は牙で穴をあける。穿孔とか穿鑿とかの熟語もそういった方面。「衣弊履穿」とはボロ服にボロ靴ということ?
なぜに「穿く」がズボンやパンツを身に着けることになったんでしょう。手持ちの小さな漢和辞典には、そういう語義は明確には記載されておらず、熟語例も穴ぼこ関連のみ。もしかして日本で意味づけされたのか。

「穿く」を国語辞典で引くと、「はかまやズボンなどに足を入れて腰から下に着ける」とあります。なるほど、穴のあいた衣装に足を通すから「穿く」なのですね。

一方の「履」は、履物(くつ)を意味します。字形の成り立ちは人が舟形の木靴をはいているようす、とな。
履物を指す漢字はいくつかあり、材料や形によって分けられます。履は主に革製の短靴で、いっとう一般的なものです。革が化ける「靴」は、どちらかというと丈長のブーツ。

古代日本では中国風なくつを履いていたようですが、次第に鼻緒のついた草履や下駄が主流となりました。夏の多湿と甲高幅広の足型に被甲型の履はつらかったのでしょうか。
明治維新以降、合わない欧米型の靴に無理やり足を押し込めてきた弊害は甚大なものがあります。いや、脱線。

履行、履修、履歴などの熟語に見られるように、「履」には「踏む」から派生したらしい「行う」「経験する」といった意味もあります。なべて人の行為はしっかり足を踏みしめることが基本となるわけです。

ともあれ「履く」は足先の靴に限定されます。穴もあいてないし。サンダルはどうなんだーと突っ込まれそうだけど、それはデザインのバリエーションに過ぎません。

靴の亜型と見える靴下はどうなのかというと、これが「穿く」なのです。新品だろうと、はき古しの穴あきだろうと。
レギンスやパンストは「穿く」が合いそうだけど、ソックスにはなんとなく納得がいきませんね。
足袋や靴下は履物ではなく衣類として扱われたということでしょうか。足袋や靴下を意味する「襪」は衣へんです(韈という異体もありますが)。
足先にかぶせるものだから、「履く」としても違和感はなく、間違いとまではいえないようです。

そんなわけで、パンツやスカートを「履く」としている表記も多数見受けますが、常用漢字外だから代用しているケースも考えられます。あまり厳密に当てはめようとすると疑問点も出てくるし、無難なのはひらがなでしょうね。

私はひらがなを含め、不統一の姿勢です。同一エリアに表記ゆれが多在することは、昔だったら許しがたいと思ったのに、ウェブ上では意識して揺らす習慣がついてしまいました。我ながらバカバカしいと思いつつも。
投稿者:ルノ 19:47 | コメント(6) | トラバ(0) | 辞書と戯れる
2007年07月29日

髪は長〜い友だち

というようなコマーシャルがありましたね。
なぜ髪の下部分は「友」なのでしょう。中国人はほんとうに髪を友だと見なしていたのでしょうか。

そういうくだらないことを考え始めると気になって眠れない。というタイプでは決してありませんが、漠然とした興味から辞書をめくってみました。
漢字の成り立ちには、なるほどーと感嘆するような面白いものや、深い意味なくできたらしいものなどさまざまです。

髪を分解してみます。左上部分は「長」と同じです。古字だとか。
「彡」(さん)は毛。毛が3本でオバQ。ちょと向きが違う?
「髟」(ひょう)は「毛が長い」こと。辞書には「長い髪が垂れ下がったさま」とあります。これだけでじゅうぶん髪になってるわけですね。
では、友の役割は?

実はこれ、友ではなかったのです。
髪の旧字は「髮」。よーく見ないとわかりにくいのですが、下が犮(ハツ)です。髪の音読みが「ハツ」なのはここから来ています。
意味は「犬が走るさま」「取り除く」・・・確かに、犬が足をパタパタさせてるようにも見えます。

それはいいとして、長い髪の下を犬が走ると髪になる理由がわからん。ということで、追究はあっという間に挫折したのでありました。お疲れさん。

あえて意味づけするなら、髟は自然のままのザンバラ髪で鬱陶しいから、カットして(取り除いて)結ったり飾ったりした総合的「ヘアスタイル」を髪と呼ぶ、というのはいかがでしょう。

この犮が含まれる漢字はけっこうあります。比較的なじみ深いのは、お祓いの祓や、跳梁跋扈の跋など。発音もハツ、バツ、フツなど親戚っぽい。
「示」は「神を祭る台」の形から来た象形文字。宗教的な意味合いの漢字によく使われます。だから祓は「神が災いを取り除く」と納得がいきます。
「跋」の意味は「越える」「踏みつける」「かかと」等です。ふーむ、それで?

