2008年03月30日

トンボに学ぶ

昨年夏、街を歩いていたら、2匹つながったトンボが、とある会社の前に停まっている車の屋根をしっぽで何度も叩くのを目撃しました。
駅の近くのけっこう交通量の多い場所で、トンボそのものが珍しいのに、つがいとは貴重なチャンス。しかしカメラを取り出したときには、トンボはあきらめて飛び去るところでした。このあたりに産卵に適当な池や沼があるだろうかと、少し心配になりました。

ちょうど昆虫に興味を持ち、関連本など漁っていたころでした。
『トンボの不思議』(新井裕/どうぶつ社)や『トンボのすべて』(井上清・谷幸三/トンボ出版)によれば、トンボは光を反射するフロントガラスやビニールハウスを水面と間違えて産卵を試みることがあるのだとか。あんな大きな目をしていながら、水と固体の区別もつかないんですね。
バカにしちゃいけません。
人類はヘンなものを次々と作り出し、猛スピードで環境を破壊しています。悠長な進化を遂げてきたトンボ(なんたって日本最古の昆虫?)は、異物だらけの環境情報をDNAに焼き付けて次世代に伝える余裕がないのです。

トンボは交尾しながら飛ぶと思い込んでいる人もいるようですが、そんな器用な真似はしません(する必然性もない)。
おつながりで飛ぶのは、交尾を終えたつがいです。オスがメスの首根っこをつかんで、産卵場所までガードします。
なぜならオスは交尾に際して、メスの受け入れ場所にすでにあるかもしれないものを掻き出してから、自分の精子を入れるのです。何も入ってなくてもそのようなしぐさをしてから交尾にかかります。
自分がそうするものだから、メスをそのまま解放するとほかのオスに自分の大事な子だねが捨てられると案じるのです。

メスの奪い合いでオス同士が戦うことは、いろんな動物に見られます。より強いものが子孫を残すための選別だから、それなりに意義はありましょう。
しかしトンボの小賢しいテクニックは、能力の有無や強弱に関係なく、同種他個体の排除に過ぎません。運不運の問題です。実にもったいない。
今オマエが放り捨てたのは、トンボ界の風雲児になるべき超優秀トンボのタネだったかもしれないぞ。

生き物は必ず死にます。
生物に寿命がある理由について、遺伝子がひとつの種(しゅ)を存続させることを第一目的としているからだという説があります。表現がヘタだが、地球人類は大きな一個の生き物であり、一細胞たる私は新陳代謝のためにアポトーシスを義務づけられているってこと。

その観点からいえば、トンボの行為は利己的です。種の保存は二の次で、自分の子孫さえ生き残ればOKと考えているかのようです。
むしろ処女トンボを見分ける能力を身につけて、無駄ダマを減らしたほうがよっぽど種の繁栄に貢献するだろうに。

いろんな事情で子どもを産むことができない人々が、代理出産の解禁を求めています。
実際に産むのは他人でも、生物学的には自分の遺伝子を持つ、正真正銘我が子です。もし自分のタネが採れない時は、親や同胞など血縁者からもらったりしたいようです。

苟もあらゆる生物の頂点に立つ(つもりの)人間が、トンボ並みの本能しか持てないのか。
不妊は不運だったけど、それも試練と受け止めて、代理出産にかかる莫大な費用に愛情を加味して、恵まれない孤児たちに振り向けるほうが、はるかに崇高ではないのか。
・・・なーんて皮肉は申しません。視点を変えれば、人間なのにトンボ程度の願望さえかなわないとはあわれです。

種の保存なんかどうでもいいんです。生物が生きる目的はあくまでも自己保存です。
隣の誰それさんの子孫が繁栄して何が嬉しいんだ。あくまでも自分の血を引く子をなさなければ、人として生まれた甲斐がない。
その証拠に、まま子いじめはどの国にもどの民族にも根深く存在します。他人の子を我が子と同じに愛せないのが人間の真の姿です。

そしてどんなにできの悪い子でも異常犯罪に走った子でも、親としては見捨てることができません。
子どもにとってろくでなしの親であっても、寝たきりで死にかけているとなればほっておけないのが心情です。
それほど人を縛りつける「血」とは不思議なものです。結果としてそれが種を存続させる力となったと思うのです。

もっとも昨今の世では少子化が進んでいます。自己増殖を望まない人間が増えているのです。せっかくもうけた子を虐待し、ときには殺してしまう親も異常に多い。
これは何を意味するのでしょう。自浄作用が働き始めたのかもしれません。

