2008年03月30日

トンボに学ぶ

昨年夏、街を歩いていたら、2匹つながったトンボが、とある会社の前に停まっている車の屋根をしっぽで何度も叩くのを目撃しました。
駅の近くのけっこう交通量の多い場所で、トンボそのものが珍しいのに、つがいとは貴重なチャンス。しかしカメラを取り出したときには、トンボはあきらめて飛び去るところでした。このあたりに産卵に適当な池や沼があるだろうかと、少し心配になりました。

ちょうど昆虫に興味を持ち、関連本など漁っていたころでした。
『トンボの不思議』(新井裕/どうぶつ社)や『トンボのすべて』(井上清・谷幸三/トンボ出版)によれば、トンボは光を反射するフロントガラスやビニールハウスを水面と間違えて産卵を試みることがあるのだとか。あんな大きな目をしていながら、水と固体の区別もつかないんですね。
バカにしちゃいけません。
人類はヘンなものを次々と作り出し、猛スピードで環境を破壊しています。悠長な進化を遂げてきたトンボ(なんたって日本最古の昆虫?)は、異物だらけの環境情報をDNAに焼き付けて次世代に伝える余裕がないのです。

トンボは交尾しながら飛ぶと思い込んでいる人もいるようですが、そんな器用な真似はしません(する必然性もない)。
おつながりで飛ぶのは、交尾を終えたつがいです。オスがメスの首根っこをつかんで、産卵場所までガードします。
なぜならオスは交尾に際して、メスの受け入れ場所にすでにあるかもしれないものを掻き出してから、自分の精子を入れるのです。何も入ってなくてもそのようなしぐさをしてから交尾にかかります。
自分がそうするものだから、メスをそのまま解放するとほかのオスに自分の大事な子だねが捨てられると案じるのです。

メスの奪い合いでオス同士が戦うことは、いろんな動物に見られます。より強いものが子孫を残すための選別だから、それなりに意義はありましょう。
しかしトンボの小賢しいテクニックは、能力の有無や強弱に関係なく、同種他個体の排除に過ぎません。運不運の問題です。実にもったいない。
今オマエが放り捨てたのは、トンボ界の風雲児になるべき超優秀トンボのタネだったかもしれないぞ。

生き物は必ず死にます。
生物に寿命がある理由について、遺伝子がひとつの種(しゅ)を存続させることを第一目的としているからだという説があります。表現がヘタだが、地球人類は大きな一個の生き物であり、一細胞たる私は新陳代謝のためにアポトーシスを義務づけられているってこと。

その観点からいえば、トンボの行為は利己的です。種の保存は二の次で、自分の子孫さえ生き残ればOKと考えているかのようです。
むしろ処女トンボを見分ける能力を身につけて、無駄ダマを減らしたほうがよっぽど種の繁栄に貢献するだろうに。

いろんな事情で子どもを産むことができない人々が、代理出産の解禁を求めています。
実際に産むのは他人でも、生物学的には自分の遺伝子を持つ、正真正銘我が子です。もし自分のタネが採れない時は、親や同胞など血縁者からもらったりしたいようです。

苟もあらゆる生物の頂点に立つ(つもりの)人間が、トンボ並みの本能しか持てないのか。
不妊は不運だったけど、それも試練と受け止めて、代理出産にかかる莫大な費用に愛情を加味して、恵まれない孤児たちに振り向けるほうが、はるかに崇高ではないのか。
・・・なーんて皮肉は申しません。視点を変えれば、人間なのにトンボ程度の願望さえかなわないとはあわれです。

種の保存なんかどうでもいいんです。生物が生きる目的はあくまでも自己保存です。
隣の誰それさんの子孫が繁栄して何が嬉しいんだ。あくまでも自分の血を引く子をなさなければ、人として生まれた甲斐がない。
その証拠に、まま子いじめはどの国にもどの民族にも根深く存在します。他人の子を我が子と同じに愛せないのが人間の真の姿です。

そしてどんなにできの悪い子でも異常犯罪に走った子でも、親としては見捨てることができません。
子どもにとってろくでなしの親であっても、寝たきりで死にかけているとなればほっておけないのが心情です。
それほど人を縛りつける「血」とは不思議なものです。結果としてそれが種を存続させる力となったと思うのです。

もっとも昨今の世では少子化が進んでいます。自己増殖を望まない人間が増えているのです。せっかくもうけた子を虐待し、ときには殺してしまう親も異常に多い。
これは何を意味するのでしょう。自浄作用が働き始めたのかもしれません。

