2016年10月31日

ミミズ茎の跡

劣等感を英語で、inferiority complexといいますが、日本では上を取っ払って、コンプレックスだけで劣等感を意味します。

○○コンプレックスという複合語はけっこうありますが、それらを劣等感と結びつけることは通常ありませんね。
現代人は省略好きだから、マザコンのコンがコンプレックスの略だと知っている人は案外少ないかも。ちなみに、マザー・コンプレックスは和製語ですよー。

自分の劣等感について述べるにあたっては、「劣等」という字はよけい気を滅入らせるから、コンプレックスを使いたくなります。
カタカナ語はそういう点便利です。

劣等素材には事欠かないわたくし、字がヘタってのも長年の悩みです。

ミミズがぬたくったような字しか書けない人は、知性も教養もないように見え、人格下劣の烙印を押されたりして、ものすごーくソンなのです。
キレイな字をすらすら書けると、美人で頭が良く性格も優しいような印象を与えて、とってもお得。

これって不公平じゃありませんか。
字の上手下手も、絵の上手下手も、おおむね生まれつきで決まります。
絵が拙くても人生において困る事態はめったに発生しないのに、字がミミズだとどん底だなんて。

ま、世の中そんなもんです。

私は真面目なコドモだったから、お習字も硬筆も真面目に練習いたしました。でもいっこうに成果が上がらない。

あるとき真面目に考えたのです。12歳ころ、だったかな。
こんなに努力しているのに、どうしていつまでもヘタなんだろ。
きっと字を覚えたてのころ、手や指に変な癖がついて、それが固定されてしまって、修正のしようがないのだ。私は右利きだから、字を書いた経験がない左手を鍛えれば、一からやり直せるはず。

今振り返ると笑止ではありますが、さっそく新しいノートを用意して、ヴァージン・レフトハンドに鉛筆を握らせ、大真面目にあいうえおから取り組み始めたのです。

一週間後、辛苦の甲斐あってか、左手特有のがくがくゆらゆらも薄れ、漢字もまずまず形を成してきました。
が、線がなめらかになって、やっと気づきました。それらは右手のヘタ字を再現してきたに過ぎない、と。やだやだ、もうやめ。すぱっと放棄。

字を書くのは手ではなく、脳です。

なんらかの事情で両手の機能を失った人が、筆記具を足指にはさんだり口にくわえたりして字の練習をすると、代償作用も手伝ってめきめき上達します。それはかつて手で書いていたのと同じ筆跡になるんだとか。

オトナになってからも、ペン字の練習帳を買ったり、簡単に字がうまくなる本なんてのを読んだり、何度かトライはしましたが、結局ものにはならず。

読むだけで「うまい」と言われる字が書ける

手先の練習でも、ある程度まではいけるでしょうが、限界があるのです。私が人並みの字を書けるようになるには、並大抵の研鑽では足りません。こんなコスパの悪いことの優先順位を上げるのはバカバカしい。余生は短く、ほかにいろいろ抱えているんだし。

ありがたいことに世はペーパーレスで、汚字をさらす機会が減りました。せいぜい問診票とか複写式の申込書や発送伝票程度。
ますます書かない→ますますヘタになるの悪循環だけどね。
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投稿者:ルノ 09:36 | コメント(0) | トラバ(0) | おつむてんてん
2016年03月09日

のぼり裏読み

街を歩くと、いたるところで遭遇する布看板・・・幟(のぼり)。
薄い布に文字やマークを染め抜き、棒に取り付けた、旗の一種です。その棒はコンクリートの台に差し込まれていることが多いけど、柵や柱にくくりつける簡易型も。

旗との構造上の違いは、上にも棒があるってことでしょうか。これにより、よじれたり二つ折りになったりすることが少なく、長方形を保ちます。
どちらかというと象徴的存在の旗に対し、のぼりは、見てもらう、読んでもらうという実用性を担っているのです。

裏側は当然裏返しです。鏡像っていうんですか。
確率は半々のはずなのに、なぜか裏側が見えることが多いような気がしませんか?

日本の高い技術力をもってすれば、薄い布でも両面同じ(別々)に印刷するのは不可能ではないだろうに・・・そんなことにおカネをかけるのは、ばかばかしいってことかな。のぼりの魅力はそのチープさだから。
第一、のぼりの裏が見えたからって、気にする人など皆無でしょう。

私だって、気にしたことなんかなかったけどね。

ウォーキングの途中。えっ、ランモって何?

