2016年07月29日

破滅願望

足の向くままウォーキング。
の途中、とある公園に入り込みました。あたりには人っ子ひとりなく、静まり返った平日の昼下がり。
小さな展望台があったので、上ってみました。きつい坂道を来たという感覚はなかったのですが、ずいぶん標高が高くなっていて、四方ともかなり遠くまで見渡すことができました。

さわやかな風に吹かれながら遠くを眺めたあと、展望台のそばの地面に目を移すと、低木の間の土が妙に黒々としていて、唐突に、そこから飛び降りたい衝動に駆られてしまいました。手すりは高くはなく、実際、身を乗り出して越えようとしたのです。

げ、いったい私は何をしてるんだ。我に返ったのは、手すりについていた鳥のフンで袖が汚れそうになったから、かも。
そもそも即死できればいいけど、三階建てくらいの高さだから、あちこちぐじゃぐじゃになって生き延びる可能性が大で、悲惨きわまりない。

これ以上妙な気分になったらヤバい。そそくさと階段を下りると、誰もいないと思っていた一階の外側のベンチに、郵便屋さんが腰かけて、スマホをいじっていました。近辺に配達対象とおぼしき建物はないから、きっとサボりだろ。
世はすべてこともなし、でんなあ。

それにしても、どうして急に飛び降りたい気分になったんでしょう。普段からうつ的傾向はないし、高所恐怖症でもないのに。
滝つぼをのぞいたら吸い込まれそうになるのと似たようなものか。でも展望台の地面なんて、滝つぼほど魅力的な情景じゃないぞ。


そして昔読んだ『不幸になりたがる人たち 自虐指向と破滅願望』(春日武彦/文芸春秋)という本が浮かんだのです。

人というものは、安全や快適、経済的利益、消極的に見積もっても無難さ、などを求めて行動するものですが、そういう法則とはかけ離れた、わざわざ不幸や悲惨を選ぼうとする人々の例を、精神科医の立場から書いたものです。彼らは一般の人々からは精神を病んでいると見なされるのが常です。

しかし普通に暮らす普通の人でも、深い理由なく、無意味で損なことをしたくなる瞬間があって、正常と異常の線引きは困難なのです。
羽が回っている扇風機に指を突っ込みたくなるとか、電車の非常停止ボタンを無性に押したくなるとか、すれ違った薄毛のおじさんに「ハゲ」と叫びたくなる、とか・・・。

触るな危険
このシール、回転中は見えないからあんまり役に立たないんじゃない。

治りが遅くなるとわかっていてかさぶたをはがしてしまうのも、ちょっとした自虐指向で、多くの人が納得するんじゃないでしょうか。

私なんか、しばしばデスペレートにお菓子を無茶食いすることがありまして、つくづく自虐的なのです。
とりわけ、食べ始めて「あ、この菓子パン、まずい」「ぐへー、スパイス入りクッキーなんて好みじゃなかった」なんて気づいたとします。だったら食べるのをよして、残りは捨ててしまうのが、脳のため、心のため、カラダのため。なのに、まずいときにこそ、「まずい、まずい」と言いながら、腹立ちまぎれにガツガツと食べてしまうのです。全部胃に収めることで、復讐もしくは征服したつもり? そして、お定まりの後悔。
・・・。

だけど、そういう日常的な軽い破滅願望と、展望台から飛び降りるのには、距離があり過ぎるのも確か。


ところで、その帰り道、蝶が自動車に轢かれるのを目撃しました。
タテハチョウっぽいのがひらひらと道路に飛び出すのが視野に入ったときには、あんな軽いもん、風圧で飛ばされちゃうだろって思ったのです。だから、車が通り過ぎたあと、無残につぶれた蝶に、いささか茫然としまして。
タイヤの幅なんて十数センチ程度なのに、なんて運の悪い蝶なんでしょ。

もしかして、あの蝶は自ら死にに行ったのかも。
吸蜜できる花も吸水できる水たまりもないアスファルトをうろつく理由なんて、人間には思い当たりません。


川べりの舗装されていない道も、私のウォーキングコースです。ここでときたまミミズに出くわします。

いつだったか、歩くのも躊躇するほどおびただしい数のミミズの死骸に遭遇しまして、いったいコイツラは何を考えてんだ、土の中でおとなしくしていれば天寿を全うできたのにと、あわれんだものです。