ところでコワい話をひとつ。これを書いている途中「代理出産」という言葉をどうしても思い出せなかったのです。えーと、あれ、代替子宮じゃなくて、人工ナントカでもなくて、ぎぇー、頭まっしろ。今日中に投稿しなきゃと焦り、結局「不妊 他人の子宮」とかで検索しました。・・・単なるど忘れであれと祈るけど、このごろ脳細胞の死滅が高速で進んでいるような気がする。あはあ、脳高速か。
投稿者:ルノ 23:51 | コメント(2) | トラバ(0) | 生老病死
2008年02月02日

臓器バイバイ

「ばいばい」を変換すると(@^^)/~~~だの(T_T)/~~~だのがずらずら出てきます。たくもう、そんなの集めるヒマがあれば「濃ーと」やら「蚊ならず」「田鹿に」などをなんとかせいっ。

個人的感情として臓器移植は好かんので、ドナーカードは持ちません。
献血さえ断られるくらいだから、どうせオンボロ臓器。役に立ちそうもない。

そういうわがままなヤツが多いから、我が国は臓器不足で悩んでるんだ。四の五の言わんと、ボロぞうきんでもなんでもとっとと供出せい。
とお叱りを受けるかもしれないな。

すでに述べたように、死んでしまえば「臓器移植は好かん」なんて感情も霧消するわけで、まわりの連中が勝手に取り出して活用することまで止めやしません。止めようにも止められぬ。
だから、本人の意思がどうのこうのではなく、家族や相続人だけで決めても不都合はないのです。

日本ではすったもんだのあげく、脳死を人の死と認めないまま、一定条件下で臓器を剔出できるというルールができました。言い換えれば、生体から臓器を取っている現状です。
私は脳死が人の死でOKとする立場なので、それをとやかく言ったりはしません。

脳が死ねば確実に体も死ぬというのが、これまで観察された事実のようです。
「生体から臓器を取っている」とは不穏な表現ですが、そのとき患者には痛みも苦しみも怒りもありません。それを感じる脳が機能していないのだから。ただ、見守る近親者にはどうしてもそうは見えないのでしょうね。

考えれば、輸血てのは臓器移植の初歩的パタンではありませんか。安易にどぼどぼ注ぎ込んでしまったことが、結果的にどれだけの悲劇を生んだことか(血液を原料にした薬を指してるようだ)。
宗教的理由で輸血を拒む人々を笑ったり憐れんだりした人々こそ反省すべきべきです。
もし輸血が厳しく制限されていたなら、ほかのもっと安全な方法が開発されていたでしょう。

同様に、臓器提供のハードルが高いことは、かえって医学の向上に貢献するのではないかと常々思っていました。
そして移植に頼らない画期的技術が進歩しつつあるじゃないですか。なんたら細胞だのなんたら膜だのって(詳細は覚えとらん)。

他人の臓器を当てにする時代は遠からず終焉を迎えるでしょう。
とはいえ移植医療自体が始まったばかりで、未成熟分野なのです。危険性も非常に高い。死期が迫っている人しか選択しえないものだし、いつまでも人体実験同然の状態が続いています。

不足商品の値段が高騰するのは、自由経済社会では当然です。
臓器移植のレシピエントを決めるのにはそれなりの法則があるようですが、金持ちから割り当てていくのも一方法ではないでしょうか。どうせ人体実験みたいなもんでしょ。金持ちと貧乏人ではさまざまな状況において命の取り扱いに差が生じています。こと臓器移植に関してだけ平等というのも変な話。
じっさい金持ちや成金はさっさと海外で移植を受けてるようだし(これって、その国の人の移植の機会を奪うんですよね)。
保有財産の多寡によって、あんたは130億、そっちは6億400万、などとじゃかじゃか徴収して難病治療研究や新薬開発に投入すれば、いずれ貧乏患者にも余禄が回ってきます。酒びたりのあげく肝臓を損ねて貧困に陥った放蕩者に無償提供するよりはよっぽど有意義です。

と、いくらぶったって、ヨッパライのたわごと程度にしか受け止めてもらえそうもないが。

そうそう。たわごとついでに、ひとつだけ、あげてもいい臓器があったよー。脳ミソだい(石つぶてが飛んできそう)。

脳を取り替えたら、その体は脳の元の持ち主に乗っ取られるような気がするんですか?
そんなに脳って偉いのかなあ。

確かに脳障害はしばしば人を変えます。記憶喪失程度でもアイデンティティが揺らぐのです。
それに比して、腕なら1本や2本なくしても、不便さに苛立つくらいで、その人のアイデンティティが失われることはないようです。
しかしもっと少量でも、たとえば右のホッペなんかなくしたら、人格変わっちゃいますよ、凡人は。
脳だけがその人をその人たらしめているものだとは、ちょっと信じられないのです。

