2009年07月08日

ソーマ・キューブ

いつのころからか我が家には古い数学パズルの本(著者マーチン・ガードナー)があって、数年に1度、ふと思い出してめくってみます。そして数学は時の流れと無関係に新鮮かつ深遠なものだと感嘆するのです。

私に数学的アタマがあればもっと楽しめるのでしょうが、残念ながらこの本にぎっしり詰まったパズルのほとんどがチンプンカンプンです。別にわがおツムのできが悪すぎるからではなく、内容が非常に高度だからと思うことにしています。
高度で難解ではあっても、読むだけでじゅうぶんおもしろいですよ。負け惜しみではありません。「おもしろい」とは面白おかしいという意味ではなく、数学の奥深さを目の当たりに見せられる驚異とでもいいますか。その奥深さゆえに、何度でも読み返したくなるのでしょう。

あ、私でもいちおう解けた問題がありますよ。そのひとつを紹介します。
「3人の男がひと山のココナッツを見つけた。ひとりは全体の半分プラス半個を取った。次の男は残りの半分プラス半個を取った。3人目も残りの半分プラス半個を取った。すると1個残ったので、サルに投げ与えた。では最初に何個のココナッツがあったのか」
これは『サルとココナッツ』という超難解なディオファントス方程式関連パズルのオマケとしてついていた『ごくやさしい問題』で、ココナッツを割る必要はないとのこと。

この本が出版されたころは現代のように多様な娯楽があふれていたわけではなく、夜にはたいていの店が閉まるから、人々はこういったパズルにじっくり取り組む余裕を持っていたのかもしれません。
昨今は誰でもパソコンやケータイで複雑なことをやりこなしているかに見えますが、検索によっていきなり結果のみを得、動画やオンラインゲームといった主に受身の娯楽に接している程度でしょう。自分自身の頭で考えることが減っているような気がします。
今こそ素朴で伝統的なパズルで頭脳を鍛えるべきですぞ。

もっともいかに高度なパズルとて、読むだけでは受身のひまつぶしに過ぎません。脳を活性化させるには自分自身で解いてみなくては。

私にとってとりわけ苦手なのが三次元分野。
「1個のドーナツを3つの平面で同時に切断したら最大何個の断片を得られるか」なんて、いくら考えてもわからず、図解を見せられたってかえって混乱が深まるばかりです。
「直方体の部屋のここにクモ、あそこにハエがいたら、クモがハエに達するまでに歩く最短距離はどれだけか」といったシンプルな問題でも、ルートを思い描くことさえできませんでした。これが多面体の部屋になったとしたら、もう・・・。
クモがハエに近づいたらハエは逃げちゃうだろ。てなツッコミはなしね。ハエは恐怖で身がすくんで動けないことになっているのです。
こんなパズルは前提条件をきっちり決めておかないと解がぶれかねないので、なかなか愉快な前提があります。「虎の子渡し」などいい例です。

まあとにかく、三次元感覚を磨く助けになるかと、この本に載っているソーマ積み木(Soma cube)なるものにトライしました。
これは立方体を組み合わせた7片の不整形態でさまざまな立体を構成する遊びです。『不整形態』とはどこかに出っ張った部分のある形のことで、立方体で作る不整形態はこの三次元世界に7種しか存在しないのだとか。

自作のソーマキューブ。
ソーマ・キューブ

この7つをうまく寄せ集めると、1つの立方体を作ることができます。それにはなんと230種類以上の違った組み合わせ方があり、最大何通りになるかは判明していないそうです。

えんえん立方体にばかり取り組んでいても飽きるでしょうね。
ある程度意味のある形のほうがおもしろいものです。本にはピラミッド、ソファ、絞首台など20種以上の課題が載っていて、いずれもシンプルな形なのに、いざ組み立てようとすると四苦八苦です。
長時間悪戦苦闘して投げ出しかけたものを完成したりすると、思わずやったーと叫びたくなり、次々と取り組みたくなります。熱中して休日がつぶれる人がいるのもうなずけます。

