2011年01月31日

皿洗いをバカにする心理

私は皿洗いが嫌いです。ついためこんでしまいます。

とはいえ、ウォーショースキーにならって、きれいな食器がなくなるまで洗わないでおくには、我が家には食器が多すぎ、キッチンは狭すぎます。3日分の汚れ物を積み上げると、まな板を置くスペースもなくなり、料理もできません(もともとあんまりしないけど)。

結果として、しぶしぶながらもけっこうこまめに洗っています。日に3度片づけるのを当然としている人々からは「それがこまめか?」とひんしゅくを買う頻度ですが。

世の中に皿洗いが好きと断言する人は少数派でしょう。毎食後ささっと片づけるのは、むしろ嫌いだから、が本音のはず。

そしてまた、私が食器を洗うようすを見た人は、「ほんとうに嫌いなんだろうか」と首をかしげるかもしれません。
それほど私の洗い方は丁寧です。箸などまとめてガシャガシャと洗うなんて論外で、1本ずつ何度もなでさすります。すすぎも完全に洗剤を落としたスポンジと流水で、なっとくのいくまで仕上げ洗いをし、指先で表面の感触をくまなく確かめてから食器かごへ。
つまりやたらと時間がかかるのです。だから重労働。だから洗いたくない。だからためこむ。だから重労働という悪循環。

重労働ゆえ、茶碗洗いに当たっては、覚悟を決め、エイヤッと気合を入れてから始めます。この時期なら、まず暖房を止めます。それから上着を1枚脱いでエプロンをかけます。

エアコンを切るのは、台所まで温風が届かないし、食器洗いのような「非生産的」「単純作業」時に貴重な電気を無駄遣いしたくないという事情もあります。縫い物やブログ書きは仕事だから(えっ、これも仕事か・・・いちおう)、電気代を費やして温度調整をすることに後ろめたさがないのです。

しかしそれのみにあらず。
洗い物をしていると、体があったまるのです。1枚脱ぐのはそのため。夏場は扇風機をそばに寄せて強風をかけます。

このこと、自分でもちょっと不思議でした。肉体労働とはいえ、一か所に突っ立って手先しか動かさないのに。

ちなみに、この厳寒期でも、お湯はいっさい使いません。すすぎがあまりに丁寧だから、お湯を出すと、温水器が空っぽになって、お風呂に入れないおそれがあるのです(むかーし、1度経験済み)。

皮膚が切れるような流水で延々すすいでいると、手は真っ赤になり、指先の感覚が薄れてきます。冷気が手から体へ這い登って全身が凍りついてもおかしくないのに、なぜか体はぽかぽか。そのうち、手の冷たさも平気になります。
シンクも壁もピカピカに磨いて、洗い物終了。手を拭くと、指先には急速に血行が戻って、あっという間に手もぽかぽか。わりと爽快な気分です。

このスッキリ気分で、さあ、やリかけのぬいぐるみを一気に仕上げるぞう。と取りかかれば、次第に体は冷え、指もかじかんで手元が狂い、我が身にぶすりと針を刺してしまったり。
縫い物をするときには、どうしても暖房が必要です。

座って行う針仕事のエネルギー消費量が多少低いのは理解できますが、どちらもじっとして、動くのは手だけ。それにしては体への影響が違いすぎる。

先日、皿洗いをしていてふと思いました。体が温かいのは、脳が休んでいるからではないか。
脳はぜいたくな器官で、重量は数パーセントなのに、酸素消費量は全身の2割以上必要だと聞いたことがあります。酸素を運ぶのは血液。
単純肉体労働かつ定型作業である皿洗いでは、おツムへの血流を倹約できるから、体や手を温めるほうに回せるのです。

かたや縫い物は高度な創作行為。一見単なる手作業のようでも、緻密な脳内活動を伴います(ほんとうですっ)。大量の血液が脳に送られる分、体や手先は冷えるのです。

私が皿洗いを嫌いなのは、それがぱあでもできる低級な肉体労働だと、心の奥底で知っていたからなんだ〜と、あらためて認識したのでありました。

「何がぱあでもできる低級な肉体労働だ」
まじめできれい好きな主婦や家政婦さんや独身の方々から皿や茶碗を投げつけられそう。ス、スンマヘン。個人的こじつけですだ。
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2007年07月21日

黄金律

『あれも嫌いこれもキライ』というカテゴリを作りまして、嫌いなものについてあれこれ書く予定でしたが、じき意欲ダウンしてしまいました。給食やマヨネーズ嫌い、メール恐怖症など、よそに回したネタもありますが、山ほど候補に挙がった「嫌いなもの」はほとんどお蔵入りしています。

「好き」と違って「嫌い」という感情はマイナスのイメージが強く、否定的、攻撃的、後ろ向きです。嫌い、嫌いと書きたてた文章を読んだ人は多かれ少なかれ不快になるでしょう。その対象が自分の好きなものだったらなおさらです。
たまに「自分もそれが大っ嫌いなんだ。よくぞ言ってくれた」と快哉を唱える人もいましょうが、「嫌い」で意気投合したところで、ネクラの二乗ではないか。