私の脳は「チョコを食べちゃいけない」と思ってるんですけど、手が勝手にチョコをつまみ、口に入れ、口は意に反して咀嚼して胃に送るんですよ。せめて胃が消化を拒否すればいーのに、どいつもこいつも脳の命令に従わず、好きに行動してしまうのさ。
そのくせチョコを食べた「快感」は、脳が独り占めしてるんです。ずるいのう。
こんな脳、もう要らぬ。誰かもらってくれ。

脳死よりもずっと怖いのは、脳以外すべて働かなくなって、しかし脳機能は正常に保たれているケース。何も見えず、聞こえず、動けず、いくらもどかしくても意思表示ができず、闇の中でただ思うだけ。
こういうシチュエーションには、古今東西多くの人が興味を持ってきたようです。しかし純粋に想像するしかない。そして創造するのですね、フィクションとして。

記憶をたどればいくつか思い当たります。
『ジョニーは戦場へ行った』は読んだことも見たこともないけど、有名だからまず挙げておきましょう。
乙一『失はれる物語』は淡々としているところが背筋をなでます。
星新一の掌編には、そのような状態に陥った男が、思念の力だけで世界を征服するという、まこと恐ろしい話がありました。タイトルは失念。
柴田よしき『象牙色の眠り』・・・ホラーではなくミステリ系で、筋が通っておもしろい。
乱歩の『芋虫』もジョニーに似た設定でしたね。
少し毛色は違うが、ポーの短編『ヴァルドマール氏の死の真相』は不気味です。本人の意識は描かれず、死を強制停止された死者を外側から見たもの。発表当時は実話だと噂されたとか。

・・・とまあ、くだらんゴタクを打ちまくったのは指です。私の脳はそんなこと嫌がったんです。ホントです。
投稿者:ルノ 23:50 | コメント(2) | トラバ(0) | 生老病死
2008年01月20日

プレ殺人者

ありていに言って、推理小説などで殺された人が一人だけだと、えらく損した気分になります。やっきになる警察や(天才的)探偵の裏をかいてじゃかじゃか殺してくれなきゃ読み応えがない。
もっとも私は「動機」重視派だから、サイコホラーみたいに無意味な死体が積み重なる状況には辟易だけど。

では納得のいく事情があれば殺人も許されると思うのか?
そういう問題じゃありません。意表を突く動機が好みなんです。
東野圭吾『悪意』、ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』などは、けっこうおもしろい動機でした。短編では小池真理子『妻の女友達』とか。同じく倉知淳『闇ニ笑フ』は誰も死なないけど秀逸。『動機』といえば横山秀夫だが、どんな動機だったか忘れた。
レーンもポアロも、最後はくだらんことで人生を汚したと思うよ。

それはおいといて、今回はフィクションでなく、現実の話をしたいのです。

ひところはやってすたれた「なぜ人を殺してはいけないか」という問いかけ。

猫好きのおばあちゃま左近寺祥子いわく、後悔しても償えない行為だからだ(『自分を知るための哲学』より)。
えっ、そんなもん? 哲学研究者ってもっと複雑な理屈をこねくり回すもんだと思ってた。
虫好きのおじいちゃん養老孟司も『死の壁』で同じこと言ってました。壊すのは簡単だが、作ることは不可能だ、と。

償えない、取り返しがつかないとは、生き返らないということです。生き返りさえすれば、殺人もOKってことですかね。

医学の発達はめざましいから、死んだ生物の蘇生が可能になるのは遠い未来のことではなさそう。
最初はロボコップみたいにぎこちないかもしれない。そのうち、木っ端微塵の自爆テロ犯でも、細胞の一片を採取できれば、培養して元通りに育て、司直の下で死刑、てなことに。

脳が壊れてしまえば、その人のアイデンティティたる「意識」の継続はどうなるんだ? えーと、中央制御機関みたいなとこに毎日自動的にセーブされるようになっていて、ほぼ復元可能としましょう。死ぬ直前に苦痛があったとしても、そのあたりの記憶は戻らないからハッピ〜。

「や、昨日はごめん。つい手が滑って殺しちゃったんだ」
「悪いと思ってんなら、昼飯くらいおごれ」
といった会話が、殺人者と被害者の間で交わされるのでしょうか。あれ? なんかヘンですね。人殺しが悪くないなら、怒ったり謝ったりの必要もないんだった。

人が永遠の生命を得た暁には、完全死は金持ちと王侯貴族だけの特権となり、ビンボー下層民たちは死んでも死んでも生き返らせられ、あくせくあくせく働き続けなければならないのでした。これは恐怖だ。

妄想は続きます。
「どうして人殺しは悪いか」という問いは、「お日さまはなぜ赤い?」とか「なぜ鏡に映る像の上下は正しいのに左右が逆なのか」に似ています。前提が間違っているのです。
太陽は赤くなんかないでしょ。鏡には上のものは上、下のものは下、右のものは右に、左のものは左側に映る。どこが逆なんだ?