ソーマパズルで私の三次元感覚が上達したかというと、「?」です。
『多くの人はソーマ組み立てに数日取り組めば、多種の構成の組み立てに慣れて、ソーマ問題を頭の中で解くことができるようになる』と書かれていますが、私はやみくもに試行錯誤しているだけで、「頭の中で解く」境地に至っていません。この部分にこのパーツは無理だなといった判断がおぼろげにできる程度にはなりましたが、現実には、はまりそうもないと見える箇所にはまりそうもないものがぴたっと収まったりすることもままあります。

時間的にあまり熱中するわけにもいかず、半分くらい解いて今は中断しています。
どうやら自作積み木の質にも問題があるようです。100円ショップで買った木片を貼り合わせたのですが、1個1個が完全な立方体でなく、歪んだりふぞろいだったりの粗悪品なので、ぴったりはまらずがたつくのです。だから出来上がったときの形もいびつで、ちっとも美しくない。達成感も半減です。
おもちゃ屋かホームセンターでちゃんとしたものを買ってきて作り直そうかと思っています。
もちろんソーマの市販品も買えるはずです。

さて、数学が苦手だと計算や図式がダメなのであって、文芸や絵画には影響しないというのが一般的見解です。
しかし私が自分に数学のアタマのなさをつくづく感じるのは、推理小説を読むときです。
数学は数字を扱うことが多いのですが、実は「論理」なのですよね。数学的なものの考え方ができれば、本格推理のトリックや犯人もちゃんとわかるはず。

エラリー・クイーンが好んだ『読者への挑戦』・・・手がかりはすべて提示した、ここまで読んできた読者は自分の頭で謎を解くことが可能だというあれですね、私にはひとつとしてわかったためしがありません。
エンターテインメントであるミステリ小説は国語的にうんとひねくれてるから、誰でも簡単に解ければ面白みがなくなります。このひねくれ度合いが作者の腕の見せ所であり、ミステリの質を左右するのです。

犯人当てがいつも外れてイライラする人におすすめなのが、東野圭吾の『どちらかが彼女を殺した』と『私が彼を殺した』です。
犯人が誰だとは結局記されていませんが、しっかり読んでいれば推理できるようになっています。犯人候補が少なく難易度は低いのに、お話自体がおもしろいから、犯人が簡単にわかったとしても興趣をそこねません。

ことのついでに、個人的未解決問題。昔とあるところから入手したファイルの解析をしたのですが、どうしても解明できなかった部分がありました。
ひとつの項目が12の要素を持っていて、それぞれの要素はオンかオフに分かれています。ある項目のどの要素がオンなのかを2桁の数字2つにまとめているようですが、そのしくみが不明なのです。
単純に考えて、12の要素を半分に分け、それぞれを6桁の二進数に置き換えて十進数に変換すれば2桁に収まります。でもその方法ではないのです。12の要素というのは目に見える限りの話で、もしかしたらもっと多くの隠されたデータを含むのかもしれません。ほかにどんな手があるのでしょう・・・。
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投稿者:ルノ 14:18 | コメント(2) | トラバ(0) | おつむてんてん
2007年10月13日

右や左の旦那さま〜

右脳人間なんて言葉が話題になったのはずいぶん前ですが、今でも人のタイプを右脳型、左脳型と分けることがしばしばあります。おおざっぱに芸術肌は右、理論派は左。こくごやさんすうができる子は左、おえかきやおんがくが得意なら右、と。
思考や行動の種類によって脳の働く場所が決まっているのは確からしいけど、それをもって人を右脳・左脳と分類してしまうのはいささか乱暴です。科学的医学的根拠はないといえましょう。

こういう分類って、日本人の心根にはまるみたいですね。
非科学的といえば、血液型性格診断も日本独自のカルチャーです。
黒髪お茶目オークル肌で均質な民族だし、学校や会社では制服を着せられるから、何かで分けて遊びたい・・・ってことでしょうか。

お遊びだと割り切ったうえで乗ってみますと、私は自分を左脳人間だと思います。
わりと理屈っぽいし、画像よりも文章を好むし。でも算数は苦手だな。要は芸術的センスに不自由しているから、右ではありえない、やむなく左。ちょっと情けないような消極的理由です。

