2008年01月13日

0 one 2 many

ピーター・ペレットが作った曲には、映画からタイトルを拝借したものがいくつか見受けられます。映画嫌いの私でさえ気づいたくらいだから、実際には「いくつか」どころか、たっくさん存在するんじゃないでしょうか。リリシストとして実に安易な姿勢です。
それはそれとして、The Big Sleepはペレットらしくて、私はたいそう好きです。

"The Big Sleep"はレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説で、『大いなる眠り』と翻訳されています。
いつだったか、それとは無関係のハードボイルド短編を読んでいたら、『三つ数えろ』というフレーズに『ビッグ・スリープ』とルビが振られているのを目にしました。どういうこと?

検索したら、映画化されたときの邦題が『三つ数えろ』だったとか。
当該小説も映画も見ていない私には、そのようなタイトルとなった事情は全くわかりません(し、興味もない)。
とにかく「三つ数えろ」ってのは、ギャングの決まり文句のひとつみたいですね。ワン、ツー、スリー、バム!

窓の外に目をやって、ごみごみしたビル群や並木道、通り過ぎる車やバイク、歩行者たちなど雑多な風景が見えたとします。その中から、1軒の建物と1本の銀杏とひとかたまりの雲を選び「ああ、3つあるな」と数える人はあまりいないでしょう。いたとしたら、その3つは(その人にとって)ほかと区別され、取り立てて数えるに値する特別な共通点を持っているはずです。

そんな取り留めもない思いが浮かんだのは、何気なく開いた国語辞典(学研国語大辞典)のある項目が目に留まったからでした。
数[かず]:同じ種類のものが集まっている場合、どの程度に重複しているかを表わすもの。
なんとまあもって回った説明。

別の辞書ではもっと簡単に『物の多少や順番を表わすことば』などとあります。
しかし単なる多少や順番では言い足りないんですよね。人が何かを数えるとき、それに先立って「分類」や「定義」が行われます。全く関連のないものを取り合わせて数えることは無意味です。

さて、日本には摩訶不思議な「数え年」というものがあります。
生まれた年を1歳として、お正月のたびにひとつずつ増やしていくのです。新年に全国民がいっせいに年を取るわけで、スッキリした年齢計算ともいえますが、視点を変えれば、個々人の誕生日を無視したファッショな方式だと反発する人も。

だいたい、ひとりの人が最大2歳の開きを持つふたつの年齢を生涯保持するなんて、ややこしくてかないません。
昔は出生届がいいかげんで、1月1日生まれの人がやたらと多かったと聞いたことがあります。単に正月はめでたいからとか、誕生祝いとお年玉とを兼ねようとの倹約精神などではなく、数えと満年齢のずれをなくす方策だったのかもしれません。

この数え年、せめて生まれた年は0歳とするのなら、誤差が1で済んだのですが、だからといってややこしさに変わりはないですね。
現在ではゼロ歳、零歳児など、ごく当たり前に使っていますが、昔は「零歳」という概念は想定しにくかったのかもしれません。零は無であり、何もないことですが、赤ん坊は厳然と存在するのですから。

ゼロを発見したのはインド人と言われています。無なるものに存在を与えるとは、素晴らしい着想です。

今生きている人の多くがふたつの世紀を体験しています。
2000年を迎えるに当たって人々を困惑させたのは、Y2K問題などより、世紀表示の不合理さではなかったでしょうか。
たとえば1964年が20世紀ということからして納得しがたいけど、ま、それが決まりだからしょうがないと割り切れなさを抑えつけていました。じゃあ2000年をもって21世紀が始まるかというと、それも違う。もうキモチワルイったらありゃしない。

世紀を制定した人がゼロの存在を知ってさえいれば、こんな掻痒感は避けられたのに。
元年が1年でその前が紀元前1年なのもなんかヘン。起源が特定宗教と関連しているのも問題だし、西暦なんてものは即刻廃止しろと叫びたい。

余談ですが、百科事典によると、天文学では紀元前1年を紀元0年、紀元前2年を紀元-1年と(便宜上)定めています。よってユリウス日のある紀元前4713年は-4712年とな。頭こんがらがっちゃう。