しかしこのような質問が「なぜ道端に落ちているものを食べちゃいけないの?」などに比べてもっともらしいのは、実にもっともらしいからでしょうね(なんの説明にもなっとらん)。殺人者は悪い奴だと非難されるし、夕陽は時として赤に近い。鏡の中の自分はどう見ても左右だけがひっくり返っている。

人を殺すことはほんとうにいけないんでしょうか。
必ずしもいけないわけじゃないでしょう。

A国のB大統領なんか、正義の名のもとに複数の国へ攻め込み、無辜の民やら自国の兵士やら何万人も殺しておきながら、夏冬はバカンス楽しんでいます(ヤツは自ら手を下したわけじゃない、と言うなら、オウムの親豚だってそうだ)。

殺人願望を持つ人々のため、国家が殺人を代行してくれることがあります。その願望は「遺族感情」などと呼ばれたりします。
死刑は確定から6ヶ月以内に執行しなければならないと刑事訴訟法で定められていますが、現実には7年以上かかっているとか。殺人担当大臣がビビっちゃうんでしょう。法の元締め自らが法を犯しているわけだから、しもじもの犯罪が減らんのもうなずける。
そんなに長期間死刑囚を税金で養うのかと怒る声もあろうし、死の恐怖をいたずらに長引かせる点が残酷だともいえるし、その延びた期間に冤罪の証拠を見つけようと期待が高まったり。

もっか平和に似たものにずぶずぶ浸かってるニッポンでも、ちょっと前までは日常的に殺し合いが行われていました。武士には斬り捨て御免の特権があったし、仇討ち禁止令は明治のことだし、戦時中はその辺の人々も鬼畜BA皆殺しと叫んで竹槍研いでたんじゃないんですか。

今だって社会にはあまたの殺人者が野放しになっているに違いありません。殺人犯を捕まえて裁判にかけるのはちょっとした努力目標としても、警官足りないし、検挙率落ちたし、それ以前に犯罪として発覚していない事件も多数。なんたって我が国の検死件数は情けないほど少ないとか。その陰で高笑いする強殺犯や保険金成金たち。彼らにとって殺人は人生を豊かにする良い手段なのです。

それでも多くの人は殺人とは無縁の生涯を送ります。
自分が人殺しに手を染めるなんて論外、選択外だと思っているはず。けっこう体力が要るみたいだし、死体を埋めたり刻んだりの付帯作業が煩わしそうだし、血やわけのわからん液体固体がついたら汚いし、事情聴取で震えるかもしれないし・・・。

捕まるのが怖いってのも理由かな。となると、捕まらない保証があるならやるのか?
案外そうかもしれません。

厳罰化の影響で飲酒運転の件数が減ったらしい(ニュースを見てるとそんな気はしないけど)。
酔っ払って運転しても人に迷惑かけなきゃかまわんと、個人的には思っています。教習所で上手な酒飲み運転のテクニックを教えたらどうだ。事故全般の厳罰化は支持するけど。
検挙や処罰を恐れて飲酒運転を控えるようになった人は、自分自身の中に規範を持たない、つまり善悪の判断がつかないのです。状況いかんで人を殺す可能性は高いといえましょう。
嘘つきは泥棒の始まりとは真実です。

犯罪だけではありません。公共のマナーが守れない人も同様です。
道端にゴミを捨てるのは気分が悪いから私はしません。ゴミ箱か自宅まで持っていけば済むことじゃないですか。こんな簡単なことができない人が将来の犯罪者になるのです。
タバコの吸殻をポイ捨てして平気なそこの人、あなたが明日殺人を犯す確率は、ミステリは連続殺人でなきゃ物足りないとか殺人は悪くないとかほざいている私なんかよりずっと高いのです。
投稿者:ルノ 22:41 | コメント(0) | トラバ(0) | 生老病死
2008年01月12日

墓墓しい

散策コースに広大な霊園があります。
お墓を見るたびに、とある杞憂に襲われます。

人は必ず死ぬ。死んで墓に入る。死者の累計は増える一方で、決して減りはしない。ひとりが占めるスペースは狭いとしても、長い年月を経るうちに地球は墓に覆い尽くされてしまうだろう。生きている人はもはや月や火星に進出するしかないぞ。

