2008年01月12日

墓墓しい

散策コースに広大な霊園があります。
お墓を見るたびに、とある杞憂に襲われます。

人は必ず死ぬ。死んで墓に入る。死者の累計は増える一方で、決して減りはしない。ひとりが占めるスペースは狭いとしても、長い年月を経るうちに地球は墓に覆い尽くされてしまうだろう。生きている人はもはや月や火星に進出するしかないぞ。

それが理由ではないけれど、墓なんか作るのはバカバカしいという考えを、個人的に根深く持っています。
少なくとも私の墓は要らん。葬式も花も線香も鬱陶しいからやめてくれ。そして私が存在した痕跡は速やかに消し去り、思い出は忘却の彼方へ追い払って、幸せに暮らしなさい。

死んだ人は何も感じず、何も思わないんです。
風雅な奥津城に安置されようと、クソ高い戒名を彫ってもらおうと、朝晩陰膳を供えられようと、喜び嬉しがるわけじゃなし。逆に、遺体がそのへんに捨てられてウジに食い荒らされたところで、腹立てたり地団太踏んだりもできません。
死体遺棄や毀損は法に触れるので、相応の取り扱いが求められますが、生活切り詰めてまで豪華な葬式出すのは愚です。

死者への供養は、生者の自己満足に過ぎません。私とて人生全般にわたる自己満足の効用は認めますが、墓参りをしなくても「自分は」平気だと、残された人が判断すれば、墓は不要です。

とはいえ・・・。
私が墓など要らんといくら真剣に書き残しても、遺族が(いたとして)そんな世間体の悪いことはまかりならぬと、墓だの納骨堂だのに無理やり押し込めてしまうことはありうる。
だとしても死んでる私には文句をつけるすべがないわけです。そもそも、死ねば無になるんだから何も感じず考えないと達観していながら、何も感じなくなった後のことまで指図するのは大いなる矛盾じゃないですか。
死にゆく者の願いをできるだけかなえてあげたいのが遺族や関係者の人情です(でないと寝覚めが悪いらしいからね)。そこにつけこんで非常識な命令を残すのは故人横暴というもの。

それどころか、そういうジャドーな望みは、表明するだけでじゅうぶん罪作りです。なぜって、自分の墓を拒絶することは、人の墓を粗末にすることにつながります。黄金律に従えば当然です。
さよう、私は先祖の墓参なんかしたくないから、自分の墓は要らないと思うんです。

私を遺族にするつもりでいる人々はたいそうまともな神経の持ち主なので、自分の墓が荒れ果てたり売っ払われては成仏できぬと、心労のあげく寿命を縮めてしまうおそれもあります。
死んだあとはどうでもいいからこそ、生きている人々を苦しめることは私にとって不本意です。不穏な考えは大急ぎで撤回しなければなりません。
お母様、冗談、冗談ですわよ。こういう信条の人も世の中にはいるんじゃないかなーと思っただけよ。お母様のお墓の周りにはかわいいヒナギクの花を植え、お兄様や万里絵といっしょに毎月必ずお参りいたしますから、どうぞ安らかにご永眠あそばせ。

人生ってのは、バカバカしくても嫌でもやらなきゃいけないことが多すぎるから、墓守りの義務がいっこ増えたくらいどうってことないのも事実でしょう。

ところで、夫やその家族と同じ墓に入るのはごめんだと、自分専用の墓を準備する妻が増えていると聞いたことがあります。
どこに埋められようと大差ないでしょ。焼かれたお骨が何を嫌がるって言うんですか。そんなことに金を使うより、温泉旅行などで今を楽しんでストレス解消すれば、夫婦関係の修復も期待できようものを。
しかし、自分の死後のあれこれを手配することは、生前を心安らかに過ごすための儀式です。死んだら無になり何も感じないという境地を理解できない人々には有用だと認めざるをえません。

墓を嫌うことは、死を軽んじたり不誠実に生きることを意味しません。
自分や他人の死後に向けるエネルギーを現在の生に投入することで、より善い(幸せな)人生を得るチャンスが広がるはずなのです。もっとも、傍目にはあわれな生き方をしている私がこんな主張をしても、やぶへびのような気はしますが。

雪の墓地
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投稿者:ルノ 22:45 | コメント(0) | トラバ(0) | 生老病死
2007年10月09日

苦あれば楽あり

「楽あれば苦あり」とセットになっていることも多いですね。また「楽は苦の種、苦は楽の種」とも。
英語・英文を検索したい人のために先回りしますと、No cross, no crown(苦難なくして栄光なし)・・・否定方向だけど、頭韻ですな。No pain, no gain も似たようなものです。学校では No pains, no gains と習ったような気がするが。

