それはそれとして、The Big Sleepはペレットらしくて、私はたいそう好きです。
"The Big Sleep"はレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説で、『大いなる眠り』と翻訳されています。
いつだったか、それとは無関係のハードボイルド短編を読んでいたら、『三つ数えろ』というフレーズに『ビッグ・スリープ』とルビが振られているのを目にしました。どういうこと?
検索したら、映画化されたときの邦題が『三つ数えろ』だったとか。
当該小説も映画も見ていない私には、そのようなタイトルとなった事情は全くわかりません(し、興味もない)。
とにかく「三つ数えろ」ってのは、ギャングの決まり文句のひとつみたいですね。ワン、ツー、スリー、バム!
窓の外に目をやって、ごみごみしたビル群や並木道、通り過ぎる車やバイク、歩行者たちなど雑多な風景が見えたとします。その中から、1軒の建物と1本の銀杏とひとかたまりの雲を選び「ああ、3つあるな」と数える人はあまりいないでしょう。いたとしたら、その3つは(その人にとって)ほかと区別され、取り立てて数えるに値する特別な共通点を持っているはずです。
そんな取り留めもない思いが浮かんだのは、何気なく開いた国語辞典(学研国語大辞典)のある項目が目に留まったからでした。
数[かず]:同じ種類のものが集まっている場合、どの程度に重複しているかを表わすもの。なんとまあもって回った説明。
別の辞書ではもっと簡単に『物の多少や順番を表わすことば』などとあります。
しかし単なる多少や順番では言い足りないんですよね。人が何かを数えるとき、それに先立って「分類」や「定義」が行われます。全く関連のないものを取り合わせて数えることは無意味です。
さて、日本には摩訶不思議な「数え年」というものがあります。
生まれた年を1歳として、お正月のたびにひとつずつ増やしていくのです。新年に全国民がいっせいに年を取るわけで、スッキリした年齢計算ともいえますが、視点を変えれば、個々人の誕生日を無視したファッショな方式だと反発する人も。
だいたい、ひとりの人が最大2歳の開きを持つふたつの年齢を生涯保持するなんて、ややこしくてかないません。
昔は出生届がいいかげんで、1月1日生まれの人がやたらと多かったと聞いたことがあります。単に正月はめでたいからとか、誕生祝いとお年玉とを兼ねようとの倹約精神などではなく、数えと満年齢の差をなくす方策だったのかもしれません。
この数え年、せめて生まれた年は0歳とするのなら、誤差が1で済んだのですが、だからといってややこしさに変わりはないですね。
現在ではゼロ歳、零歳児など、ごく当たり前に使っていますが、昔は「零歳」という概念は想定しにくかったのかもしれません。零は無であり、何もないことですが、赤ん坊は厳然と存在するのですから。
ゼロを発見したのはインド人と言われています。無なるものに存在を与えるとは、素晴らしい着想です。
今生きている人の多くがふたつの世紀を体験しています。
2000年を迎えるに当たって人々を困惑させたのは、Y2K問題などより、世紀表示の不合理さではなかったでしょうか。
たとえば1964年が20世紀ということからして納得しがたいけど、ま、それが決まりだからしょうがないと割り切れなさを抑えつけていました。じゃあ2000年をもって21世紀が始まるかというと、それも違う。もうキモチワルイったらありゃしない。
世紀を制定した人がゼロの存在を知ってさえいれば、こんな掻痒感は避けられたのに。
元年が1年でその前が紀元前1年なのもなんかヘン。特定宗教と関連しているのも問題だし、西暦なんてものは即刻廃止しろと叫びたい。
余談ですが、百科事典によると、天文学では紀元前1年を紀元0年、紀元前2年を紀元-1年と(便宜上)定めています。よってユリウス日のある紀元前4713年は-4712年とな。頭こんがらがっちゃう。
人間が数値にこだわるのは、食料や武器やお金を貯め込み始めたのがきっかけだったかも。ものを数で表わせば、自然と次の行為は「比較」になってしまいます。数字は比較が容易なのです。
だから一見数えられないものを数える方法も工夫してきました。
計ることで、アナログがデジタル化するのです。「測る」は一、二次元。「量る」は主に三次元を受け持っています。「計る」は0次元から4次元までカバーするようです。数字にはならないけど、「謀る」や「図る」は心まで計っちゃうらしい。
太った人も痩せた人も、数的にはそれぞれ1ですが、秤に乗って目盛りを数えると、72キロとか45キロなどの数値で表わされます。賢い人とおバカな人はIQの差で区分けされてしまう。便利といえば便利。
そんな数値化ははたして人類の幸せをサポートできるんでしょうか。