それが理由ではないけれど、墓なんか作るのはバカバカしいという考えを、個人的に根深く持っています。
少なくとも私の墓は要らん。葬式も花も線香も鬱陶しいからやめてくれ。そして私が存在した痕跡は速やかに消し去り、思い出は忘却の彼方へ追い払って、幸せに暮らしなさい。

死んだ人は何も感じず、何も思わないんです。
風雅な奥津城に安置されようと、クソ高い戒名を彫ってもらおうと、朝晩陰膳を供えられようと、喜び嬉しがるわけじゃなし。逆に、遺体がそのへんに捨てられてウジに食い荒らされたところで、腹立てたり地団太踏んだりもできません。
死体遺棄や毀損は法に触れるので、相応の取り扱いが求められますが、生活切り詰めてまで豪華な葬式出すのは愚です。

死者への供養は、生者の自己満足に過ぎません。私とて人生全般にわたる自己満足の効用は認めますが、墓参りをしなくても「自分は」平気だと、残された人が判断すれば、墓は不要です。

とはいえ・・・。
私が墓など要らんといくら真剣に書き残しても、遺族が(いたとして)そんな世間体の悪いことはまかりならぬと、墓だの納骨堂だのに無理やり押し込めてしまうことはありうる。
だとしても死んでる私には文句をつけるすべがないわけです。そもそも、死ねば無になるんだから何も感じず考えないと達観していながら、何も感じなくなった後のことまで指図するのは大いなる矛盾じゃないですか。
死にゆく者の願いをできるだけかなえてあげたいのが遺族や関係者の人情です(でないと寝覚めが悪いらしいからね)。そこにつけこんで非常識な命令を残すのは故人横暴というもの。

それどころか、そういうジャドーな望みは、表明するだけでじゅうぶん罪作りです。なぜって、自分の墓を拒絶することは、人の墓を粗末にすることにつながります。黄金律に従えば当然です。
さよう、私は先祖の墓参なんかしたくないから、自分の墓は要らないと思うんです。

私を遺族にするつもりでいる人々はたいそうまともな神経の持ち主なので、自分の墓が荒れ果てたり売っ払われては成仏できぬと、心労のあげく寿命を縮めてしまうおそれもあります。
死んだあとはどうでもいいからこそ、生きている人々を苦しめることは私にとって不本意です。不穏な考えは大急ぎで撤回しなければなりません。
お母様、冗談、冗談ですわよ。こういう信条の人も世の中にはいるんじゃないかなーと思っただけよ。お母様のお墓の周りにはかわいいヒナギクの花を植え、お兄様や万里絵といっしょに毎月必ずお参りいたしますから、どうぞ安らかにご永眠あそばせ。

人生ってのは、バカバカしくても嫌でもやらなきゃいけないことが多すぎるから、墓守りの義務がいっこ増えたくらいどうってことないのも事実でしょう。

ところで、夫やその家族と同じ墓に入るのはごめんだと、自分専用の墓を準備する妻が増えていると聞いたことがあります。
どこに埋められようと大差ないでしょ。焼かれたお骨が何を嫌がるって言うんですか。そんなことに金を使うより、温泉旅行などで今を楽しんでストレス解消すれば、夫婦関係の修復も期待できようものを。
しかし、自分の死後のあれこれを手配することは、生前を心安らかに過ごすための儀式です。死んだら無になり何も感じないという境地を理解できない人々には有用だと認めざるをえません。

墓を嫌うことは、死を軽んじたり不誠実に生きることを意味しません。
自分や他人の死後に向けるエネルギーを現在の生に投入することで、より善い(幸せな)人生を得るチャンスが広がるはずなのです。もっとも、傍目にはあわれな生き方をしている私がこんな主張をしても、やぶへびのような気はしますが。

雪の墓地
投稿者:ルノ 22:45 | コメント(0) | トラバ(0) | 生老病死
2007年10月09日

苦あれば楽あり

「楽あれば苦あり」とセットになっていることも多いですね。また「楽は苦の種、苦は楽の種」とも。
英語・英文を検索したい人のために先回りしますと、No cross, no crown(苦難なくして栄光なし)・・・否定方向だけど、頭韻ですな。No pain, no gain も似たようなものです。学校では No pains, no gains と習ったような気がするが。

嫌なことでもどうせしなきゃいけないのなら、さっさと済ませて肩の荷を下ろしたい。
実にごもっともですが、なぜか人間というものは、今やらずに済むことを可能な限り先延ばししてしまう性分を持っているようです。
むろん私もその典型。夏休みの末日には毎年ヒーヒー言ってました。今でもグズゆえに抱え込みっぱなしのさまざまな懸案事項に押しつぶされかけています。