嫌なことでもどうせしなきゃいけないのなら、さっさと済ませて肩の荷を下ろしたい。
実にごもっともですが、なぜか人間というものは、今やらずに済むことを可能な限り先延ばししてしまう性分を持っているようです。
むろん私もその典型。夏休みの末日には毎年ヒーヒー言ってました。今でもグズゆえに抱え込みっぱなしのさまざまな懸案事項に押しつぶされかけています。

屁理屈をこねて心理分析いたしますと・・・。
手を着けないでいるうちに状況が変化してやらずに済むかもしれないという期待。
今よりもあとになってからのほうがより手際よくできるであろう(人間は成長するものだから、あるいは時を経たほうが情報が集まったり準備が整ったりするから)。
早々とやり遂げてしまうと、もっと難しい仕事を押しつけられかねないと懸念したり。

現実には「やらずに済む状況」になる可能性が低いからこそ「さっさと済ますべき事柄」なのであり、経験的には思い切って早めに取りかかれば案外楽に終えることだって多いのです。その後は真にやりたかったことに思う存分打ち込めます。
いわゆる成功者はその切り分けと見極めを確実に判断し実行した人々なのでしょう。

さあ諸君、何事も明日に延ばすことをやめて今日、たった今、片づけてしまおう。
・・・とお説教めいた話をするつもりはありません。

おとなになった人は多かれ少なかれ後悔すると思うんです。子どものころもっと真面目に勉強していれば、もう少しましな日々を送っていたろうに、と。
「別にぃ。おいらはいっしょけんめー勉強したから、現状に満足だよ」
そうですか。そういうご立派なかたはお引取りください。私とはレベルが違う。

どうして子どもってあんなに勉強嫌いなんだろ。同じことを今勉強しようとしても、日に10万個だか100万個だか死につつある脳細胞が受けつけない。あのころが一番多くのことを吸収できたはずなのに。
これはもう、親の責任です。子供の将来を慮るなら、机に縛りつけてでも勉強させるべきだった。

おーおー、自己の怠惰を親に転嫁しますか。

だって、子どもにはわからない、実感できないんですよ。今サボると将来後悔するということが。
理屈では納得してるんです。というか、さんざっぱらお小言くらったものでしょ。ちゃんと勉強しないとお父さんのようにうだつが上がらず苦労するよ。違った。しっかり勉強しないとお父さんみたいな立派な人になれないぞ。我が家がどっちに当てはまるかは、子どもの目にも一目瞭然。
実例を目の当たりにしても、やっぱり勉強しない。絶対しない。机に縛られたらなおのこと反発して収拾がつかなくなったでしょう。
もはやそう決まっていたとしか言いようがないような気がします。運命だ、と。

ま、そんなバカは私だけであり、たいていの人はバラ色の将来を思い描いて地道に勉強したに違いありません。

子ども時代の愚かな自分を反省させるには、今の悔恨を保持したまま過去に戻って殴りつけるしか方法がないのか。
てなことを夢想する人々がけっこういるらしく、タイムマシンやタイムスリップもののフィクションを見ると、恐竜狩りやキリストとの面会なんて壮大なものよりも、ちまちまと2、30年前に戻って結婚前の両親に会う、なんてのが好まれるようです。

『パンドラの火花(黒武洋)』が試みたのは、死刑囚を過去に送って自分自身を説得させ、起きたはずの犯罪を未然に防ぐことでした。凶悪犯罪をなかったことにして、歴史的な影響はだいじょうぶなの? そんな疑問をお持ちのかたは読んでみるよろし。

わずかの天才たちはおいといて、世の秀才と凡人の差はなんでしょう。基本的な能力に差はないと思うのです。ただし大きな違い・・・秀才には「努力する才能」があり、凡人にはそれがない。

確かに私には努力の才が不足しているようです。
うんざりするほど悔やんできた経験を活かし、遅まきながらも今悔い改めれば多少は取り返しがつくはずです。今の努力が明日、来月、来年あたりに小さな実を結ぶ可能性はあるのだから。
どうしてそれを実行しないのか・・・自分ながら理解できぬ。わかっていてやらないのはわかっていないことなのです。とわかっていても、結局無為と焦燥の毎日。

スンマセン。愚痴ばっか。

ところで、誰でも一生に一度は必ずしなければならない、極めつきイヤーなことがあります。ほとんどの人はそれを最大限先延ばしすべくあがきます。

遅かれ早かれ死ななきゃいけないんだから、今のうちに死んどこう。そんな理由で死ぬ人はあまりいないようです。
死のあとに楽がある保証はないからね。

死はどんな人生経験を経た人にも謎です。生きている限りは生きているほうが無難だ(当たり前)。
同じ生きるならよりよく生きるのが自分のためであろうに・・・。

どうもこのごろ愚にもつかない抽象的な考えをもてあそぶことが増えました。死期が近づいたせいでしょうか。
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投稿者:ルノ 23:09 | コメント(0) | トラバ(0) | 生老病死
2007年09月30日

