2008年03月28日

転んでもただでは起きぬ

少し前「KY」をはじめとした省略語が話題になりました。
もともと日本人は省略が得意な民族で、漢字を省略してカタカナやひらがなを作ったり、会話を省略して以心伝心を発達させたりしてきました。だから別に若者の特権ではない、何を今さらって感じ。

省略するのはけっこうだが、ちょっと気になったのは「空気を読む」という行為。
それってどういうこと? おそらくは空気読めない人間である私は反発を感じます。

「アイツ、KYだ」なんて嘲る人間は、さぞや自分は空気読めてるつもりなんでしょうね。
そうやって人の顔色ばかりうかがい、人の気に入るような言動を選び、自分を押し殺して小心翼翼と生きているんでしょうね。
でないといじめられるんでしょうね。

しかし、そんなちまちました人間を大量生産していたんじゃ、我が国の未来は暗い。
だいたいろくすっぽ字(日本語)も読めずして、見えない空気を読もうなんざ百年早いぜ。

若者よ、空気など読むヒマがあったら、本を読め。
古今東西の名作文学を10年間に1,000冊ほど読破すれば、人間とはどんな状況でどんな感情を起こすものかわかってくるはず。社会に出るころには、空気どころか人の心を見透かす人間になれますって。
これは本を読み損なって悔やんでいる私の衷心からのアドバイスです。

とはいえ。
現実に空気を読めない人間に遭遇して、もし対処を誤ると、甚大なダメージをこうむることもあるそうです。私も知らないうちに加害者になっているかも。たらり;

それやこれやでひどいめに遭って落ち込んでいる人に贈ることばが、本日のタイトル。強引にこじつけてしまった。

よく耳にするのは「ただでは起きぬ」ですが、多くの辞書には「転んでも只は起きぬ」で載っています。「で」があるほうが意図は通じやすいので、強調の意味で入り込んだのかもしれません。

同義の言い回しに「倒れても土を掴む」があります。
ともに「どんなときにも何がしかの利益を得ようとする強欲さ」を表わしているそうですが、強欲とはいささか厳しいのではありませんか?
自分でこけたのか、悪意で突き飛ばされたのか、原因がどうであれ、転倒は転倒。転んじゃったのはしかたない、せめてそこからわずかでも得るものがあれば、痛い思いも多少は緩和されます。
「逆境にもめげない不屈の精神」として、現代では大いに称えたいものです。

我が座右の書『道は開ける』(デール・カーネギー)にも、『レモンしか手に入らなかったらレモネードを作れ』というくだりがあります。レモンは「いやなもの」のたとえです。

ちなみに「転んでもただでは起きない」は英語の“All's grist that comes to his mill”ということわざに相当するそうです。gristは「挽いた穀物」から「儲け口」の意。来るもの拒まず粉にして売るというようなことから発生したのでしょうか。まるでミートホープみたい。

省略語について蒸し返しますと、むろん英語圏には多数の省略語があります。中にはKYに近いような遊び語もけっこう見受けられたり。
省略は「隠語」になりやすいいんでしょうね。仲間うちだけで通じる言葉で優越感にひたる連中はどこの国にもいます。
興味をお持ちのかたはこのページもご参考に。

うちにある国語辞典は巻末30ページにわたって、アルファベット略語集が付属しています。知らない言葉ばかりです。こういった略語は日々増えているのです。泡沫的な若者語に媚を売るよりは、国際的に通じる省略語を日にひとつでも覚えたほうがなんぼか有意義ですよ。
投稿者:ルノ 23:11 | コメント(2) | トラバ(1) | イチャモン日本語
2008年01月21日

情けは誰のため

「情けは人の為ならず」を正反対の意味に捉える人が増えたと報道されてからずいぶん年月が流れました。当時日本語もろくに知らないと嘲笑された若者たちも中高年となり、「情けは人のためならずって言うからね」と偉ぶって、部下をビシバシ鍛えているのでしょうか。

「人のためならず」という文自体は否定形なので、「人のためにならない」と素直に解釈した人々の気持ちは理解できます。

改めて辞書を見ましたら『情けをかけるとその人のためになるだけでなく、巡り巡って自分にもいいことがある』とか『人に情けをかけておけば、必ずそのよい報いが自分に返ってくるものだ』などとあります。
つまり「情けをかけることは人のためにするのではなく、むしろ自分のためにするのだ」であり、「自分のため」云々は省略されているのです。

ここからいろんなことが読み取れると思いませんか?

