2016年05月31日

理に落ちず腑に落ちる

「腑に落ちる」という言い回し、今や違和感を持つ人などごく少数だと思います。
と書くからには、私はその少数派。

小説やエッセイ、新聞記事においても、「腑に落ちる」はしばしば目にします。「腑に落ちない」よりも数的に多い気がするほど。

「腑に落ちる」が間違っているかどうかはともかく、昔はそのように言わなかったのは確かです。

その根拠として、わが家の古い辞書の見出しには「腑に落ちない」しか載ってないことを挙げておきます。
「腑に落ちない」が「腑に落ちる」の単なる否定形であるならば、「腑に落ちる」を掲げておけば済むこと。そうでないのは、「腑に落ちる」が正規表現でないからです。

辞書がそうだから・・・では、いささか説得力に欠けましょう。
誰も疑問を抱かない以上、もはや新語としてじゅうぶん行き渡っていると見なしていいのではなかろうか。

そしたら、たまたま読んだ『かなり気がかりな日本語/野口恵子/2004年』という本の『「はやり言葉」考』という章に、『「腑に落ちる」は腑に落ちない居心地の悪さを覚える』という文章を見つけました。同じような疑問を持つ人はちゃんといたんですね。

語彙数と表現力の貧困ゆえ、自分の違和感を的確に言い表せない私と違って、日本語教師たる著者は、きっちり説明をつけています。

簡単に紹介しますと・・・。
食べたものは通常胃腸(臓腑)に収まるのが自然の姿であって、そうでないのは気持ちが悪い、つまり腑に落ちない。
「腑に落ちる」のが自然のなりゆき、大前提であるのに対し、「腑に落ちない」は特殊なケースを指す。
一方「納得できる」「合点がいく」「理解できる」などはそれぞれの否定形と対立関係にない。

世の中に、腑に落ちる事象などない、わざわざ言及するほどのことではない、ということなのです。

それで納得した私ですが、もやもやっとしたものが残りました。

つまるところ、理屈を説かれて「腑に落ちない」の成り立ちがわかっても、「腑に落ちる」がこれだけ世に氾濫する事態は説明がつかない。両者は別問題だということ。
私はそうなった理由を推測するのが好きなんです。

先月の記事で、『世間ではこういうとき「腑に落ちた」というようです』と書きました。こんな回りくどい書き方をせずとも、それを使わなければいいではないか。
ここで認めると、私はそのとき「腑に落ちた」と書きたいキブンになったのです。

私の辞書には、「腑に落ちない」の意味は「納得がいかない」くらいしかありません。
前述の本で引用されている福武国語辞典では「感覚的に認めがたいというニュアンスを含むことが多い」との説明が付加されています。

「納得がいかない」と「腑に落ちない」は言い換え可能ではないのです。

疑問点や気に入らないことについて、理にかなったていねいな説明を受け、最終的に、ああそうなのかとうなずくことができれば、それは「納得がいった」ということです。
理屈ではなく、諄々と諭されて、多少感覚的にではあるが、受け入れることにすれば、それも納得の範囲といえましょう。

それに対して、もともと疑いも嫌悪もなかった事柄(あるミュージシャンが誰かとセッションするみたいな)に関して、ひょんなことからへえーとうなずく発見があった、あるいは、パズルだとも思っていなかったのに、いきなりピースがはまってスッキリした(正解であるかどうかはさておき)とでもいいましょうか、そういう感覚を表すのに、「納得した」では大げさすぎます。

つまり、ほかに適当な言い回しがないことが、「腑に落ちる」を選んでしまう背景にあるようです。

もっとも、単に「納得がいった」と同じ意味で「腑に落ちた」を使っている例も多数あります。

現代日本人は、ソフトであいまいな表現を異常なまでに好むようになりました。
「納得」のように断定的でハードなイメージの熟語よりも、「腑」という一見生々しく不気味だけど、柔らかそうで、正確にはどこを指すのかはっきりしないところにふんわり落とすほうが、気分に合うのでしょう。
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投稿者:ルノ 19:13 | コメント(0) | イチャモン日本語
2013年12月31日

世の終わり

世界が終っても

そういう店名なのであって、固有名詞にツッコミ入れたってしょうがないのですが、「言葉の意味」について、いろいろと考えさせられる「短文」ではありませんか。

「世界が終る」とは、いったいどんな状態を指すのでしょう。
そもそも「世界」とは?

わが家の辞書で「世界」をひくと、3番めに「地球上のすべての国」と載っています。この場合はこれでしょうね。

たとえば小惑星だか巨大隕石だかが突進してきて、その衝撃で地球が粉々になっちゃえば、まずは確実に世界が終ったといえましょう。
生物は死に絶えて、店だって跡形もないはずです。それって「心配する」程度で済む事態か? というより、心配する人がひとりでも残っていたら、「終わった」とはいえないんじゃない?
もちろん「開いてないじゃないか、ウソツキ」となじる人もいそうにないぞ。

超強力なヒトキラーウイルスによるパンデミックで、瞬く間に人類のみ絶滅したら・・・これだって世界の終わりでしょう。「世界」という概念を作ったのは人間なのだから。

「店が開いている」とは、通常は「営業している」ことですが、単に、扉が開く/シャッターが上がるのだって「開く」といえます。
人がいなくても店舗が無事なら、開いている可能性は考えられます。

ところで「俺たちの店」から読み取れることもありますね。
経営者もしくは運営者が複数いて、うち最低ひとりは男性。もっとも昨今は一人称オレな女性もいるから、断言はできません。

単に「俺たちの店」とあるので、それがこの店、つまりこの看板を掲げている店ではないかもしれないという推定(こじつけ)も成り立ちます。
もしかしたら「俺たちの店」ってのは、アンドロメダかどっかにあるのかもしれません。だから世界が終っても開いている自信を持てるのだ、と。
そんなこと、今の人類には世界が終らずとも確かめるすべはありません。