ところでコワい話をひとつ。これを書いている途中「代理出産」という言葉をどうしても思い出せなかったのです。えーと、あれ、代替子宮じゃなくて、人工ナントカでもなくて、ぎぇー、頭まっしろ。今日中に投稿しなきゃと焦り、結局「不妊 他人の子宮」とかで検索しました。・・・単なるど忘れであれと祈るけど、このごろ脳細胞の死滅が高速で進んでいるような気がする。あはあ、脳高速か。
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投稿者:ルノ 23:51 | コメント(2) | トラバ(0) | 生老病死
2008年02月02日

臓器バイバイ

「ばいばい」を変換すると、(@^^)/~~~だの(T_T)/~~~だのがずらずら出てきます。たくもう、そんなの集めるヒマがあれば「濃ーと」やら「蚊ならず」「田鹿に」などをなんとかせいっ。

個人的感情として臓器移植は好かんので、ドナーカードは持ちません。
献血さえ断られるくらいだから、どうせオンボロ臓器。役に立ちそうもない。

そういうわがままなヤツが多いから、我が国は臓器不足で悩んでるんだ。四の五の言わんと、ボロぞうきんでもなんでもとっとと供出せい。
とお叱りを受けるかもしれないな。

すでに述べたように、死んでしまえば「臓器移植は好かん」なんて感情も霧消するわけで、まわりの連中が勝手に取り出して活用することまで止めやしません。止めようにも止められぬ。
だから、本人の意思がどうのこうのではなく、家族や相続人だけで決めても不都合はないのです。

日本ではすったもんだのあげく、脳死を人の死と認めないまま、一定条件下で臓器を剔出できるというルールができました。言い換えれば、生体から臓器を取っている現状です。
私は脳死が人の死でOKとする立場なので、それをとやかく言ったりはしません。

脳が死ねば確実に体も死ぬというのが、これまで観察された事実のようです。
「生体から臓器を取っている」とは不穏な表現ですが、そのとき患者には痛みも苦しみも怒りもありません。それを感じる脳が機能していないのだから。ただ、見守る近親者にはどうしてもそうは見えないのでしょうね。

考えれば、輸血てのは臓器移植の初歩的パタンではありませんか。安易にどぼどぼ注ぎ込んでしまった(血液を原料にした薬も含めて)ことが、結果的にどれだけの悲劇を生んだことか。
宗教的理由で輸血を拒む人々を嘲ったり憐れんだりした人々こそ反省すべきべきです。
もし輸血が厳しく制限されていたなら、ほかのもっと安全な方法が開発されていたでしょう。

同様に、臓器提供のハードルが高いことは、かえって医学の向上に貢献するのではないかと常々思っていました。
そして移植に頼らない画期的技術が進歩しつつあるじゃないですか。なんたら細胞だのなんたら膜だのって。

他人の臓器を当てにする時代は遠からず終焉を迎えるでしょう。
とはいえ移植医療自体が始まったばかりで、未成熟分野なのです。危険性も非常に高い。死期が迫っている人しか選択しえないものだし、いつまでも人体実験同然の状態が続いています。

不足商品の値段が高騰するのは、自由経済社会では当然です。
臓器移植のレシピエントを決めるのにはそれなりの法則があるようですが、金持ちから割り当てていくのも一方法ではないでしょうか。金持ちと貧乏人ではさまざまな状況において命の取り扱いに差が生じています。こと臓器移植に関してだけ平等というのも変な話。

現実に、金持ちや成金はさっさと海外で移植を受けてるようだし(これってその国の人の移植の機会を奪うんですよね)。
保有財産の多寡によって、あんたは130億、そっちは6億400万、などとじゃかじゃか徴収して難病治療研究や新薬開発に投入すれば、いずれ貧乏患者にも余禄が回ってきます。酒びたりのあげく肝臓を損ねて貧困に陥った放蕩者に無償提供するよりはよっぽど有意義です。

と、いくらぶったって、ヨッパライのたわごと程度にしか受け止めてもらえそうもないが。

そうそう。たわごとついでに、ひとつだけ、あげてもいい臓器があったよー。脳ミソだい(石つぶてが飛んできそう)。

脳を取り替えたら、その体は脳の元の持ち主に乗っ取られるような気がしますか?
そんなに脳って偉いのかなあ。

確かに脳障害はしばしば人を変えます。記憶喪失程度でもアイデンティティが揺らぐのです。
それに比して、腕なら1本や2本なくしても、不便さに苛立つくらいで、その人のアイデンティティが失われることはないようです。