まず、情けをかける行為は、人があまりやりたがらないこと、やった人の損になると思われることである。
ちなみに「情け」とは、「あわれみ」「思いやり」「同情」「恵み」「慈愛」などと説明されています。
しかし将来的には情けをかけた本人に果報が回ってくると説いて奨励しているわけだから、個人個人にはちょっとした負担でも、世間全体としては情けが充満していたほうがいろんな局面でメリットが大きいのでしょう。
苦労が報われる点で「苦あれば楽あり」の別バージョンとも言えます。

「苦あれば楽あり」はストレートでわかりやすいのに、なぜ「情けは人の為ならず」では「楽あり」に相当する部分が隠されているのでしょう。以心伝心を旨とする日本人は、しばしばいろんなことを省略するものですが。
わかりますよ。「苦」はひとりでもできるけど、「情け」は他人とのかかわりです。「人のためじゃなくて自分のためにやる」では、打算が見え見えですもんね。

きっと現代の若者たちは、このフレーズに潜む偽善の匂いを、青春の潔癖さでもって察知したのでしょう。だから敢えて潔く「ヘタに甘やかすとかえって相手を堕落させる」てな新解釈を取り入れた、と。

ま、これはうがちすぎだと自分でも思います。だいたい、世相が裏付けてくれません。

昨今の日本人はやたらとせっかちです。何事も直ちに結果が出るよう要求します。
いつになるかわからないけど、そのうちいいことがあるだろ・・・そんな悠長なことには耐えられません。当てにならない「情け」なんてものにかかずらってるヒマはないのでしょう。

とはいえ、せっかちであることは思いやりがないことを意味しません。両者は別問題です。

昔の人は情味があった、今の若者は損得勘定ばかりさとくて自分勝手だ、見返りも求めず他人に親切にするようなことが少ない。などと言う大人がいますが、ほんとうにそうでしょうか。老若男女を問わず、自分に優しく他者に冷たいのが普通の人であり、それは昔からちっとも変わっていないのです。
だからこんな成句が生まれたんじゃありませんか。
投稿者:ルノ 23:43 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2007年09月14日

清濁併せ呑む

「Tバックビキニの作り方」にリンクしているページにアクセス解析を入れてみると、「バックの作り方」や「布のバック」などで検索して訪れる人が毎日幾人もいました。
私に責任はないにしても、なんとなく申し訳ない気分。あなたが求めるバックは当サイトにはありませんよ。おきのどくさま。

少なからぬ人々がハンドバッグやショルダーバッグなどのバッグをバックと呼び、そう書くようです。
スーパーに「エコバック48円」というポップがあっても驚かないが、カバン屋さんで「この秋の新作バック」となると、いやはや。

同様にダブルベット、ビックイベントなどよく見かけます。ブルドックソースのマークは犬のブルドッグだそうで、人の名前さえデビットボウイと澄ましちゃうのを見ると、日本人は濁音を汚いものとして減らしたがっているのかと疑いたくなります。

むろんそうでないことは、アボガドやジャガード(Jacquard)やハンフリー・ボガードなどが示しているのであります。どっかでキャスチングボードというのを見たけど、これは単なる・・・。
言い易さを狙ってそうなったのでしょうか。いえいえ、アボガドはアボカドよりもっと舌をかみそう。

方言から推測すると、東北は濁りがちで九州は澄ませがちな傾向がありますが、外来語には影響しないようです。
まるきり法則がないわけではないでしょう。「聞こえるとおり」が基本、でしょうか。

英語でもkとg、dとt、sとzなどは同系列だし、発音も渾然としている点で、日本語と同様です。清濁の発音は行き来し、揺れることが多いのです。もちろん発音し易いように変化するのです。
ドレス丈が長いことを日本語でフルレングスとかいいますが、このlength、gだけどk音ぽくて、レンクスが正しい。レングスは言いにくいでしょ。もっとも、耳にした限りではgもkも聴き分ける余裕などないのでは? (レンスと聞こえる)