屁理屈をこねて心理分析いたしますと・・・。
手を着けないでいるうちに状況が変化してやらずに済むかもしれないという期待。
今よりもあとになってからのほうがより手際よくできるであろう(人間は成長するものだから、あるいは時を経たほうが情報が集まったり準備が整ったりするから)。
早々とやり遂げてしまうと、もっと難しい仕事を押しつけられかねないと懸念したり。

現実には「やらずに済む状況」になる可能性が低いからこそ「さっさと済ますべき事柄」なのであり、経験的には思い切って早めに取りかかれば案外楽に終えることだって多いのです。その後は真にやりたかったことに思う存分打ち込めます。
いわゆる成功者はその切り分けと見極めを確実に判断し実行した人々なのでしょう。

さあ諸君、何事も明日に伸ばすことをやめて今日、たった今、片づけてしまおう。
・・・とお説教めいた話をするつもりはありません。

おとなになった人は多かれ少なかれ後悔すると思うんです。子どものころもっと真面目に勉強していれば、もう少しましな日々を送っていたろうに、と。
「別にぃ。おいらはいっしょけんめー勉強したから、現状に満足だよ」
そうですか。そういうご立派なかたはお引取りください。私とはレベルが違う。

どうして子どもってあんなに勉強嫌いなんだろ。同じことを今勉強しようとしても、日に10万個だか100万個だか死につつある脳細胞が受けつけない。あのころが一番多くのことを吸収できたはずなのに。
これはもう、親の責任です。子供の将来を慮るなら、机に縛りつけてでも勉強させるべきだった。

おーおー、自己の怠惰を親に転嫁しますか。

だって、子どもにはわからない、実感できないんですよ。今サボると将来後悔するということが。
理屈では納得してるんです。というか、さんざっぱらお小言くらったものでしょ。ちゃんと勉強しないとお父さんのようにうだつが上がらず苦労するよ。違った。しっかり勉強しないとお父さんみたいな立派な人になれないぞ。我が家がどっちに当てはまるかは、子どもの目にも一目瞭然。
実例を目の当たりにしても、やっぱり勉強しない。絶対しない。机に縛られたらなおのこと反発して収拾がつかなくなったでしょう。
もはやそう決まっていたとしか言いようがないような気がします。運命だ、と。

ま、そんなバカは私だけであり、たいていの人はバラ色の将来を思い描いて地道に勉強したに違いありません。

子ども時代の愚かな自分を反省させるには、今の悔恨を保持したまま過去に戻って殴りつけるしか方法がないのか。
てなことを夢想する人々がけっこういるらしく、タイムマシンやタイムスリップもののフィクションを見ると、恐竜狩りやキリストとの面会なんて壮大なものよりも、ちまちまと2、30年前に戻って結婚前の両親に会う、なんてのが好まれるようです。

『パンドラの火花(黒武洋)』が試みたのは、死刑囚を過去に送って自分自身を説得させ、起きたはずの犯罪を未然に防ぐことでした。凶悪犯罪をなかったことにして、歴史的な影響はだいじょうぶなの? そんな疑問をお持ちのかたは読んでみるよろし。

わずかの天才たちはおいといて、世の秀才と凡人の差はなんでしょう。基本的な能力に差はないと思うのです。ただし大きな違い・・・秀才には「努力する才能」があり、凡人にはそれがない。

確かに私には努力の才が不足しているようです。
うんざりするほど悔やんできた経験を活かし、遅まきながらも今悔い改めれば多少は取り返しがつくはずです。今の努力が明日、来月、来年あたりに小さな実を結ぶ可能性はあるのだから。
どうしてそれを実行しないのか・・・自分ながら理解できぬ。わかっていてやらないのはわかっていないことなのです。とわかっていても、結局無為と焦燥の毎日。

スンマセン。愚痴ばっか。

ところで、誰でも一生に一度は必ずしなければならない、極めつきイヤーなことがあります。ほとんどの人はそれを最大限先延ばしすべくあがきます。

遅かれ早かれ死ななきゃいけないんだから、今のうちに死んどこう。そんな理由で死ぬ人はあまりいないようです。
死のあとに楽がある保証はないからね。

死はどんな人生経験を経た人にも謎です。生きている限りは生きているほうが無難だ(当たり前)。
同じ生きるならよりよく生きるのが自分のためであろうに・・・。

どうもこのごろ愚にもつかない抽象的な考えをもてあそぶことが増えました。死期が近づいたせいでしょうか。
投稿者:ルノ 23:09 | コメント(0) | トラバ(0) | 生老病死
2007年09月30日