髪と同じく、犮が友に変わった事例に「抜」があります。旧字は「拔」です。「手で引き抜いて取る」という意味から、なんとなくうなずけます。

漢字の形の変化は、間違いが習慣的に定着したり、書きやすさを求めた結果と思われます。一部の文字だけが変化したのは、それらが頻繁に使われていたからでしょう。

漢字は日本人にとっても長〜い友だちです。
時には好きな漢字を選び、字義や字源を調べて温故知新の楽しみにひたってみませんか。お金のかからない知的ヒマつぶしですぞ。
投稿者:ルノ 22:20 | コメント(5) | トラバ(0) | 辞書と戯れる
2007年04月16日

塞翁が馬

「人間万事塞翁が馬」といいます。

辞書には『人間の運命のはかり知れないことのたとえ』『人生における幸・不幸の予測しがたいことのたとえ』とあります。
吉事に見えたことが凶事を招き、不運だと嘆いていたらそれが幸運を運んでくるといったことの回り合わせが人生というものです。

「塞翁が馬」とは塞翁さんの馬という意味です。塞翁は固有名詞ではなく、北の砦(要塞)の近くに住む、とある翁(おきな=老人)。
「北」という言葉はどこにも使われていないけど、北方から蛮族が攻めてくるのを防ぐため、北部の国境には特に頑丈な砦があったのでしょうね。
その老人の馬が逃げてがっかりしていたら、駿馬を連れて戻ってきて、喜んだ老人の息子が駿馬を乗り回して落馬で怪我をして、そのために兵役に取られず戦死を免れたのでありました。

この話からは「逆境にもめげるな、必ずいいことがある」「得意の絶頂でも慢心するな、気を引き締めないとどん底に落ちるかもしれない」との励ましや戒めが読み取れましょう。
いや、むしろ「努力してもうまくいくとは限らない」「棚からぼた餅を待つほうが得策だ」「ジタバタしても人生はなるようにしかならない」という諦観が漂ってはいませんか? 私はそっち派です。

以前から感じているんですけど、精魂込めて打ち込んでもいっこうに認められず、そこから派生したどうでもいいような事柄が意外な成果をもたらすといった皮肉な出来事がけっこうあるのです。で、方針を転換してそちらに邁進すると、横槍が入ってぺしょん、てなあんばい。
人生って思うに任せませんな。
あんまし肩肘張らず、寝太郎を決め込んだほうがうまくいくかも・・・。

人生は予測しがたいとはいえ、この逸話をハッピーエンドで終わらせた中国人は、わりと楽天的なのではないでしょうか。

塞翁さんは最後に「しめしめ」とにんまりしたわけですよね。
「ほくそえむ」は「北叟笑む」と書きます。漠然とヘンな言葉だなと思っていたら、今回なぞが解けました。
「叟(そう)」は「翁」と同じです。北叟とは息子を奪われずに済んだ塞翁のことでした。
北の老人が人知れず笑うということで、「塞翁が馬」の締めくくりは「ほくそ笑む」だったのです。
投稿者:ルノ 22:01 | コメント(0) | トラバ(0) | 辞書と戯れる
2007年03月12日

3匹の犬はつむじ風

先日、ノートに文章を書こうと試みた話をしましたが、実はさっぱり進展しておりません。

ところでその大学ノートをめくったとき、思いもかけないものを発見して愕然としたのでした。

ヘターな字をお目にかけたくはないのですが、努力ぶりに我ながら感動したものですから。数年前と思うけど、当時からおツムへの危機意識だけはあったようです。
練習帳
内容は、JIS第二水準の漢字を順次書き出し、漢和辞典で読み方と意味・熟語・用例などを調べて概略を書き写したもののようです。
「仄」の項には「ソク 傾く、ほのか、いやしい。仄日=夕陽 仄目…目を逸らす 平仄(ひょうそく)…つじつま」
「俤」は「おもかげ、すがた、顔つき。弟に兄の面影があるので」と記入。なるほどねー。