ジャンパースカートはまあ間違いですが、もともとが和製語だからイチャモンの対象ですらない。ドイツ語などではbをpと発音するケースもあるしね。

言葉は記号なのだから、外来語が本来の発音から離れた表記になっても、それでなじんでしまえば特に問題はありません。
記号であるがゆえに、本来の発音に近づけてレンクスと書いても通じないわけです。

バッグをバックと言ったり書いたりしても、これまで日常生活では問題なかったわけですが、インターネットが日常生活になってくると、コンピュータは言葉に厳密だからいくぶん支障が出てきます。「バックの作り方」で検索して出てきたページに、はたして「バッグ」に関する有益な情報が詰まっているでしょうか。

「アクセス解析顛末記」で、検索ワードは訪問者の要望を知る手がかりだと書きました。
その方針に沿って、今年やっと簡単なバッグの作り方ページをいくつかアップしたのですよ。でも仕上げに「バック」というワードをちりばめる気配りまでは不要だろうと軽んじていました。

が、本日実際に検索してみて、がぴょーん。
世の中には「バッグ」ではなく「バック」が正しいと思い込んでいる人のほうが多いらしいと気づきました。みんながそうだから、バッグ屋さんもバックでアピールせざるを得ないみたいです。

「バック」なんてどうせ少数派。というのは単なる思い込みだったんですねえ。またSEOの見直しを迫られそうです。
投稿者:ルノ 23:50 | コメント(6) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2007年02月28日

敬語無用論

日本語の乱れでしばしば指摘されるのが、敬語がなってないってこと。若者ばかりにあらず。年配者だってひどいもんです。

私は敬語が嫌いで、さっさと消滅すべきだと考えているので、敬語の区分を細かくしようという動きには反対です。ただでさえごっちゃの現状なのに。残すなら丁寧語だけでじゅうぶん。

ごっちゃになってきた原因のひとつは、やけに敬語重視に進む世の動きであるようです。「長ければ長いほど丁寧」「重ねれば重ねるほど丁寧」という誤解が「させていただく」「おっしゃられる」「お乗りになられる」などのほとんど意味不明な多重敬語を生んでいるのです。
(そうやって丁寧化が進む反面、「やつ(奴)」という一種の罵倒語が一般代名詞化して上品げな人にも使われるという風潮はなんなんでしょうねえ。)

敬語重視の傾向は人間軽視と表裏一体に見えます。不祥事を口先で糊塗する企業屋や政治屋に食傷し麻痺したゆえの感想かもしれぬが。
敬語はそれを使うことで敬意がないことを隠す効果があると読んだことがあります。まこと至言です。

敬語がなくなれば、言いたいことをストレートに表現でき、ごまかしがきかなくなります。
ほとんどの外国語は敬語なしで通用します。しかし敬意を払うくらいできます。敬語は安易な手段なのです。

いくら私が要らんと叫んでも、たぶん敬語がなくなる日は来ないでしょう。ならば使うしかないか。

自分では丁寧語・尊敬語・謙譲語の区別くらいつくと思っていたのですが、突き詰めるとかなり怪しくなります。
用法そのものが揺れ動き、変遷し続けているのが現状です。

たとえば「申す」・・・。これは謙譲語との認識でした。
これを尊敬語と誤る例は数知れず。時代劇などでそのように使われているせいもあるのでしょう。
「荘重体」を兼ねているのです。荘重体って何よ? 重々しさを出す表現なのだとか。
最近ではわかりやすいように丁寧語と見なされています。「あなたが申したことにつきましては・・・」は敬意がないだけであって、失礼ではないということです。

「花に水をあげる」「犬に餌をあげる」「キャベツを冷やしてあげる」などにも抵抗はありますが、尊敬語の丁寧語化の一環で、やむを得ないのでしょう。
「花に水を差し上げる」はあんまりですが、それに類した表現は見過ごされています。
廃品回収の車が「ご家庭でご不要になられました家電製品を回収いたします」とアナウンスしているのは耳障りです。不要品を尊敬してどうすんだ。