したい時には親はなし

先日の記事で、幼いころ感じた死の恐怖に触れ、おとなになっても「死は最大級の恐怖」と述べました。
人は、生物は、ほぼ例外なく死を恐れます。死をもたらしそうなものを本能的に回避しようと努めます。
生物は生きているから生物であり、死んだら「生物」ではなくなって、存在意義を失うのです。

それにしても、死はほんとうに怖いことなのでしょうか。

幼少時の思い出をきっかけに、改めて「死」に思いを馳せてみても、「恐怖」が実感として湧いてこないのです。歳月は流れ、死はすぐそばまで来ているのに・・・。
もはや「ジタバタしたってしょうがないじゃん」て感じ。それは誰にでも平等に訪れるのだから。
死が避けられないからこそ今を大切に生きよう。などと人生訓の書は説くのでしょうが、別に気負うのでもヤケになるのでもなく、淡々と余生を過ごしましょう・・・ワハハ、これが悟りか。

そんなことよりも、もっと現実的で差し迫った問題があります。

親の死。

親が死ぬのは順当であるし、これまた致し方ないとは思うが、葬式などといった形式ばったものが大嫌いなんです。
墓は本人が用意してくれているし、式だの香典返しだのは一過性のものだからなんとか耐えるとして、もし死ぬまでに延々介護の問題が生じたら・・・悲惨です。介護はするほうもされるほうも地獄。想像だけで気が遠くなりそう。
先手を打って死にたくなっちゃうかも。親に葬式を出させるのは最大の親不孝らしいけど。

とまあ、埒もないことを夢想しておりましたら、昔ウェブで知り合った人からメッセージが届きました。
だいぶ前にサイトを畳んで消息不明だったので、ちょっと心配していました。ご本人はいちおう元気らしいけど、親御さんが亡くなったとの由。それだけがウェブから消えた理由ではないようですが、『HP作成に費やした膨大な時間があればもっと親孝行できたのではと、後悔の念で自虐的な日々を送っている』とか・・・。

他人事ではない気持ちになりました。極めつけの不孝人生を歩む立場として。

あえて他人事として言わせてもらえば、身近な人の死に直面すれば、まともな人間なら誰しも悔やむものです。
「ああすべきだった」「こうしてあげることもできたはず」「あんなことを言わなければよかった」云々。材料は無限に湧き出でます。
とりわけ相手が親だと、さんざん親不孝を重ねてきた記憶がずっしりのしかかってきます。
精一杯親孝行してきたように見える人々さえ、悔やまずにはいられないのが人情です。
人間はそうできているのであって、解決してくれるのは時の経過です。

手痛い経験から教訓を得て次の行動に反映させることは、人間だけでなく、狼にもプラナリアにもできます。
しかし教訓を伴わない、非生産的で後ろ向きな「後悔の念」はおそらく人間だけが持つのではないでしょうか。

その後悔はいったい誰のためのもの?
死んだ人は何の感情もないのだから、責めたりはしません。責め立てるのは自分です。自責が自己憐憫になり自己満足(こんなに悔やんでいる自分は善良な人間だと慰める)と入り混じって、自分の内部で堂々巡りをしている状況・・・辛辣に言えば、後悔は人のためでなく、自分の「気を済ませる」儀式なのでしょう。

そしてふと思う。
介護の苦労というものは、最後に親孝行をした気分にさせてくれる方便かもしれないな。

個人的にはそんな方便に振り回されるなんざまっぴらだ。
だから親には、元気で生きてポックリ逝くための健康情報をあれこれ説いているのだけど、ちっとも実行してくれません。

親不孝を(気分的に)正当化する手段ならほかにもあります。
自分が親不孝なのは親孝行する能力を授けなかった親のせいだ、とか。

あるいは子供のころ受けたひどい仕打ちを数え上げてみる。
親ってのは子供のココロなんか全然わかっちゃくれなくて、弱者である幼子を不条理な権力で押さえつけるんですよね(でも親不孝を後悔する年齢になると、わかっちゃくれなかった事情がわかっちゃう場合もある・・・それを我が子への理解に応用する人は少ないが)。

積極的に何かしたというのでなくとも、自分を産んだことそのものが悪だ、愚行だと思ったことってありませんか? 青春時代にはそんな怒りに駆られて、親を恨み、憎む人が少なからずいると思います。自分にさしたる才能がないことを嘆くゆえの一時的な感情かもしれません。中にはそれが高じて、こんなに恨まれちゃかなわん、自分は絶対にコドモなんか作らないぞと心に誓ったり・・・。