したい時には親はなし

先日の記事で、幼いころ感じた死の恐怖に触れ、おとなになっても「死は最大級の恐怖」と述べました。
人は、生物は、ほぼ例外なく死を恐れます。死をもたらしそうなものを本能的に回避しようと努めます。
生物は生きているから生物であり、死んだら「生物」ではなくなって、存在意義を失うのです。

それにしても、死はほんとうに怖いことなのでしょうか。

幼少時の思い出をきっかけに、改めて「死」に思いを馳せてみても、「恐怖」が実感として湧いてこないのです。歳月は流れ、死はすぐそばまで来ているのに・・・。
もはや「ジタバタしたってしょうがないじゃん」て感じ。それは誰にでも平等に訪れるのだから。
死が避けられないからこそ今を大切に生きよう。などと人生訓の書は説くのでしょうが、別に気負うのでもヤケになるのでもなく、淡々と余生を過ごしましょう・・・ワハハ、これが悟りか。

そんなことよりも、もっと現実的で差し迫った問題があります。

親の死。

親が死ぬのは順当であるし、これまた致し方ないとは思うが、葬式などといった形式ばったものが大嫌いなんです。
墓は本人が用意してくれているし、式だの香典返しだのは一過性のものだからなんとか耐えるとして、もし死ぬまでに延々介護の問題が生じたら・・・悲惨です。介護はするほうもされるほうも地獄。想像だけで気が遠くなりそう。
先手を打って死にたくなっちゃうかも。親に葬式を出させるのは最大の親不孝らしいけど。

とまあ、埒もないことを夢想しておりましたら、昔ウェブで知り合った人からメッセージが届きました。
だいぶ前にサイトを畳んで消息不明だったので、ちょっと心配していました。ご本人はいちおう元気らしいけど、親御さんが亡くなったとの由。それだけがウェブから消えた理由ではないようですが、『HP作成に費やした膨大な時間があればもっと親孝行できたのではと、後悔の念で自虐的な日々を送っている』とか・・・。

他人事ではない気持ちになりました。極めつけの不孝人生を歩む立場として。

あえて他人事として言わせてもらえば、身近な人の死に直面すれば、まともな人間なら誰しも悔やむものです。
「ああすべきだった」「こうしてあげることもできたはず」「あんなことを言わなければよかった」云々。材料は無限に湧き出でます。
とりわけ相手が親だと、さんざん親不孝を重ねてきた記憶がずっしりのしかかってきます。
精一杯親孝行してきたように見える人々さえ、悔やまずにはいられないのが人情です。
人間はそうできているのであって、解決してくれるのは時の経過です。

手痛い経験から教訓を得て次の行動に反映させることは、人間だけでなく、狼にもプラナリアにもできます。
しかし教訓を伴わない、非生産的で後ろ向きな「後悔の念」はおそらく人間だけが持つのではないでしょうか。

その後悔はいったい誰のためのもの?
死んだ人は何の感情もないのだから、責めたりはしません。責め立てるのは自分です。自責が自己憐憫になり自己満足(こんなに悔やんでいる自分は善良な人間だと慰める)と入り混じって、自分の内部で堂々巡りをしている状況・・・辛辣に言えば、後悔は人のためでなく、自分の「気を済ませる」儀式なのでしょう。

そしてふと思う。
介護の苦労というものは、最後に親孝行をした気分にさせてくれる方便かもしれないな。

個人的にはそんな方便に振り回されるなんざまっぴらだ。
だから親には、元気で生きてポックリ逝くための健康情報をあれこれ説いているのだけど、ちっとも実行してくれません。

親不孝を(気分的に)正当化する手段ならほかにもあります。
自分が親不孝なのは親孝行する能力を授けなかった親のせいだ、とか。

あるいは子供のころ受けたひどい仕打ちを数え上げてみる。
親ってのは子供のココロなんか全然わかっちゃくれなくて、弱者である幼子を不条理な権力で押さえつけるんですよね(でも親不孝を後悔する年齢になると、わかっちゃくれなかった事情がわかっちゃう場合もある・・・それを我が子への理解に応用する人は少ないが)。

積極的に何かしたというのでなくとも、自分を産んだことそのものが悪だ、愚行だと思ったことってありませんか? 青春時代にはそんな怒りに駆られて、親を恨み、憎む人が少なからずいると思います。自分にさしたる才能がないことを嘆くゆえの一時的な感情かもしれません。中にはそれが高じて、こんなに恨まれちゃかなわん、自分は絶対にコドモなんか作らないぞと心に誓ったり・・・。

・・・こんなことをあらかじめうじうじと考え続けている私は、きっと後悔するでしょう。
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投稿者:ルノ 23:45 | コメント(2) | トラバ(0) | 生老病死