2017年02月27日

よけいな下世話

「下世話」ってことば、小説でもエッセイでもよく見かけますし、本のタイトルにした人もいるとか。
この意味や使い方を知っている日本人って、今どき存在するのでしょうか。

日本人?

怪しい日本語研究室』(イアン・アーシー著/2001年)の中に、こういう文がありました。

「コンセプト」(下世話に言う「考え方」というやつ)


さすがガイジンさん。正しい用法です。

と、日本語を書いて生計を立てているらしいプロを、日本語歴が長いとはいえ一素人である私がほめるのは失礼かも。
失礼ついでにイチャモンつけさせてもらいますと、「考え方」という複合語が「下世話」であるというのは、いささか疑問ですな。

そうそう、「考え方」って、別に下世話な言葉じゃないわ。下品でも下劣でもないし〜。とかつぶやいたアナタ、それ違います。

私の認識では、下世話というものは、もっと長い、ひとまとまりの形式を持っています。
その代表は、「いろはガルタ」です。「犬も歩けば棒に当たる」「論より証拠」「花より団子」など。
また、ことわざや格言なども下世話になり得ます。

つまり下世話は「話」の一種。形容詞ではなく名詞です。「下世話」に「な」がくっついた時点で、すでに誤用なのです。

そりゃあ昨今は、名詞や副詞、動詞のみならず、文節にまで「な」をつけて形容詞化してしまう傾向があります。たいていは冗談っぽい使い方とわかっているようです。私もしょっちゅうやってます。
わざとそうするのと、知らずにするのとでは大違いでしょ。

この「イチャモン」カテゴリでは、世に広まる乱れ日本語を糾弾するのではなく、なぜそうなったのかを私なりに推理するのが趣旨です。
誤用の理由として多いのは、「なんとなく字面から判断」「ほかに適切な言葉がない」「過去の文例にどっちとも受け取れるあいまいさがある」「そのほうがわかりやすい」などでしょうか。
「ら抜き」の背景には、可能専用(受け身との混同防止)という、わりと納得のいく理由があります。もっとも、「れる」「られる」には、ほかに尊敬、自発の意味だってあるんですけどね。「自発」がどういう感情なのか、理解できない若者は多いようです。

で、下世話がこうなっちゃったのは、おそらくここ2、30年のこと。
理由は「なんとなく字面から」「適切な言葉がない」が大きいみたいです。下品、下劣、低俗などは、相手の気分を損ねかねない、下世話ならぼかしたイメージだしぃ・・・ってことで、辞書も引かずに書いているうちにすっかり市民権を得てしまった。

もはや下世話という形容詞が新語として定着していると思われる状況なので、今さら私がわが家の古い辞書を振りかざして、ホントはこうこうなのよと説いたところで、「よけいなお世話」と一蹴されそう。

しかしながら、誤用がのさばる現状って、一部の人々には、やりにくさがあるのです。

文化庁国語課の勘違いしやすい日本語』によれば、過半数が勘違いしている言葉や言い回しに「姑息」「檄を飛ばす」「役不足」「割愛」「破天荒」「確信犯」「失笑」「憮然」などがあります。

これらを「正しく」使うと、誤解されたり、正反対の意味に取られたり、日本語に疎いと嘲笑されたりしかねない。良くても、言いたいことが正確に伝わらないおそれがあります。だからそういう言葉は使うこと自体極力避けなければ。つまり、言葉を知っているゆえに語彙が不足してしまうという事態になるのです。
そこまで迎合せずとも・・・とは思いますが、言葉を使うのはコミュニケーションのためですからね。

などと書くと、いかにも私が日本語の知識が豊富だと自慢しているように見えますね。
実のところ自信はあんまりない。このブログでもおかしな語法がたんまりありそう。一時的な勘違いや単なる変換ミスであれば、読み返せば気づくでしょうが、無知や思い違いによる記載ミスは、何度読んでも、絶対に気づきません。国語力堪能な人が見ればきっと失笑モノでしょう。(そういえば別のブログで「敷居が高い」を誤用したのを何年も放置しています。)

そのための保険(?)として、怪しげな言い回しを混ぜ込んだりするのです。前述の安易な形容詞化をはじめとして、名詞化(転んでもただ起きとか)、動詞化(勘違う?)、進行形?(突っ走りング)とか。
したらば、ほんとうに間違っている箇所でも、わざとしてるんだろうなと思ってくれるんじゃないかと・・・ちょっと甘いか。
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投稿者:ルノ 17:18 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2016年05月31日

理に落ちず腑に落ちる

「腑に落ちる」という言い回し、今や違和感を持つ人などごく少数だと思います。
と書くからには、私はその少数派。

小説やエッセイ、新聞記事においても、「腑に落ちる」はしばしば目にします。「腑に落ちない」よりも数的に多い気がするほど。

「腑に落ちる」が間違っているかどうかはともかく、昔はそのように言わなかったのは確かです。

その根拠として、わが家の古い辞書の見出しには「腑に落ちない」しか載ってないことを挙げておきます。
「腑に落ちない」が「腑に落ちる」の単なる否定形であるならば、「腑に落ちる」を掲げておけば済むこと。そうでないのは、「腑に落ちる」が正規表現でないからです。

辞書がそうだから・・・では、いささか説得力に欠けましょう。
誰も疑問を抱かない以上、もはや新語としてじゅうぶん行き渡っていると見なしていいのではなかろうか。

そしたら、たまたま読んだ『かなり気がかりな日本語/野口恵子/2004年』という本の『「はやり言葉」考』という章に、『「腑に落ちる」は腑に落ちない居心地の悪さを覚える』という文章を見つけました。同じような疑問を持つ人はちゃんといたんですね。