・・・こんなことをあらかじめうじうじと考え続けている私は、きっと後悔するでしょう。
投稿者:ルノ 23:45 | コメント(2) | トラバ(0) | 生老病死
2007年09月11日

小さな哲学者

昔、死をひどく恐れた時期があります。たぶん幼稚園に通っていたころです。
毎晩そのことに思いを馳せ、胸苦しさに真夜中まで眠れぬときを過ごしました。

「死を恐れる」とは、むろん自分が死ぬことが怖かったのですが、どうもそれは入り口に過ぎなかったようです。
自分が死んだあとも世界は永遠に続いていくであろう。永遠とはどういうことなのだろう。私はその永遠なるものに耐えられるだろうか。えらく退屈で気が狂うんじゃなかろうか。
死ねばいなくなるんだから、「耐える」も「退屈」もないだろうに。
そのころの私は死んだあとも意識のようなものが残るというふうに受け止めていたようです。霊とか魂などととはまた別のイメージでした。実体のない「意識」だけが無限の闇をひたすら浮遊する、みたいな。底なし沼に引き込まれる感じでした。
つまり私が真に恐れたのは、止まらない時の流れに翻弄される「永遠の生」ではなかったのか。

年端もゆかぬ無知な子が、永遠だの無限だのといった抽象的な事柄について、夜も眠れないほど考え詰めるもんかね。そんな疑問が湧きますか?
実のところ私自身、正確に上記のような内容を考えたのか、もはや自信がありません。年月を経るうちに歪みが加わった可能性もあります。

それでも私は、人間誰にでもそういう時期があると確信します。

育児相談などで時たま見かけますよね。「急にうちの子が死にたくないと怯えて泣くようになりました。どう対処したらいいでしょう」という類の質問を。
きっとこのお母さん、自分にもそういう経験があったことを忘れちゃったんだ。

幼児が死を怖がるようになる直接のきっかけは、祖父母やペットなど身近な死が多いようです。本やテレビの中ではよく人が死ぬからさほど影響はないのですが、感受性の強い子どもは、時としておとなには信じがたいような些末事にショックを受けたりします。取り立てて関連事項が見えない場合もありましょう。私はどうだったのか不明。
自分の死ではなく、親きょうだいが死んでひとり取り残されることを恐れるケースもあります。

単純に自分や家族の死による家庭の崩壊を恐れているだけなのでしょうか。
死を通して人生の意味を考え始めたという説は大げさですか?

以下、個人的推測です。
幼児期における死の恐怖は、自分というものの存在をはっきり認識し、自分と他者のかかわりや距離がわかってくるころの通過儀礼のようなものでしょう。
自分が生きて暮らしているという感覚は、果てしない希望に満ちています。日常が楽しく充実していればなおのこと。
そんなふうに自己の存在を貴重だと感じると、存在の対極にあって存在を終わらせる役割を担う「死」というものについて思い及ぶとき、想像を絶する理不尽さにおののくのです。こうやって懸命に生きているのに、必ず終わりが来るなんてひどい。それでも生きなければならないのか。
「天国へ行く」とか「お星様になる」などの説明はごまかしだと直感しています。自分の目で確認できないのみならず、人が死んだら泣いたり悲しんだりするものだと、すでにドラマなどで知っているし、何よりもおとな自身が天国を信じず、死を最大級の恐怖と位置づけているのだから、説得力なし。
幼い私は無理やり死を否定すべく「永遠の生」なるものを設定してしまい、自ら混乱を招いたようにも思えます。

子どもはそうした気持ちを説明するには、語彙も知識もあわれなほど貧弱です。曲りなりにも言い表せたとして、それを理解し、納得のいく解決策を提示してくれるおとななど、まずおりません。
内面では非常に深遠で根源的なことに近づき、人生の謎を解きたいと切望しながら、表面はただ「死ぬのはイヤだ」と泣くしかないのです。

幸か不幸か、それはほんの一過性の発作です。
私もひとりで悶々としたあげく速やかに脱却し、なんの憂いもなくほかの子どもたちと遊ぶようになりました。
人は死んだらどうなるのか、永遠とはなんなのか・・・問題は全然解決していないのに。
怖かった記憶は成長の過程でしばしばよみがえりましたが、何をあんなに怖がったんだろうと、他人事同然に関心が失せたのです。そうでなければ生きてゆけませんよね。

あるいはその感覚をいつまでも持ち続けた希少な人が、長じて哲学者だの宗教家だのになるのかもしれません。
投稿者:ルノ 22:06 | コメント(2) | トラバ(0) | 生老病死