風景

もちろんほんの一瞬のこと。通り過ぎて振り返るまでもなく、読めましたが。

原因は稚拙なレタリングじゃい、などとぼやきつつ、なにしろ転んでもただ起きしない性分ゆえ、これをランモと読んだわが脳のメカニズムを、うだうだ分析してみたのでした。

のぼりが裏返っていることはすぐに判断できるので、上の2文字については、そのつもりで「ラン」と解釈したわけです。
こういうシンプルな文字デザインでは「ン」と「ソ」も紛らわしいことがあるけど、脳内で語彙検索をして「らそ」で始まる単語はめったにないので却下したのかも。ここまで0.02秒としましょうか。

しかしながら、次の文字に移ったとき、それまで裏返しを前提に解読してきたことを忘れ去るほど強烈に、それが「モ」そっくりだったということなのです。
再度検索が行われ、当然のこと「ランモ」という単語は存在しない。ここでやっと違和感。きっと0.42秒以上かかったでしょうね。

朝の9時から化粧品店で「美味しいランチ」だなんて。
それはいいとして、さらに歩きつつ、脳は活発に検索を行い、あるものを連想したのです。

サッチャー錯視。

なんだか似ていませんか。

サッチャー錯視をご存じないかたは、ネット上に事例がわんさとあるはずなので、ご自分の目でご確認ください。
(私も同様のものを作ろうとしたけど、どうもうまくいかなくて・・・)

「確認して帰ってきたぞ。どこが似てるんだ?」

まあつまり、共通点としては、「人は自分の見たいように見る」ということです。
見たものが不自然だったら、自分で都合のよいように、整合性をでっちあげるのです。「ランモ」のどこに整合性が?

目から脳に送られた情報は、取捨選択と修正を加えられ、再構築されます。それが普通です。
あなたと私の脳は違うから、同じものを見ても、決して同じには見えていないのです。

ある意味便利で、そして非常に危うい機能でもあります。

日本人の中途失明原因のトップは緑内障だとか。
視野がだんだん欠けていって、最後には見えなくなるのですが、進行はわりとゆっくり。視力は大切なのに、どうして見えなくなるまで放置するのでしょう。

それが脳補正の怖さなんですね。
多少見えない部分があっても、まわりの状況から適当にそれらしい画像を作って補うのです。
まずは片目だけ起こることが多いから、正常な目がカバーするということも行われます。
だから相当悪化するまで自覚できず、眼科に駆け込んだときは手遅れってことに。

そういうことを聞き、ときどき片目を交互につぶって、視野をチェックしていますが、左右の視界の明るさが明らかに異なることに、このごろ気づきました。それって、ヤバいですよねえ・・・。
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投稿者:ルノ 11:55 | コメント(4) | トラバ(0) | おつむてんてん
2013年08月05日

テレビの害毒

我が家にはテレビがありません。
と書いて、たいそう驚かれたことがあります。趣味が多様化した現代でも、テレビなしで生きられない人はまだ多いようです。

子供時代は大のテレビ好きだったし、若いころもよく見ていました(おおむねアニメとアメリカドラマ)。
そのうちニュースと天気予報程度しかつけなくなって、それもごくたまのこととなり、ついには玄関に重ねて置いてホコリかぶり放題でした。「重ねて」ってことは、1台じゃなかったんだー。処分費用がもったいないというだけの理由で玄関を狭くして不便な思いをしていたわけですが、断捨離に目覚めて後、大枚はたいて片づけました。

図書館へ行く途中の道に、マ○プロ電工という会社があります。社屋の壁には『○スプロアンテナ』という巨大な赤文字が。
それが視界に入ると、つい「♪みえすぎちゃってこまるの〜」と口ずさみそうになります。
いやもう、これは恥ずかしい。実際に口に出すわけではなく、そばに誰もいないのに、やっぱり恥ずかしい。

サラダを作ろうとして野菜を並べると、決まって「♪トマトにキュウリにレタスにピーマン・・・」と歌ってしまうのより、何倍も恥ずかしい。

禁煙を10年続けると、肺の中は非喫煙者とほぼ同じくらいクリーンになると聞いたことがありますが、テレビの影響は何十年経っても消滅しないんですよ。
今からテレビ離れしようとお考えのかた、すでに手遅れだとあきらめましょう。
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投稿者:ルノ 12:39 | コメント(0) | トラバ(0) | おつむてんてん