「人形作りには芸術的センスが必要だろもん」などと姑息な慰めはよしてください。自分の作ったものを眺めると、どうにもセンスが悪いと「論理的に」判断せざるを得ないのです。
えー、しつこいようですが、「姑息」とは「その場しのぎ」という意味です。←こーゆとこなんか、左っぽい。
ちなみに「右脳左脳なんて考え方は非科学的だ」とバカにする人々は、例外なく左型です。お遊び、お遊び。右往左往。

欲を言えばもっと左翼でありたいのですが、普通の人ならはっきりわかるほど偏ってはいないものです。
右脳人間を自称する人でも、6対4、あるいは5.5対4.5くらいじゃないのかしら。あまりにバランスが崩れると生きにくいはず。

各界で活躍する才人たちには、どちらも群を抜いて優れている人々が大勢います。一般人が足して10程度のところを、8:7とか、6:11とか。
21:13、18:18ともなると、万能の天才。天才と呼ばれる人々は偏っていることが多いのですが、サヴァン症候群は、26:2みたいに極端です。なお、これらの数値は適当に打ったもので、根拠はありません。

人の潜在能力は広大で深遠であり、私みたいな凡人にだって天才と同等の能力が備わっているらしいのですが、たまたまそれが発現していないだけなのです。多くの人では持てる能力の数パーセントが使われるのみと聞きます。

知的障害者が恐るべき画才を発揮したり、視力を失った人の聴力が並外れて優れている事例は枚挙にいとまありません。後天的障害であっても、代償的にほかの機能が急速に発達するのが常であり、もともと人が無限の可能性を持つことを知らせているのです。

運動神経や絶対音感は遺伝的な要素が大きいと誰もが思っています。しかし生育環境が及ぼす影響は無視できません。音楽家の子どもは音楽に囲まれて育つのですから。
反面、音楽とは無縁の家系に生まれた全盲の子どもが、誰に教わることもなく天才的音感を示すことは稀でないとか。
人間はほかの動物に比べると、とりわけ視力を発達させてきました。見えないと実生活上不便の度合いが高いのです。それだけに視力障害は代償能力をより高めるのかもしれません。

凡人がそうした才能を代償ではなく得ることは可能なのでしょうか。
教育や訓練、本人の努力ではまず無理です。私の定義によれば努力できないのが凡人ですし。
生きるか死ぬかの壮絶な体験で「人が変わる」ことはありえます。それを人為的にプログラムしたのが「修行」というシステムかもしれません。厳しい修行によりある程度のレベルまで到達できる場合がありますが、天才に匹敵する力を得るには更に「突き抜ける」ことが必要です。
結局普通の人には無縁の世界なのです。

さて、左右脳の使われ方が民族や文化事情で異なるという話もよく耳にしますね。
代表的なのは、日本人は虫の音(むしのね)を左脳で聴き、西欧人は右脳で処理する。だから日本人にとって虫の声は何かを訴えるような風情をかもし、ガイジンにとっては雑音に過ぎぬ、と。
最近の日本人は洋風化されてきたらしく、隣の風鈴が耳障りだと怒鳴り込んだりするとか。私もどちらかといえば「虫の音=雑音」派です。蝉しぐれとなると音の暴力でしかない。激しい雨音はわりと好きだけど。

で、これについて、私は逆だと思っていたのです。
虫の音を左の論理脳が捉えたならば、それこそ雑音ではないのか。まさか鈴虫のリーンリーンがE=mc2と聞こえるはずもあるまいし。かたや虫の音に心をなごませ、感情移入できるのは右の感覚脳のなせる技であり、なんらかの音楽的センスの持ち主でなければ困難だろうに、と。
そういう勘違いが生じたのは、左右の優位と左右の分担をごっちゃにしたからでしょう。それとも私に音感が不足しているせい?

