2007年09月11日

小さな哲学者

昔、死をひどく恐れた時期があります。たぶん幼稚園に通っていたころです。
毎晩そのことに思いを馳せ、胸苦しさに真夜中まで眠れぬときを過ごしました。

「死を恐れる」とは、むろん自分が死ぬことが怖かったのですが、どうもそれは入り口に過ぎなかったようです。
自分が死んだあとも世界は永遠に続いていくであろう。永遠とはどういうことなのだろう。私はその永遠なるものに耐えられるだろうか。えらく退屈で気が狂うんじゃなかろうか。

死ねばいなくなるんだから、「耐える」も「退屈」もないだろうに。
そのころの私は死んだあとも意識のようなものが残るというふうに受け止めていたようです。霊とか魂などとはまた別のイメージでした。実体のない「意識」だけが無限の闇をひたすら浮遊する、みたいな。底なし沼に引き込まれる感じでした。
つまり私が真に恐れたのは、止まらない時の流れに翻弄される「永遠の生」ではなかったのか。

年端もゆかぬ無知な子が、永遠だの無限だのといった抽象的な事柄について、夜も眠れないほど考え詰めるもんかね。そんな疑問が湧きますか?
実のところ私自身、正確に上記のような内容を考えたのか、もはや自信がありません。年月を経るうちに歪みが加わった可能性もあります。

それでも私は、人間誰にでもそういう時期があると確信します。

育児相談などで時たま見かけますよね。「急にうちの子が死にたくないと怯えて泣くようになりました。どう対処したらいいでしょう」という類の質問を。
きっとこのお母さん、自分にもそういう経験があったことを忘れちゃったんだ。

幼児が死を怖がるようになる直接のきっかけは、祖父母やペットなど身近な死が多いようです。本やテレビの中ではよく人が死ぬからさほど影響はないのですが、感受性の強い子どもは、時としておとなには信じがたいような些末事にショックを受けたりします。取り立てて関連事項が見えない場合もありましょう。
自分の死ではなく、親きょうだいが死んでひとり取り残されることを恐れるケースもあります。

単純に自分や家族の死による家庭の崩壊を恐れているだけなのでしょうか。
死を通して人生の意味を考え始めたという説は大げさですか?

以下、個人的推測です。
幼児期における死の恐怖は、自分というものの存在をはっきり認識し、自分と他者のかかわりや距離がわかってくるころの通過儀礼のようなものでしょう。
自分が生きて暮らしているという感覚は、果てしない希望に満ちています。日常が楽しく充実していればなおのこと。
そんなふうに自己の存在を貴重だと感じると、存在の対極にあって存在を終わらせる役割を担う「死」というものについて思い及ぶとき、想像を絶する理不尽さにおののくのです。こうやって懸命に生きているのに、必ず終わりが来るなんてひどい。それでも生きなければならないのか。

「天国へ行く」とか「お星様になる」などの説明はごまかしだと直感しています。自分の目で確認できないのみならず、人が死んだら泣いたり悲しんだりするものだと、すでにドラマなどで知っているし、何よりもおとな自身が天国を信じず、死を最大級の恐怖と位置づけているのだから、説得力なし。
幼い私は無理やり死を否定すべく「永遠の生」なるものを設定してしまい、自ら混乱を招いたようにも思えます。

子どもはそうした気持ちを説明するには、語彙も知識もあわれなほど貧弱です。曲りなりにも言い表せたとして、それを理解し、納得のいく解決策を提示してくれるおとななど、まずおりません。
内面では非常に深遠で根源的なことに近づき、人生の謎を解きたいと切望しながら、表面はただ「死ぬのはイヤだ」と泣くしかないのです。

幸か不幸か、それはほんの一過性の発作です。
私もひとりで悶々としたあげく速やかに脱却し、なんの憂いもなくほかの子どもたちと遊ぶようになりました。
人は死んだらどうなるのか、永遠とはなんなのか・・・問題は全然解決していないのに。
怖かった記憶は成長の過程でしばしばよみがえりましたが、何をあんなに怖がったんだろうと、他人事同然に関心が失せたのです。そうでなければ生きてゆけませんよね。

あるいはその感覚をいつまでも持ち続けた希少な人が、長じて哲学者だの宗教家だのになるのかもしれません。
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投稿者:ルノ 22:06 | コメント(2) | トラバ(0) | 生老病死