ミミズの謎』によれば、ミミズが大量に地上に出て干からびるのは、月の満ち欠けと関係があるらしく、下弦の月のころが一番多いとか。
月齢とは関係なく、雨上がりにも出てくる数が増えることもあるそうです。

先日、「おびただしい」には程遠いが、けっこうたくさんのミミズを見ました。
まだ生きてもぞもぞしているのも何匹か。
生存中

快晴の午後で、推定気温32度。月の情報は調べていないけど、確かにその日は明け方まで雨が降っていました。
いくら目がないからって、太陽が照りつけてくれば、感覚器が察知するものでしょ。その時点で急いで土に潜れば助かる確率は高かろうに。

人間の目には本能のみで生きているように見える小さな生き物ですが、破滅願望が芽生えないわけではないのでしょう。死ぬことだって本能の一部なのだし。
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投稿者:ルノ 18:32 | コメント(0) | トラバ(0) | 生老病死
2012年03月31日

ホモ・サピエンス・リンネ

なまじ知恵なんてものを持ったせいか、人間は「なぜ?」にとりつかれた唯一の動物となりました。

人間と犬の違いは、知りたい欲求のあるなしだという意味のことを、ファーブルは書いています。
わからないことを知りたいという願望は、ときとして人々を苦しめます。

ものごとには原因があって結果がある・・・当たり前のようにも思えます。原因や理由を追究することで、対策や改善点を探り、高度な文明の発達へつながったのです。
それでも世の中には、いくら調べても原因がつかめないことも多々あります。人類が未熟なせいでまだわからないだけなのか、そもそも原因が存在しないのか。

金持ちの老夫婦が強盗に殺害されて金を奪われたという事件は、比較的わかりやすい事例です。年寄りは抵抗が少なくて楽に殺せるだろうと強盗は考えたのでしょう。もし被害者が悪辣な高利貸しで、非道なやり口で蓄財して恨みを買っていたのなら、さらに納得がいくかも。

幼い少女が変質的な男に誘拐され無残に殺されるという事件がときたま起こります。遺族は「なぜこんなことを?」と悲痛な叫びをあげますが、その理由はたいてい当の犯人にも説明できない衝動であるようです。
わけもなく人殺しをしたい人間は、どの国にもいつの世も散発的に(よりはもっと多く)現れています。これはもう、そのようになっているとしか(現時点では)思えません。理由を追求してもむなしいばかりです。

もしも殺された子に「責任」があったとしたら、納得できるでしょうか。たとえば犯人を挑発したとか。
無理です。いかに悪辣な高利貸しでも殺されていいはずはないのに、ましてこの世の悪を知らない幼い子どもですよ。その子がどんなようすであったろうと、犯人の殺意はすでに抑えきれない状態だったので、逃れることはできなかったのでしょう。

「しかし、どうしてうちの子が標的になったのか」肉親はさらに問いかけるでしょう。現場ではほかに何人かの子どもが遊んでいたし、もっとかわいい子もいたのに、なぜたまたまうちの子が?

どうしても理由づけをしたければ、ひとつの説があります。
前世で悪いことをしたむくいなのだ、と。

あるかどうかも定かでない「前世」とやらに責任を押しつけるのは無茶でしょうか。ま、ないという証明もできていないようだから、人間とは想像力豊かなものです。

仮に全世界の人々が「前世」「来世」の存在を信じ、人類の幸せを願ったなら、それなりによい結果を生みそうです。
今幸せな人は、来世もかくありたいといっそう善行を積むし、不幸せな人は、自業自得だから人を恨むわけにはいかない、現世では我慢して世のために尽くせば来世には必ず報われると、やけにならずに済みます。さらには現世の努力が現世の報酬として返ってくるサイクルもあるから、いつまでも不幸でいるわけでもないでしょう。
たった3代で、すべての人が幸せになれるという理屈。

むろん、そううまくはいかないのが、人間の罪業か。

前世説に説得力を失わせる要因として、大量殺人や大事故、大災害が考えられます。

通り魔事件のあったちょうどその日時に歩行者天国へ行ったのは、前世に悪いことをした人々ばかりなのか。脱線した列車に乗ったのも前世の因縁であり、ある地域が大地震に見舞われたのは、そこに前世の悪人が集まって暮らしていたから?