私は芸術全般・・・絵画、造形、映画、書道、詩、音楽、どれも苦手ですが、とりわけ音楽のセンスは×です。
チェ・ゲバラを好きになったのは彼がオンチだったからだ、とか言い放ったくらいだしぃ。

そんな私でも音楽は聴くし、好き嫌いの判別もできます。
好みはもっぱら洋モノです。日本語の歌は全くダメ。聞くに堪えません。私にとって日本語の歌は「文章」なのです。文法ミスや文脈の論理的破綻が気になってメロディは耳を素通り。
その点英語のヴォーカルは意味不明だから楽器と同じなんですよね。つまり虫の音です。インストゥルメンタルではなく「声」の入ったものにこだわり、ドイツ語よりは英語を選ぶ背景には、別の要素が嗜好に反映されているのでしょうが。

まあ、そういうわけで、英語ペラペラになんかなりたくない。音楽に対する最後の楽しみを奪われるから。
それは「左脳人間を自覚するなら英語くらいできなきゃ」という皮肉に対する言い訳なのでした。
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投稿者:ルノ 14:57 | コメント(4) | トラバ(0) | おつむてんてん
2007年03月08日

ノーヒントナンクロ

中高年の間で流行している脳トレ。
昔は『頭の体操』とか呼ばれるクイズ形式が主体だったのですが、今はもっと真面目な、ほんとうに練習帳みたいなものも出回っているようですね。それでいて楽しんでやれるように工夫されているらしい。

月に1度くらい帰省しますと、年金生活の我が母はぬりえやお絵かき、ジグソーパズルなどで遊んでいます。このごろはナンクロというクロスワードに熱中しているようです。毎月専門雑誌を買って、鉛筆片手に頭をひねる日々。長生きしてね、お母様。

ナンクロのナンはなんの略でしょうね。クロスワードについているヒント(たてのカギ・よこのカギ)がなく、すべてのマスにナンバーが振られていて、同じ数字は同じ文字ということを手がかりに言葉を捜していきます。ああ、ナンバーの略?

で、私も空白部分に手出し口出しするのであります。
もっぱら「ノーヒント・ナンクロ」を選んで取り組みます。母には難易度が高いらしく、ほとんど手つかずです。けっこう暇つぶしになり、やり甲斐もあります。

しかしまあ、言葉って浮かばないものですねえ。
数字の並びをためつすがめつ、いろんな言葉を当てはめようとするけど、呆れるほど切れ切れの断片的な単語しか出てこないのです。しまいにはイライラして放り投げたくなります(実家ではテレビがついているから集中できないのかな)。

このナンクロを解くのに、豊富な語威力は必要ありません。
解き終わればわかるのですが、すべて平易な言葉のみです。どうしてこんな簡単な言葉を思い出せなかったんだと自己嫌悪に陥るほど。
辞書を引かなければ意味がわからない単語など全く採用されていません。だからこそカギなしで解けるようになっているのですね。

では何が必要か。「ひらめき」があげられます。
キーとなるふたつの語句に思い当たれば、あとはすいすい。そこに至るまでには、空白のマス目を縦横斜めに睨みつけ、おのれのおツムの貧困ぶりを呪うのであります。

しばらくやっているうちに「経験」も要素だと思えてきました。
数をこなせばこなすほどたやすくできるようになります。というのも、取っかかりとなる特殊な並びの言葉は限られていて、あちこちのナンクロで使われるからです。たとえば121234という並びだと「相合傘」「開会式」「高校生」など。ああ、またこれか、とうんざりすることも。

そういうわけで、毎月やると飽きます。
ごくたまーにチャレンジするほうが面白いし、頭脳の活性化に貢献するようです。

付記:
いったん解け始めたらあとはすいすい、ではありますが、実はそうとも限らないこともしばしばです。
「ツキツキ○」に難渋したことがあります。つきつきや? つきつきし? ・・・そんな言葉があるのか? 「ツキ」がそもそも間違いではなかろうかと、一からやり直そうとして失敗したあげく、「付きっ切り」だと気づきました。頭カチカチの現れですね。
初期には「あい○いあ」でつまづいたことも。「上から読んでも下から読んでも」は限られているから簡単そうなのに、なぜか思いつかないものです。
なお、辞書を引きながらするのは邪道だと思っております。
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投稿者:ルノ 23:20 | コメント(7) | トラバ(0) | おつむてんてん