しかしもっと少量でも、たとえば右のホッペなんかなくしたら、人格変わっちゃいますよ、凡人は。
脳だけがその人をその人たらしめているものだとは、ちょっと信じられないのです。

私の脳は「チョコを食べちゃいけない」と思ってるんですけど、手が勝手にチョコをつまみ、口に入れ、口は意に反して咀嚼して胃に送るんですよ。せめて胃が消化を拒否すればいーのに、どいつもこいつも脳の命令に従わず、好きに行動してしまうのさ。
そのくせチョコを食べた「快感」は、脳が独り占めしてるんです。ずるいのう。
こんな脳、もう要らぬ。誰かもらってくれ。

脳死よりもずっと怖いのは、脳以外すべて働かなくなって、しかし脳機能は正常に保たれているケース。何も見えず、聞こえず、動けず、いくらもどかしくても意思表示ができず、闇の中でただ思うだけ。
こういうシチュエーションには、古今東西多くの人が興味を持ってきたようです。しかし純粋に想像するしかない。そして創造するのですね、フィクションとして。

記憶をたどればいくつか思い当たります。
『ジョニーは戦場へ行った』は読んだことも見たこともないけど、有名だからまず挙げておきましょう。
乙一『失はれる物語』は淡々としているところが背筋をなでます。
星新一の掌編には、そのような状態に陥った男が、思念の力だけで世界を征服するという、まこと恐ろしい話がありました。タイトルは失念。
柴田よしき『象牙色の眠り』・・・ホラーではなくミステリ系で、筋が通っておもしろい。
乱歩の『芋虫』もジョニーに似た設定でしたね。
少し毛色は違うが、ポーの短編『ヴァルドマール氏の死の真相』は不気味です。本人の意識は描かれず、死を強制停止された死者を外側から見たもの。発表当時は実話だと噂されたとか。

・・・とまあ、くだらんゴタクを打ちまくったのは指です。私の脳はそんなこと嫌がったんです。ホントです。
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投稿者:ルノ 23:50 | コメント(2) | トラバ(0) | 生老病死
2008年01月20日

プレ殺人者

ありていに言って、推理小説などで殺された人が一人だけだと、えらく損した気分になります。やっきになる警察や(天才的)探偵の裏をかいてじゃかじゃか殺してくれなきゃ読み応えがない。
もっとも私は「動機」重視派だから、サイコホラーみたいに無意味な死体が積み重なる状況には辟易だけど。

では納得のいく事情があれば殺人も許されると思うのか?
そういう問題じゃありません。意表を突く動機が好みなんです。
東野圭吾『悪意』、ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』などは、けっこうおもしろい動機でした。短編では小池真理子『妻の女友達』とか。同じく倉知淳『闇ニ笑フ』は誰も死なないけど秀逸。『動機』といえば横山秀夫だが、どんな動機だったか忘れた。
レーンもポアロも、最後はくだらんことで人生を汚したと思うよ。

それはおいといて、今回はフィクションでなく、現実の話をしたいのです。

ひところはやってすたれた「なぜ人を殺してはいけないか」という問いかけ。

猫好きのおばあちゃま左近寺祥子いわく、後悔しても償えない行為だからだ(『自分を知るための哲学』より)。
えっ、そんなもん? 哲学研究者ってもっと複雑な理屈をこねくり回すもんだと思ってた。
虫好きのおじいちゃん養老孟司も『死の壁』で同じこと言ってました。壊すのは簡単だが、作ることは不可能だ、と。

償えない、取り返しがつかないとは、生き返らないということです。生き返りさえすれば、殺人もOKってことですかね。

医学の発達はめざましいから、死んだ生物の蘇生が可能になるのは遠い未来のことではなさそう。
最初はロボコップみたいにぎこちないかもしれない。そのうち、木っ端微塵の自爆テロ犯でも、細胞の一片を採取できれば、培養して元通りに育て、司直の下で死刑、てなことに。

脳が壊れてしまえば、その人のアイデンティティたる「意識」の継続はどうなるんだ? えーと、中央制御機関みたいなとこに毎日自動的にセーブされるようになっていて、ほぼ復元可能としましょう。死ぬ直前に苦痛があったとしても、そのあたりの記憶は戻らないからハッピ〜。

「や、昨日はごめん。つい手が滑って殺しちゃったんだ」
「悪いと思ってんなら、昼飯くらいおごれ」
といった会話が、殺人者と被害者の間で交わされるのでしょうか。あれ? なんかヘンですね。人殺しが悪くないなら、怒ったり謝ったりの必要もないんだった。