人間が数値にこだわるのは、食料や武器やお金を貯め込み始めたのがきっかけだったかも。ものを数で表わせば、自然と次の行為は「比較」になってしまいます。数字は比較が容易なのです。

だから一見数えられないものを数える方法も工夫してきました。
計ることで、アナログがデジタル化するのです。「測る」は一、二次元。「量る」は主に三次元を受け持っています。「計る」は0次元から4次元までカバーするようです。数字にはならないけど、「謀る」や「図る」は心まで計っちゃうらしい。

太った人も痩せた人も、数的にはそれぞれ1ですが、秤に乗って目盛りを数えると、72キロとか45キロなどの数値で表わされます。賢い人とおバカな人はIQの差で区分けされてしまう。便利といえば便利。
そんな数値化ははたして人類の幸せをサポートできるんでしょうか。
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投稿者:ルノ 22:43 | コメント(2) | トラバ(0) | 辞書と戯れる
2007年12月02日

蒲公英譚

紅葉の季節です。
が、街なかではなかなかちゃんと色づきませんね。
木の葉が色づくためにはじゅうぶんな気温の低下が必要ですが、温暖化のせいで遅れがちになっていると聞きます。

ただし同じ場所でも個体差が見受けられます。近所のイチョウも木によって緑、黄色、茶色っぽいの、ほとんど枯れ落ちてるのなど、さまざま。

黄葉並木

条件は温度だけではないのですね。
同じ年齢で同じように暮らしていても、若々しい人とやけに老けてる人がいるのと似ています。

もみじやかえでの赤い色はアントシアニンという色素だとか。
アントシアニンといえば、人間界ではアンチエイジング成分として脚光を浴びています。

植物が色素を蓄積するのはひとつの防御反応です。
人間が日焼けしてメラニンを増やすのと同様に、アントシアニンで層を形成して紫外線など有害物質の刺激から身を守る(細胞の酸化を防ぐ)機能を持つのです。

しかし紅葉はもはや死にかけた葉。防御も手遅れではないのですか?
たぶん守ろうとしているのは葉ではなく本体なのでしょう。自然のしくみは奥深いのですよ。

この銀杏並木の近くで、落ち葉に埋もれかけながら咲くタンポポを見つけました。背丈も低く、かわいらしいじゃありませんか。

花咲く蒲公英

タンポポって今ごろ咲くもんだろうかと、家に帰ってから古い百科事典を開いてみました。秋咲きたんぽぽの記載などありません。やはり温暖化の影響?
なお、ここ九州あたりに生えているのは真のタンポポではなく、西洋タンポポだとか。

英語でタンポポはdandelionです。フランス語のdent de lion(ライオンの歯)から来ているそうな。ギザギザの葉っぱからのイメージです。そういえばdentからはデンタルなど歯に関した語が思い浮かびます。

花言葉はcoquetry(媚態)・・・おお、雑草らしからぬ。そのほか「恋の託宣」というのもあります。綿毛を吹いて占いをするところから来ました。恋だけでなく幸せを告げる花でもあります。

事典にはタンポポという名の由来も載っていました。
中国では婆婆丁(ポポチン)といいます(婆をふたつも重ねられてかわいそうに。媚態が泣きますわ)。
しかし古くは「丁婆婆」と呼ばれていたそうです。転じてタンポポ。わっかりやすいですねえ。

 
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投稿者:ルノ 23:09 | コメント(8) | トラバ(0) | 辞書と戯れる
2007年11月23日

男は胸キュン

胸キュンなんて言葉がはやったのはいつのことだったか。
胸キュンって、英語ではどう表現するのでしょう。

というようなことに興味を持ったわけでは全然ないけど、胸キュンにたどり着いたのは英和辞典がきっかけです。

某英語サイトのタイトルを変更しようとあれこれ考えまして、やっぱcuteが無難かな・・・と辞書をめくりました。

このcute、もともとはアメリカ語であって、イギリスでは別の意味を持ちます。もっとも、今や世界のどこでもcuteの第一義は「かわいい」でありましょう。
当該サイトにも"cute men"などで検索してくる人がけっこういました。ひとかどのオトコには似つかわしくない形容詞だけど、女子高生や若い女性が見境なく「カワイイ」を連発する現象は日本だけではないと思われます。