語彙数と表現力の貧困ゆえ、自分の違和感を的確に言い表せない私と違って、日本語教師たる著者は、きっちり説明をつけています。

簡単に紹介しますと・・・。
食べたものは通常胃腸(臓腑)に収まるのが自然の姿であって、そうでないのは気持ちが悪い、つまり腑に落ちない。
「腑に落ちる」のが自然のなりゆき、大前提であるのに対し、「腑に落ちない」は特殊なケースを指す。
一方「納得できる」「合点がいく」「理解できる」などはそれぞれの否定形と対立関係にない。

世の中に、腑に落ちる事象などない、わざわざ言及するほどのことではない、ということなのです。

それで納得した私ですが、もやもやっとしたものが残りました。

つまるところ、理屈を説かれて「腑に落ちない」の成り立ちがわかっても、「腑に落ちる」がこれだけ世に氾濫する事態は説明がつかない。両者は別問題だということ。
私はそうなった理由を推測するのが好きなんです。

先月の記事で、『世間ではこういうとき「腑に落ちた」というようです』と書きました。こんな回りくどい書き方をせずとも、それを使わなければいいではないか。
ここで認めると、私はそのとき「腑に落ちた」と書きたいキブンになったのです。

私の辞書には、「腑に落ちない」の意味は「納得がいかない」くらいしかありません。
前述の本で引用されている福武国語辞典では「感覚的に認めがたいというニュアンスを含むことが多い」との説明が付加されています。

「納得がいかない」と「腑に落ちない」は言い換え可能ではないのです。

疑問点や気に入らないことについて、理にかなったていねいな説明を受け、最終的に、ああそうなのかとうなずくことができれば、それは「納得がいった」ということです。
理屈ではなく、諄々と諭されて、多少感覚的にではあるが、受け入れることにすれば、それも納得の範囲といえましょう。

それに対して、もともと疑いも嫌悪もなかった事柄(あるミュージシャンが誰かとセッションするみたいな)に関して、ひょんなことからへえーとうなずく発見があった、あるいは、パズルだとも思っていなかったのに、いきなりピースがはまってスッキリした(正解であるかどうかはさておき)とでもいいましょうか、そういう感覚を表すのに、「納得した」では大げさすぎます。

つまり、ほかに適当な言い回しがないことが、「腑に落ちる」を選んでしまう背景にあるようです。

もっとも、単に「納得がいった」と同じ意味で「腑に落ちた」を使っている例も多数あります。

現代日本人は、ソフトであいまいな表現を異常なまでに好むようになりました。
「納得」のように断定的でハードなイメージの熟語よりも、「腑」という一見生々しく不気味だけど、柔らかそうで、正確にはどこを指すのかはっきりしないところにふんわり落とすほうが、気分に合うのでしょう。
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投稿者:ルノ 19:13 | コメント(0) | イチャモン日本語
2013年12月31日

世の終わり

世界が終っても

そういう店名なのであって、固有名詞にツッコミ入れたってしょうがないのですが、「言葉の意味」について、いろいろと考えさせられる「短文」ではありませんか。

「世界が終る」とは、いったいどんな状態を指すのでしょう。
そもそも「世界」とは?

わが家の辞書で「世界」をひくと、3番めに「地球上のすべての国」と載っています。この場合はこれでしょうね。

たとえば小惑星だか巨大隕石だかが突進してきて、その衝撃で地球が粉々になっちゃえば、まずは確実に世界が終ったといえましょう。
生物は死に絶えて、店だって跡形もないはずです。それって「心配する」程度で済む事態か? というより、心配する人がひとりでも残っていたら、「終わった」とはいえないんじゃない?
もちろん「開いてないじゃないか、ウソツキ」となじる人もいそうにないぞ。

超強力なヒトキラーウイルスによるパンデミックで、瞬く間に人類のみ絶滅したら・・・これだって世界の終わりでしょう。「世界」という概念を作ったのは人間なのだから。

「店が開いている」とは、通常は「営業している」ことですが、単に、扉が開く/シャッターが上がるのだって「開く」といえます。
人がいなくても店舗が無事なら、開いている可能性は考えられます。

ところで「俺たちの店」から読み取れることもありますね。
経営者もしくは運営者が複数いて、うち最低ひとりは男性。もっとも昨今は一人称オレな女性もいるから、断言はできません。

単に「俺たちの店」とあるので、それがこの店、つまりこの看板を掲げている店ではないかもしれないという推定(こじつけ)も成り立ちます。
もしかしたら「俺たちの店」ってのは、アンドロメダかどっかにあるのかもしれません。だから世界が終っても開いている自信を持てるのだ、と。
そんなこと、今の人類には世界が終らずとも確かめるすべはありません。

ここであらためて気づいたのですが、この店名は、しいていえばふたつの文からなっています。それぞれ独立しているともみなせるのです。
つまり「俺たちの店」は「世界が終った後も開いている」とは書かれていません。ならば、あれこれ考えても意味がないのかな。

俺さんたちはきっと、来店したお客さんたちと、「世界の終わり」をネタに、何度、何百度も会話を交わしたことでしょう。

私もそこに加わってみたい気持ちがちらっとわかなくもないけど、実はいまだかつて「開いている」のを見たことがありません。何百度となく前を通っているのに。
日中しか出歩かないからだと思いますが、案外1度も開いたことがない店だったりして。
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投稿者:ルノ 09:25 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語