人が永遠の生命を得た暁には、完全死は金持ちと王侯貴族だけの特権となり、ビンボー下層民たちは死んでも死んでも生き返らせられ、あくせくあくせく働き続けなければならないのでした。これは恐怖だ。

妄想は続きます。
「どうして人殺しは悪いか」という問いは、「お日さまはなぜ赤い?」とか「なぜ鏡に映る像の上下は正しいのに左右が逆なのか」に似ています。前提が間違っているのです。
太陽は赤くなんかないでしょ。鏡には上のものは上、下のものは下、右のものは右に、左のものは左側に映る。どこが逆なんだ?

しかしこのような質問が「なぜ道端に落ちているものを食べちゃいけないの?」などに比べてもっともらしいのは、実にもっともらしいからでしょうね(なんの説明にもなっとらん)。殺人者は悪い奴だと非難されるし、夕陽は時として赤に近い。鏡の中の自分はどう見ても左右だけがひっくり返っている。

人を殺すことはほんとうにいけないんでしょうか。
必ずしもいけないわけじゃないでしょう。

A国のB大統領なんか、正義の名のもとに複数の国へ攻め込み、無辜の民やら自国の兵士やら何万人も殺しておきながら、夏冬はバカンス楽しんでいます(ヤツは自ら手を下したわけじゃない、と言うなら、オウムの親豚だってそうだ)。

殺人願望を持つ人々のため、国家が殺人を代行してくれることがあります。その願望は「遺族感情」などと呼ばれたりします。
死刑は確定から6ヶ月以内に執行しなければならないと刑事訴訟法で定められていますが、現実には7年以上かかっているとか。殺人担当大臣がビビっちゃうんでしょう。法の元締め自らが法を犯しているわけだから、しもじもの犯罪が減らんのもうなずける。
そんなに長期間死刑囚を税金で養うのかと怒る声もあろうし、死の恐怖をいたずらに長引かせる点が残酷だともいえるし、その延びた期間に冤罪の証拠を見つけようと期待が高まったり。

もっか平和に似たものにずぶずぶ浸かってるニッポンでも、ちょっと前までは日常的に殺し合いが行われていました。武士には斬り捨て御免の特権があったし、仇討ち禁止令は明治のことだし、戦時中はその辺の人々も鬼畜BA皆殺しと叫んで竹槍研いでたんじゃないんですか。

今だって社会にはあまたの殺人者が野放しになっているに違いありません。殺人犯を捕まえて裁判にかけるのはちょっとした努力目標としても、警官足りないし、検挙率落ちたし、それ以前に犯罪として発覚していない事件も多数。なんたって我が国の検死件数は情けないほど少ないとか。その陰で高笑いする強殺犯や保険金成金たち。彼らにとって殺人は人生を豊かにする良い手段なのです。

それでも多くの人は殺人とは無縁の生涯を送ります。
自分が人殺しに手を染めるなんて論外、選択外だと思っているはず。けっこう体力が要るみたいだし、死体を埋めたり刻んだりの付帯作業が煩わしそうだし、血やわけのわからん液体固体がついたら汚いし、事情聴取で震えるかもしれないし・・・。

捕まるのが怖いってのも理由かな。となると、捕まらない保証があるならやるのか?
案外そうかもしれません。

厳罰化の影響で飲酒運転の件数が減ったらしい(ニュースを見てるとそんな気はしないけど)。
酔っ払って運転しても人に迷惑かけなきゃかまわんと、個人的には思っています。教習所で上手な酒飲み運転のテクニックを教えたらどうだ。事故全般の厳罰化は支持するけど。
検挙や処罰を恐れて飲酒運転を控えるようになった人は、自分自身の中に規範を持たない、つまり善悪の判断がつかないのです。状況いかんで人を殺す可能性は高いといえましょう。
嘘つきは泥棒の始まりとは真実です。

犯罪だけではありません。公共のマナーが守れない人も同様です。
道端にゴミを捨てるのは気分が悪いから私はしません。ゴミ箱か自宅まで持っていけば済むことじゃないですか。こんな簡単なことができない人が将来の犯罪者になるのです。
タバコの吸殻をポイ捨てして平気なそこの人、あなたが明日殺人を犯す確率は、ミステリは連続殺人でなきゃ物足りないとか殺人は悪くないとかほざいている私なんかよりずっと高いのです。
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投稿者:ルノ 22:41 | コメント(0) | トラバ(0) | 生老病死