人形をお買い上げいただいたお客様から「ご到着されました」というメールが届きました。到着したのは人形です。モノなんだから「ご到着された」はおかしいですね。
でも・・・感激しました。
人形の到着を喜ぶ気持ちがあふれていて、ついそういう表現になったのではないでしょうか。こんなかたに可愛がってもらえれば人形も幸せだと、ありがたく思いました。

それはそれとして、敬語が不要という意見は捨てません。
敬語がなければ日本人はもっと上手にコミュニケーションができるようになるはずだと考えます。
投稿者:ルノ 22:57 | コメント(2) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2007年02月08日

やぼな十手は見せたくないが

綾辻行人・・・1、2番目ではないけど、好きです。
ほとんどの作品を読んでいます(エッセイ以外は)。お館ものの推理小説で名を上げましたが、ホラーも味わいがあります。
トリックは奇想をつく本格派、仰々しいまでに凝った設定、フェアプレイ精神・・・ますます脂が乗ってきたって感じです。

数字の十が詰まるとき、「じっ」ではなく「じゅっ」が正しい発音だと思っていました、子どものころ。五十歩百歩を「ごじゅっぽひゃっぽ」のように。
詰まるというのは促音便化って認識かな。基本が「じゅう」なんだから「じっ」より「じゅっ」のほうが自然じゃありませんか。それを「じっ」にしちゃうのは「じゅ」の発音ができない東京人の陰謀じゃないかと。

むろんそれは勘違いでして、十には「じゅう」のほか「じつ」という読み方があるだけの話です。

促音便というのは「ち」や「り」などイ音を詰めるのが普通で、「う」は対象外でしょう。「つ」や「く」は中間で「っ」になるケースがままありますが、「じゅう」と同列の「しゅう」や「にゅう」が詰まる例は思い当たらないし。

ただし、私の周りでは「じゅっぷん」とか「じゅっかいだて」みたいな発音もちゃんと通用していたような気がします。方言みたいなものかもしれません。

あ、それでね、綾辻行人の館シリーズに『十角館の殺人』というのがありまして、奥付には確か『じゅっかくかんのさつじん』とルビが振られていたのです。で、トッテモ親近感を持っちゃいました。

悲しいのは、当の『十角館の殺人』がどんなお話だったのか、さっぱり思い出せないこと。ひょっとして私、白髪痴呆?
投稿者:ルノ 21:50 | コメント(2) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2007年01月20日

始めは処女の如く

この続きは『終わりは脱兎の如し』・・・じゃなかったんです。

始めは処女の如く後は脱兎の如し(始如処女後如脱兎)であります。後(のち)が正しいんですねえ。
初めは生娘のように弱々しく振舞って敵を欺き、その後は逃げるウサギのように素早く行動して功を立てる計略、だそうな。処女が弱いものかどうかはこの際おいとくとしまして。

私も『終わり』だと思っていました。普通そう言いますでしょ。日本語で始めと終わりは対の言葉だし。『終わり』としている辞書もあるし。
そもそも『後』でも『終わり』でもたいした違いはなさそうですよね。

そうでしょうか。

原典は孫子。つまりこれは兵法の心得です。
うぶな小娘のふりをしてスケベおじさんにいっぱいご馳走してもらい、そろそろホテルにでもというムードになった途端、ばっくれて逃げ出すギャルの手管を説いたものではなかったんですよ。

いくら敵を欺いて油断させても、最後に脱兎のごとく逃げたのでは敗者の遁走に終わります。うさぎはか弱い動物だから、脱兎とはたとえがふさわしくないようにも思えます。弱い者が強い者に勝つ方法のつもりだった?
そりゃ追い詰められた兎が狼を噛むことだってありましょうが、『脱兎の如く』とは戦闘スピードのみを指しているのでしょう。力はまあ普通以上でなければ、やっぱり負けちゃいます。

とはいえ、首尾よく油断させれば最後に集中攻撃するだけで勝てるのでしょうか。
戦争はそんなにちょろくない。

『後』とはそういうことです。途中から脱兎になる必要があるのです。中盤以降はずっと脱兎の戦いが要求されます。慌てふためいた敵を蹴散らし追撃し、徹底的に攻め滅ぼさねばならぬ。