英語にいくつかある「かわいい」を意味する言葉の中では、cuteが最も一般的です。
lovelyやprettyは、美しさに温かみや親しみが加わったようなかわいらしさです。
ほかにcuddlyという言葉もあり、「抱きしめたいほど可愛い」などと訳されまして、人よりもぬいぐるみや人形に使われるようです。

ところがです。一見ありふれたcuteなのに、どうもタダモノじゃないようだ。瞠目したのは語源です。
ランダムハウスには『ACUTEの頭音消失異形』とあります。そのacuteは「鋭い、激しい」苦痛や悲哀を表わす形容詞です。「激しい」よりももっと強い「激烈な」が適当な感じ。

えっ、どうしてそんな激しい痛みが、aが取れたくらいで「かわいい」になっちゃうの?
再度cuteの項に戻りますと、『鋭く胸を刺すようにかわいい』のだと。

「可愛い」って、胸をキュッと刺すほどの強い刺激なのですね。
ここから胸キュンまでは一足飛び。ですが、ちょと待った、日本語にはcuteと同等の伝統的な言葉がありました。

愛くるしい

この「くるしい」はひらがなであって、「愛苦しい」とは書きません。語源も知りません。
それでも「むさくるしい」や「重苦しい」の仲間だとは想像がつきます。

愛くるしいもcuteも、子どもや若い女性など自分より小さい対象に使う言葉です、本来は。
西洋人も日本人も、小さな可愛いものは痛みや苦しみに似た感情を呼び起こすことをひしひしと感じていたのです。

だからきっと、胸キュンもその延長なのですよ。キュンが激しいと心筋梗塞のおそれもありまする。

つまりですね、若い女性がベッカムを見て胸をときめかせるのはいいとして、それは胸キュンとはちょっと違うんじゃないかなってこと。ベッカム(ってもうオジサンやんか)に胸キュンする資格があるのは、もっとでっかくて年いってて強くて・・・うへえ。

さてあなたは、そんなふうに胸が痛いほどかわいいものに出会ったことがありますか?

私はあまり記憶にありません。
いーのよ、オンナはかわいいと言われる立場なんだから。胸キュンは男の特権、男の義務だーい。

いやはや、差別的発言でした。
よりポリティカリーに言い直しますと、大きくて強い人間は、自分よりも小さい非力な人間に接したら、そのひたむきさ、可憐さに胸打たれ、「かわいい」「守ってあげたい」「いつまでも大切にしたい」と思うべきです。それを実行すべきです。

人類は恐竜に追われ、マンモスに踏まれて散々な思いをする一方、小さなうさぎやねずみを糧としてきました。いわゆる弱肉強食です。生きるためには致し方ありません。小さな獲物で満足せず、マンモスまで狩ってしまう創意工夫は人間の誇りとしても、安易な方向へ流れるのが一般人の常です。

小さなものに対する攻撃が同じ種に向かうと、その種は滅びます。
それを回避するためか、小さくて丸っこい形は母性本能を刺激するらしいのです(クヌートのページでも述べました)。とりわけ哺乳類はそういうしくみがなければ、赤ん坊はたちまち死に至ります。
かわいらしさが苦痛に近い感銘を与えることが民族を超える共通意識であるのもその表れではないでしょうか。

強く大きくなった人間が小さなかわいいものへの感受性を持ち続けるなら、いたいけな幼子を床に叩きつけたり、熱湯に浸したりできるはずはありません。
無力な相手を蹂躙するのはいともたやすく、頭脳と膂力ある人間が決してやってはならないこと、恥ずべきことです。子どもだけじゃない、無能な部下も気弱な同級生もいちおう「か弱き者」だ。
だいたいね、我が子も同然の幼子を殺して懲役6年だなんて、そもそも求刑10年からして少なすぎるが、ほぼ半額セールではないか。私が裁判員になったらそんな甘っちょろい判決は許さんぞ。
うー、横道か?

男たちよ、胸キュンを忘れるな。
あ、それで、胸キュンを英語でなんと言うかは自分で考えてね。
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投稿者:ルノ 22:56 | コメント(4) | トラバ(0) | 辞書と戯れる