この書き取り練習を真面目に続けていれば、今ごろは生き字引に近づいていただろうか。
残念ながら数ページで挫折し、「にんべん」までしか残っておりません。こんなものを書いたことすら忘却の彼方でありました。自分で書いておきながら、ほとんどの字がまるで初めて見たような印象。情けないのう。

別のページには、重ね字(とは呼ばないだろうけど、同じ字が2つ以上組み合わされてひとつの漢字になったもの)を捜した形跡がありました。

基本は一がふたつで二。
木が2つで林、3つで森、じゃあ4つで・・・ジャングル。ってのは昔見たなぞなぞ。
「出」は山2つに見えますが、つながっているので失格。「羽」は2つ並んでいるけど、1つでは漢字として成り立たないのでダメ。
人気の漢字「彡」はどうなの? 「丿」という字があるにはあります。「ヘツ」とか「ヘチ」とか読みます。「右から左へ戻る」ことだとか。でも角度を見ると、ちょっと違うような。

そんなふうにして捜すと、重なり漢字ってけっこう多いのです。

「又」は重なる意味があるけど、それを重ねた「双」は4つ重なることではなく2つにしか過ぎません。双子を表す漢字は「子」が横に2つ並んだ「孖」(表示されない?)。

2つよりも3つ重なる字のほうが多いようです。蟲、姦、轟、等々。
ありそでないのは、田が3つ、口が4つの漢字。部分的にはよく使われますが。
4つ重なるものは思いつきませんでした。
昔、最多画数の漢字は「龍」を4つ組み合わせたものだと聞きましたが、手持ちの小さな漢和辞典には載っていません。
「鹿」3つが最高かな。こんな緻密な字なのに、意味は「粗い、大雑把」だそうです。

パソコンの漢字変換に頼るだけでなく、ときには辞書をめくって漢字遊びをするのも面白いものですよ。ネタも見つかるし。
投稿者:ルノ 18:41 | コメント(11) | トラバ(0) | 辞書と戯れる
2007年02月12日

臍を噬む(ほぞをかむ)

ほぞとはおヘソのことです。
噬むは噛むと同じ。ニュアンスとして、噬は前歯でかぷっと、噛は奥歯でしっかりと・・・みたいな。噬にはついばむという意味もあるのです。

へそをかむなんて、いったいどうやったらそんなもん噛める〜ん?

受難』のフランチェス子さんのようにメチャ柔軟ボディの持ち主が、イヤミみたいな出っ歯だったら、歯が立つかな。
普通の人間にできるのは、他人のデベソを噛むくらいでしょうね。

ので、「ほぞをかむ」とは不可能なことのたとえです。
違うって。まあ、同じといえば同じだけど。
おおもとは噬臍(ぜいせい)という熟語で、晋と楚の勢力争いを書いた『春秋左氏傅』(左伝)が出典です。へそには口が届かないから、いくら後悔しても間に合わないのだ、と。

一般に「悔やむ」「後悔する」の意味で使われます。後悔はどのみち手の打ちようのないときにするものですが、「臍をかむ」は後悔の程度を上げて「激しく後悔する」が適当なようです。

「切歯扼腕」「歯噛み」「歯軋り」など、悔やんだりくやしがったりするときには歯の出番が多いですね。あまりぎりぎり噛み締めると歯が磨り減るのでご注意を。
投稿者:ルノ 20:35 | コメント(2) | トラバ(0) | 辞書と戯れる
2006年12月06日

不吉なイチタ

不吉なイタチ、ではありませぬ。
イチタとは・・・パソコンによってはちゃんと表示されないかもしれませんが、文字通り一にカタカナのタ。列という漢字のへん(左側)の名前です。
漢和辞典によりますれば、漢字の歹は『ガツ』と読みます。意味は、『もとる』とか『わるい』とか、まあ吉事とは程遠いようです。
字源は砕けた骨の形状から来ています。一説には『骨』という字を半分にしたとな。え? 縦割りかしらん。それともドラフト印刷?