世の中には「自分が好きなものは他人も好きであろう」「自分が嫌いなものは誰でも嫌いに違いない」と考える人が多すぎませんか。
そういう単純な思い込みに一石を投じたい・・・とはオーバーですが、とにかく世の中にはあなたとは違った嗜好を持つ人がいるんだよと教えてあげたかったのです。

私自身は取り立てて異常な嗜好や性癖の持ち主ではありません。
甘いものが大好きだし、ゴキブリは大嫌い。きれいに片づいた部屋は好きだけど掃除は嫌い。快晴より曇り空を好み、雨の日には出かけたくない。ロックや漫画には好きなものもあれば嫌いなものも多い。
まあ、おおむねフツーです。

そして普通の人でもどこかしら人と違った好みを持っているのが「より普通」ということではないでしょうか。何から何まで平均的な人はかえって異常ですよ。

黄金律とはイエス・キリストの教えのひとつです。わざわざ「黄金」がつくからには、最高・最上のランクなのでしょう。
内容は『何事も人々からしてほしいと望むことは人々にもそのようにせよ』です。

こうした教えはさまざまな宗教や哲学や訓示に見られます。
論語にも『己の欲せざる所人に施す勿れ』とあります。イエスの裏返しというか、トーンが消極的ですね(個人的にはこの消極性が好きです)。「人にされたくないことは人にもするな」ということで、思いやりの精神を説いたものです。

自分がしてほしいことを人にしてあげなさい。
ほんじゃ、なんですか、まぞさんは人を鞭打たねばならないのですか。そりゃトラブルの元ですぞ。

どんな変人でも、腹ペコの時には食べものを欲するでしょう。
とはいえ、みんながみんなパンを望むわけではありません。自分がパン好きだからと人に分け与えようとしたら、相手は小麦アレルギーってこともありえます。

「人の望みはみな同じ」が前提の教えに価値はあるのだろうか。ひとりひとりの個性はどうなるんだ。
そもそもイエス本人がまぞっぽいというか、一般人とはずいぶん違った嗜好の持ち主だったようだし。でなきゃ、右のホッペを打たれたら左も出す、なんてことは思いつかないでしょ。

それでいいんですよ。
突き詰めれば「してほしい」とは、鞭打つだのパンを与えるだのといった個別行動ではなく、「自分が何を望んでいるかを調べるなり推察するなりして、それにかなうようにしてほしい」ということなのです。
鞭打たれたがっている人には鞭打ってやり、鞭打ちたがっている人には鞭打たせてやる。鞭打たれたい人がどうせなら鞭打ちたがらない人に鞭打たれるよりも鞭打ちたがっている人に鞭打たれたいと願うなら、鞭打ちたがる人を見つけてきてあげる。それが真の黄金律です。とはルノ的解釈。

以心伝心は日本的思想であって、契約を旨とする西欧にはなじみません。日本人なら黙っていても察してあげるのが好まれましょうが、あちらの人には単刀直入に問いかけて知るのが妥当でしょう。
もっとも日本人もさまざまだから、察するなんてブキミな真似はされたくないとごねる人だっているはず。何をしてほしいのと訊いても、本心を答えない人だってわんさかいます。

そう考えていったらきりがありません。
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2007年01月27日

シズルではない

むろんテレビも大嫌いです。
納豆騒動の顛末も新聞で知りました。

映画と違って、テレビは見ずに済ませることが難しい場合があります。
実家ではのべつ幕なしにテレビがついています。しかも各部屋で。あれさえなければ盆正月ゆっくり帰省して親孝行するのに(言い訳か)。

中でも耐えられないのがコマーシャル。
ビールや清涼飲料水を飲むじゃないですか。ごっくん、ごくごくと喉を鳴らして。あのはしたなさに身の毛がよだつのです。
カップラーメンやインスタント焼きそばをズルズルっとすするじゃないですか。吐きそう。

どうして日本人はこうも下品なのか。マスメディアがあんなみっともない映像を流すので、若いもんや子どもはあれがマナーだと思い込んではいないか?

無音でものを食べるのは無理です。しかしそれを抑えるのが礼儀だと習いませんでした?
まして、ことさら人に聞かせるように大きな音を立てるなんて。
まして、それをシズル効果だとか名づけて悦に入ってるなんて。

あんなもんシズルじゃありません。言うならばslurpだ。
sizzleとは、ステーキがじゅうじゅう焼ける音などを指します。その音が惹起するイメージ効果で売り上げを伸ばした広告戦略を指すのです。
鼻水をすする音と同じ下品なラーメンの食い方とごっちゃにするのはやめてくれ。

ついでながらsizzleには『かんかんに怒る』という意味もあります。はい、怒ってます。
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