その通りである。と、コテコテの前世論者は言うかもしれません。
前世に悪業を重ねた人間は、無意識にある地域に引き寄せられてしまい、その数が飽和に達すると、絶対者が災害を起こすのだ、ただし悪事の程度が軽かった人も混じっているから、彼らは家を失う程度で済む、とかなんとか。
いやあ、ちょっとバカバカしい気がしますね。それだと「自分の意思」なんてものは無意味であり、どんな行為も前世の因縁となり、改善の余地も消えます。

ごくまれに、前世の記憶を持つ子どもが出現し、知っているはずもないことをいろいろとしゃべってまわりを驚かせたりします。
それらの事例を真面目に調査・研究する学者もいます。ただし、生まれ変わり信仰のない社会ではめったに起きないことや、話す内容が必ずしも当たっていないことなどから、その地域に根づいた生まれ変わりの文化や思想が「思い込み」を育てたという見方が正しいようです。

来世を信じることができたなら、やみくもに死を恐れる必要もなくなります。あるという考え方に充実した説明がつくなら、信じたい気分も個人的にはないではないのですが。
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投稿者:ルノ 09:48 | コメント(0) | トラバ(0) | 生老病死
2008年12月30日

最初の自殺者

世界最初の自殺者は屈原である。

これはまあ正しくないとは思います。
自殺(自由死)は人類に文明らしきものが芽生え始めたころからあったようですから。

むかーしお小遣いで自殺に関する本を買いました。内容はすっかり忘れ、記憶に残っているのは、巻末についていた年表の一番端っこに載っていたのが屈原ということだけ。それで屈原の名を見ると、反射的に「最初の自殺者」というフレーズが浮かぶのです。

屈原は楚の政治家・詩人です。国家のために尽力しましたが、なかなか受け入れられませんでした。直情的に正論を吐くような忠臣を、暗愚な君主はえてして煙たがり、疎んじるものです。よって国は滅び、屈原は流浪の後自殺しました。

世の中は汚れきっていて、清らかなのは自分ひとりだ。
人は湯浴みのあと、服のちりを払ってから身に着けるものである。
清浄な体に汚れた衣(世間)をまとうなんて我慢できない。

とかなんとか言い残し、汨羅の淵に身を投げたのでありました。

それを聞いて思ったものです。せっかくきれいに洗った体なんだから、服だって洗濯したてのほうが気持ちよいだろうに。
てのは、清潔意識に支配された現代ニッポンで安逸に暮らす輩の言いぐさであります。古代中国の話なんだから、ちりやホコリを払えば上出来じゃないですか。布だって貴重品だったはず。

とはいえ、我が国では誰もがそんなに清潔な暮らしを送っているかというと、はたして・・・。

キムタクが何年も洗っていないジーンズを穿いていた話は、私でも知っているくらいだから有名なんでしょうね。

いつかどこかで読んだ林真理子のエッセイ。女友達に「絹のブラウスはクリーニング代が馬鹿にならないでしょ」と言ったら、「あら、別に・・・」てな反応だったとか。彼女らは1回着るたびにブラウスを洗うわけではないらしいとあてこすっていたのです。

そりゃマリコさん、みんながみんなあなたのようなお金持ちってわけじゃありませんからね。

とりわけビンボーなこの私、冬は暖房費倹約のため、厚着で過ごしております。
この時期は汗もかかないし、入浴後に着替えるのは下着や肌着などで、外側に着るものは何日かもたせることになってしまいます(水や洗剤だって節約しなきゃ)。それらを身に着けるとき、決まって屈原を思い出し、風呂場のタイルの上で振るってほこりを払う真似をするのが習慣となったのです。
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投稿者:ルノ 20:53 | コメント(0) | トラバ(0) | 生老病死