ここであらためて気づいたのですが、この店名は、しいていえばふたつの文からなっています。それぞれ独立しているともみなせるのです。
つまり「俺たちの店」は「世界が終った後も開いている」とは書かれていません。ならば、あれこれ考えても意味がないのかな。

俺さんたちはきっと、来店したお客さんたちと、「世界の終わり」をネタに、何度、何百度も会話を交わしたことでしょう。

私もそこに加わってみたい気持ちがちらっとわかなくもないけど、実はいまだかつて「開いている」のを見たことがありません。何百度となく前を通っているのに。
日中しか出歩かないからだと思いますが、案外1度も開いたことがない店だったりして。
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投稿者:ルノ 09:25 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2013年09月30日

とんでもございます

「とんでもない」の丁寧形として「とんでもありません」「とんでもございません」は、すっかり市民権を得た感があります。
日本語にうるさい人は、それは文法ミスだ、「とんでもないことでございます」とおっしゃい、などとイチャモンつけます。「とんでものうございます」にすべきだという主張は、今のところ見聞したことがありませんが。

個人的な意見では、そのくらい許容したっていいんじゃないの。なんたって日本語には形容詞の丁寧形がない(も同然)という、致命的欠陥があって(難しゅうございます参照)、丁寧語ユーザーを困らせてるんですから。
ついでに、「すくございません」や「はしたございません」もOKにしたれや。そういう要望はないですねえ。

とはいえ、私自身は「とんでもございません」は使いとうございません。
「とんでもない」という形容詞は、強い否定や非難を表します。そして極端な言葉は、俗語っぽいというか、概して品がないのです。品がないから避けたいわけではなく、お上品の代表「ございません」とはしっくりこないんです。
たとえれば、ジーンズにハイヒールパンプスを合わせるようなもの。この取り合わせはずいぶん昔から一般的になってきて、もはや違和感を持つほうが少数派。でも一部の年配者は眉をひそめる。その程度の「しっくりこなさ」でしょうか。

下品ってのは、あくまでも私個人の感覚ですから、異論は承知しています。
が、言葉を使う上で、こういった個人的感覚は重視したいのです。

たとえば「生き様(いきざま)」という言い回しが嫌いだという人がいます。その理由について、ある人いわく「ざま」は「ざまあみろ」とか「ざまねえや」など、罵倒・嘲笑用語であり、いやしくも人間様の生きる姿を表すにはふさわしくない、と。
それはちょとこじつけでしょ。成り立ちから見れば、「生きざま」の「ざま」は「さま」が連濁になっただけであって、罵倒の意味合いはありません。「ようす」とか「態度」のことです。

などと擁護しつつ、実は私も「生きざま」は嫌いです。しち難しい理由などなく、イメージの悪い言葉だから。「ざま」が嫌いなのではなく「生き+ざま」という取り合わせが不快なのです。好みの問題と言ってしまえばそれまで。

「生きざま」が「死にざま」から派生した言葉であるのは間違いないでしょう。古い辞書には「死にざま」しか載っていないし。むろん辞書にないから新語だ誤用だと決めつけることはできません。「さま」はいろんな動詞とくっついて名詞を作れます。

この「死にざま」、語義上は感情を交えて使うものではないはずですが、「桜散る穏やかな朝、老衰のため眠るように息を引き取った」ようなケースには似つかわしくないと思いませんか。どちらかというと不名誉な、あるいは凄絶な死の場面に用いられることが多いようです。
だから「生きざま」も、平凡な人の無難な人生にはお呼びでない。かといって罵倒・嘲笑とも断じがたい。波瀾万丈、満身創痍、はたまた(間違った意味での)破天荒な生き方を、凡人が肯定的に描写するときに出番が来るのではないでしょうか。
それもこれも「ざま」のイメージに引きずられているせいかな。

閑話休題。
「とんでもございません」が見た目おかしくないのは、「で」や「も」が助詞っぽくて、連語の雰囲気を持つからでしょう。
辞書には「途でも無い」の転とあります。もともとは連語だったのです。途は道のことで、「途でも無い」は、道に外れたことなのですね。

「途でもない」とくると、「途方もない」が思い当たります。意味も似たようなものです。こちらは慣用語だから「途方もございません」は使えそうです。
「ろくでもない」「めっそうもない」も同様。「ろくでもない」を形容詞としている辞書もありますが。どっちにしても「ろくでもございません」はまず見かけません。「めっそうもございません」はわりと目にします(時代小説などでね)。

「とんでもございません」が多用される背景には、文法とは無関係に、日本民族の根深い体質があると、私はにらんでおります。

「とんでもない」には、前述したように、おおまかに否定と非難のふたつの意味があります。
そして「とんでもございません」を使うシチュエーションは、否定のほうです。会話の中で、相手の発言を打ち消すときなど。「ございません」がつくからには、相手は目上。

上司の言葉なんて通常は面と向かって否定せず、「さようごもっとも」と受け流しておくのが処世術ではありますが、そうとも言ってられないケースがあるのですよね。(相応以上に)ほめられたとか、(過度に)感謝されたとか、(たいそう)恐縮されたとか、(大げさに)卑下したとか・・・。
上の人がへりくだっているのに対して、さようごもっともとうなずくわけにはいかないではありませんか(たとえそうしたくても)。そもそも相手だって否定されるのを期待して言うことが多いものでしょう。

真情を押し隠した奥ゆかしさの応酬が人間関係をスムーズにするという、うっとうしい世情、そろそろ退縮させてもいいではないかと思うのです。海外ではあまり通用しないんですから。
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投稿者:ルノ 12:02 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語