かくして『終わりは脱兎の如し』ではおぼつかないと納得したのですが・・・。

蛇足ながら、『始め』と『初め』の違いは、一般に前者が『事』、後者が『時』に関して使うと辞書にはあります。
投稿者:ルノ 21:46 | コメント(2) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2006年12月26日

犬から豚へ

突然ですが、『鼻を鳴らす』って、どんな行為でしょう?
鼻を使って音を出すのなら、ま、お世辞にもおひんがよろしいとは言えませんわね。

辞書には『甘えた声を出す』『ねだる』との解説があります。

「ねえん、あなたぁン、新しいコート買ってよン」と、鼻にかかった甘ったるい声ですりすりすることなのでしょうねえ。

しかるに・・・
小説などで『鼻を鳴らす』がその意味で使われているのを見かけた記憶が、どうもないのです。

たいていは『不服げな態度』『馬鹿にしたようす』を表しています。
それらは比較的新しい用法と思われます。

「辞書が絶対」とは言いませんけど、ひとつの慣用句がこれほどかけ離れた意味に変わってしまったのはどうしたことなんでしょう。
多数の用例を時系列に並べて説得力を持たせる・・・なんてのは国語学者さんにお任せします。だって今のとこ具体例をひとつも思い出せない。私の得意は直観と感性による独断的推理であります。

当初のモデルはたぶん犬でした。犬がくんくん鼻を動かしたり、くいーんと鳴いて餌をねだることから、人が甘える形容となったのでしょう。
でも人間が甘えるときには犬みたいな声はあんまり出しません。

感覚的に『鼻を鳴らす=甘える』がぴったりこない気がするのは、上述したように、人が鼻を鳴らすのはぶ〜とかズーとか、はしたない音だからです。

すると、おお、そういう音を出す動物がいましたね。
ブタです。

ブタの鳴き声こそ、『鼻を鳴らす』にふさわしい音ではないか。
当の豚さんたちはブーブーと甘えているつもりでも、人間がブーブー言うのは不満があるとき。それで『鼻を鳴らす=不平不満』となったのでしょう。もともとある『不平を鳴らす』という表現との混同も考慮できます。
『馬鹿にしたようす』に使うのは『鼻であしらう』『鼻先で笑う』を強めたのかもしれません。

豚が食用として飼われ始めたのは明治時代以降です。
昔の日本人に豚はなじみのない動物でした。『鼻を鳴らす=ブーブー』という連想が働く余地もなく・・・。

『鼻を鳴らす』の意味が変化したのは、わが国の食糧事情のせいだったのです。
投稿者:ルノ 22:21 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2006年12月13日

稼ぐに追いつく貧乏なし

どのブログでも、他者からの介入(トラックバックやコメントのことです)に対して、禁止語句などのフィルタが設けられています。

ここでもトラックバックの禁止ワードに『稼ぐ』『儲ける』『アフィリエイト』その他もろもろを設定しております。
『!!』や『★』なども該当語だったのですが、TBとコメントの禁止ワードが共通だと知り、一部は解除しました。ま、コメントはほとんど来ないから大丈夫でしょうが、もし悪気なくして拒絶に遭ったなら、ちょっとでも怪しげな言葉は除いてくださいませ。

自身も広告を貼っておきながらそんな言葉を排除しなければならないとは、むなしくも嘆かわしい事態です。

そもそも『稼ぐ』とは良いことなのです。

『稼ぐに追いつく貧乏無し』といいますよね。
そりゃ稼いでさえいれば貧乏とは無縁でしょ。
いえいえ、違いますよ。この成句の意味は『常に精を出して働いていれば貧乏に苦しむことはない』です。

『稼ぐ』の第一の意味は精を出して働くです。
出稼ぎ、共稼ぎなどの『稼ぎ』は働くことです。『♪ある日せっせと野良稼ぎ〜』なんてのもそうですね。

働けばたいてい収入があるから、『働いてお金を得る』と語義が広がったようです。
お金だけでなく、点数や星や時間なども稼げます。上役にゴマをすって点を稼いだり、姑息な(一時しのぎの)対応で時間を稼いだり・・・あまり感心しないことにも使われるようになりました。『荒稼ぎ』とは強盗などを指すこともあります。