そういう成り立ちゆえか、イチタの部首を持つ漢字は不吉なものばかり。
おおむね、死・殺・滅・棺・葬・災などに関係する字が多いようです。

むろん筆頭は『死』。ただし死は横棒が長いので、辞書によっては『一』という部首に分類されています(歹も同様)。
殉死・殉職の『殉』も死の一種ですね。
イチタの右側に『血』をつけたのは『鳥の卵をつぶす』という意味の漢字だそうです(部首変換でも出てこない)。

『残』は残酷・残忍に見られるように、『むごい』『滅ぼす』等の意味があり、特殊や殊勲の『殊』はこれまた『殺す』『根絶やしにする』という意味も持ちます。殆(ほとんど)という言葉も、危うい→滅びそうだというところから来ています。

問題なさそうなのは、上述の『列』くらいか。

いやいや、めでたい字がありました。
利殖や繁殖の。意味は、増える・育つ・茂るなど、このグループで唯一、明るい展望に満ちた漢字です。

しかし・・・。

「配当金何十万」「絶対に儲かります」「3年で元本回収」など、いかがわしい投資話にすいすい乗っちゃう人々はいつの世も絶えません。財産失ってほぞをかむ彼らにとって『利殖』という字はこの上なく不吉なものに見えることでしょう。
投稿者:ルノ 21:21 | コメント(0) | トラバ(0) | 辞書と戯れる
2006年11月20日

辞書は重い

辞書を引くたびにちょっとした錯覚に襲われます。この辞書をうんと使い込んで熟達すれば、いずれは片手で持ち上げられるほど軽くなるんだと。
現実にはいくら使い馴染んだところで書物の重量が減るはずはありません。手垢がついてかえって重くなるのが関の山。

辞書好きな私ですが、そのわりに使用頻度が低いのは重さに阻まれているから。
渾身の八・七キログラム(東野圭吾『超・殺人事件』)には負けるとしても、よく使う国語辞典や英和辞典は3〜4キログラム? ひょいと取り出して掌の上でぱらっとめくるには1.5kgが限度か。
ウエイトトレーニングなどで腕力を鍛えれば、相対的に軽く感じるようにはできましょうが。ああ、虚弱体質なの。

それほど使っていないわりに、我が家の辞書たちはけっこうボロッとしてます。
特にランダムハウス英和辞典はひどい。外れかけた表紙は両側ともガムテープで貼り付けられ、外側に近いほうのページ(AとZ)は勝手に折り目がついてしわくちゃになり非常にめくりにくい。何度かアイロンをかけて伸ばしたもので、紙質の劣化を促進してしまいました。
もともと装丁が粗悪で、紙が薄いのです。厚さ9センチでページ数は3,100超。薄さゆえ重量も抑えられているのだから、痛し痒しですな。ちなみに実家にある第一版は豪華4分冊で、とても手軽に引けるようなシロモノじゃおまへん。百科事典じゃあるまいし、辞書は何がなんでも1冊にまとめるべきです。

講談社カラー版日本語辞典(1995年)は8.5cmで2,500ページ。表紙がペラペラと薄くて、自立しないのが難点です。ビジュアルでわかりやすく、事物や言葉に関する広く浅い知識を得ることができます。簡単な和英辞典や漢和辞典としても使えます。

いっとう重宝しているのが、学研の国語辞典(1978)。文学作品からの豊富な用例がすばらしい。
作りも頑丈。長年使っているにしては一番しゃっきりしています。8.5cmで2,200ページ(うち表紙2枚で8ミリ)。

以上3冊が常用の辞典。辞書好きとか言いつつ、手持ちの辞書はわずかだし、古いものばかり。数多くそろえてもなかなか使いこなせないからこの程度でじゅうぶんです。本棚も狭いし。
和英辞典はほとんど使いません。英英辞典は持ちません(どうせ見る気にもならない)。

いくらオンライン辞書が発達しても、いくらCD辞書が充実しても、紙製辞書の需要がなくなることはないと断言します(したい)。
だから製紙会社さん、薄くて丈夫でかつ安い紙の開発を進めてくださいな。

以前ダンベル体操をやろうと思い立ったことがあります。でもダンベルを買ったとしてもすぐに飽きたらもったいないなと、辞書で代用することにしました。重さはじゅうぶんだったのですが、持ちにくいのなんのって。取り落として爪先をつぶす危険に何度か遭遇した後、百円ショップで1キロのダンベルを2個買ってきました。・・・で、飽きて放置。飽きたらもったいないと考えた時点ですでに結果が見えていたんですねー。辞書のスリルが消えたのもマイナスだったのかな。
投稿者:ルノ 22:56 | コメント(2) | トラバ(1) | 辞書と戯れる