現代において、とりわけネット上で、『稼ぐ』という言葉は、「初心者が」「アフィリエイトで」「楽して」「寝ながら」などと組み合わされて活躍し、『精を出して働く』ことなどどこかへ吹き飛んでしまいました。

現実には無知な素人が寝ていてラクラク稼げるはずはありません。真に受けると高い授業料となりますぞ。

日本人は伝統的に、額に汗して働くことを尊んできましたが、稼ぐに追いつく貧乏なしと信じてせっせと働いた庶民が、果たしてどれほど報われてきたのでしょう?
働けど働けど楽にならない、稼いでも稼いでも貧乏に追いつかれるのが人生の真実なのです。
投稿者:ルノ 22:30 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2006年11月16日

初老にして惑わず

晩秋。ああ初老。初老とは40歳の別称(異称)です。
別称であるからには、漠然と「40歳くらい」を形容するのではなく、厳密に「40歳」という数詞の言い換え語でした。「20歳」を廿(はたち)と呼ぶのと同様です。
40歳(数え年で?)を迎えた日から初老であり、41歳になれば初老から離れるということです。

むろん言葉の意味が変遷していくのは世の常。
寿命80有余年の昨今、40歳で「老」とは実状から甚だしく逸している。という共通認識のもと、初老年齢は伸びる一方です。

30年くらい前の国語辞典には『現在では50歳前後を指す』とあります。
十数年前の辞書では『老年期に入るころ』と曖昧な記述。
21世紀の今、50歳の人を初老呼ばわりした日にゃ、口も利いてもらえないでしょう。
最近の小説などから窺うに、60歳を過ぎたあたりが初老と見なされているようです。

昔は平均寿命が短かっただけでなく、栄養状態も悪くて老けるのが早く、40歳まで生き延びれば老人の仲間入りをする準備が必要でした。

現代の人類は(特に先進国では)いつまでも若々しくて長生きするものの、精神年齢の発達までもが抑制されているようです。
40歳は「不惑」という呼称も持ちますが、40過ぎての引きこもりやすねかじりも珍しくなく、無事就職・結婚しても虐待やセクハラに走り、出世して名を上げたかと思えば軽薄な言動が元で失脚したり逮捕されたり、惑いっぱなしが現実です。
「人生50年」時代に戻ってみると、案外充実した一生を送る人が増えるかもしれません。
投稿者:ルノ 18:52 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2006年10月23日

先勝・大安・友引

日本シリーズがたけなわです。
2回終わっただけで「たけなわ」という表現は気が早くないか? この勝負は先に4勝したほうが日本一になるので、最短の4回で決まるなら、2回が中間というケースもありえます。そんなふうな一方的展開ではあまり盛り上がらず、たけなわかどうか不明なうちに終わっちゃうかな。

先に4勝? 後に4勝しても逆転はムリ?
後に4勝は不可能ですよ。片方が4勝したら以降の試合は打ち切られるんだから。

ならば「先に4勝すれば日本一」ではなく「4勝すれば日本一」と言えば済むと思うが。

「先に4勝」は取り立てて「違和感を感じる」ほどではありませんね。
「後の後悔」「急いで急行する」などと違って、見た目の重複がないからでしょうか。

これは重複表現ではなく、慣習的説明過多です。「そう言ったほうが呑み込みやすい」という程度のものです。実はこうした過剰説明を完全に排除すると、文章はまことに味気ないものとなってしまう、のみならず誤解を招くおそれが無きにしも非ずなのです。
日本ではしつこいくらい懇切丁寧に説明しないと(いや、したとしても)わかってもらえない・・・ような風潮がありますし。

ところで日本シリーズは日本一を決めるゲームでありますが、負けた側は日本二(第2位)ということになるのでしょうか。そういうわけでもないようです。スポーツ無知な私にはよくわからん。
投稿者:ルノ 21:22 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語