2013年09月30日

とんでもございます

「とんでもない」の丁寧形として「とんでもありません」「とんでもございません」は、すっかり市民権を得た感があります。
日本語にうるさい人は、それは文法ミスだ、「とんでもないことでございます」とおっしゃい、などとイチャモンつけます。「とんでものうございます」にすべきだという主張は、今のところ見聞したことがありませんが。

個人的な意見では、そのくらい許容したっていいんじゃないの。なんたって日本語には形容詞の丁寧形がない(も同然)という、致命的欠陥があって(難しゅうございます参照)、丁寧語ユーザーを困らせてるんですから。
ついでに、「すくございません」や「はしたございません」もOKにしたれや。そういう要望はないですねえ。

とはいえ、私自身は「とんでもございません」は使いとうございません。
「とんでもない」という形容詞は、強い否定や非難を表します。そして極端な言葉は、俗語っぽいというか、概して品がないのです。品がないから避けたいわけではなく、お上品の代表「ございません」とはしっくりこないんです。
たとえれば、ジーンズにハイヒールパンプスを合わせるようなもの。この取り合わせはずいぶん昔から一般的になってきて、もはや違和感を持つほうが少数派。でも一部の年配者は眉をひそめる。その程度の「しっくりこなさ」でしょうか。

下品ってのは、あくまでも私個人の感覚ですから、異論は承知しています。
が、言葉を使う上で、こういった個人的感覚は重視したいのです。

たとえば「生き様(いきざま)」という言い回しが嫌いだという人がいます。その理由について、ある人いわく「ざま」は「ざまあみろ」とか「ざまねえや」など、罵倒・嘲笑用語であり、いやしくも人間様の生きる姿を表すにはふさわしくない、と。
それはちょとこじつけでしょ。成り立ちから見れば、「生きざま」の「ざま」は「さま」が連濁になっただけであって、罵倒の意味合いはありません。「ようす」とか「態度」のことです。

などと擁護しつつ、実は私も「生きざま」は嫌いです。しち難しい理由などなく、イメージの悪い言葉だから。「ざま」が嫌いなのではなく「生き+ざま」という取り合わせが不快なのです。好みの問題と言ってしまえばそれまで。

「生きざま」が「死にざま」から派生した言葉であるのは間違いないでしょう。古い辞書には「死にざま」しか載っていないし。むろん辞書にないから新語だ誤用だと決めつけることはできません。「さま」はいろんな動詞とくっついて名詞を作れます。

この「死にざま」、語義上は感情を交えて使うものではないはずですが、「桜散る穏やかな朝、老衰のため眠るように息を引き取った」ようなケースには似つかわしくないと思いませんか。どちらかというと不名誉な、あるいは凄絶な死の場面に用いられることが多いようです。
だから「生きざま」も、平凡な人の無難な人生にはお呼びでない。かといって罵倒・嘲笑とも断じがたい。波瀾万丈、満身創痍、はたまた(間違った意味での)破天荒な生き方を、凡人が肯定的に描写するときに出番が来るのではないでしょうか。
それもこれも「ざま」のイメージに引きずられているせいかな。

閑話休題。
「とんでもございません」が見た目おかしくないのは、「で」や「も」が助詞っぽくて、連語の雰囲気を持つからでしょう。
辞書には「途でも無い」の転とあります。もともとは連語だったのです。途は道のことで、「途でも無い」は、道に外れたことなのですね。

「途でもない」とくると、「途方もない」が思い当たります。意味も似たようなものです。こちらは慣用語だから「途方もございません」は使えそうです。
「ろくでもない」「めっそうもない」も同様。「ろくでもない」を形容詞としている辞書もありますが。どっちにしても「ろくでもございません」はまず見かけません。「めっそうもございません」はわりと目にします(時代小説などでね)。

「とんでもございません」が多用される背景には、文法とは無関係に、日本民族の根深い体質があると、私はにらんでおります。

「とんでもない」には、前述したように、おおまかに否定と非難のふたつの意味があります。
そして「とんでもございません」を使うシチュエーションは、否定のほうです。会話の中で、相手の発言を打ち消すときなど。「ございません」がつくからには、相手は目上。

上司の言葉なんて通常は面と向かって否定せず、「さようごもっとも」と受け流しておくのが処世術ではありますが、そうとも言ってられないケースがあるのですよね。(相応以上に)ほめられたとか、(過度に)感謝されたとか、(たいそう)恐縮されたとか、(大げさに)卑下したとか・・・。
上の人がへりくだっているのに対して、さようごもっともとうなずくわけにはいかないではありませんか(たとえそうしたくても)。そもそも相手だって否定されるのを期待して言うことが多いものでしょう。

真情を押し隠した奥ゆかしさの応酬が人間関係をスムーズにするという、うっとうしい世情、そろそろ退縮させてもいいではないかと思うのです。海外ではあまり通用しないんですから。
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投稿者:ルノ 12:02 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2012年07月31日

鱒之助殿

食品成分表を愛読している人は、そんなに多くはないと思います。持っている人が見るとしても、熱量やビタミン、食物繊維などを調べる程度でしょう。

実はこれ、パラパラ見ていると、けっこうおもしろい発見があったりするのですよ。

柑橘類の皮の内側の白いわたは「アルベド」、実の詰まっている袋は「じょうのう膜」という名称との知識もここで得ました。こういった廃棄部分の名称って、意外に知らないものですよね。知ってたって何の役にも立たないでしょうが。
ちなみに、じょうのう膜に包まれたつぶつぶの実の集合は「砂じょう」です。

生のさつまいもやじゃがいもの皮をむくと、むいた皮は「表層」ですが、蒸したりゆでたりして皮をむけば「表皮」になっちゃうんです。生だと中身がついてくるのは避けられないけど、ゆでるとつるっと皮だけむけちゃうから。焼き芋は中身もくっついてはがれるから、やっぱり「表層」です。私はさつまいもは皮ごと食べちゃいます。
芋の「中身」をなんと呼ぶのかは知りません。
芋全体は、さつまいもだと「塊根」、じゃがいもは「塊茎」、里芋は「球茎」です。ひとくくりに「芋」といっても、種類(科)が違うので、根がふくらんだり、地下茎が肥大したりするのですが、里芋は単に丸いから、みたいです。

りんごはさつまいもと同じく皮だけむくのは無理です。じゃあ「表層」かといえば、「果皮」となっています。
事典によれば、りんごの実は「偽果」というもので、真果であるたとえば柿の皮に相当する部分は、実の中の果芯の外側の突っ張ったような(?)部分であるらしい。りんごでは芯が本物の果実ってわけ。で、普段「りんごの皮」と呼んでいる部分がなんであるかはよくわかりません。結局「表層」という言葉が便利だと思うんですけどね。
りんごを偽の果実とはひどいけど、単に分類上の名称です。子房だけがふくらんだものが「真果」、ほかの部分が含まれれば「偽果」と分けているそうです。りんごの食べる部分は、花柄(おへそからちょこんと飛び出ている棒)の一部なのです。

パイナップルのあのデコボコ皮はなんだろうと見たら、「はく皮」となっていました。どういう漢字を当てるのか不明です。検索してまで知りたいわけでもないので放置。「剥」は不自然だし、金箔の「箔」あたりかな。

私たちは、桃の種もアボカドの種も「タネ」と呼んでいますが、桃や杏、梅などは「核」というのが正しいようです。種の中にさらに何かがあるのが「核」ってことでしょうか。じゃあさくらんぼも核じゃないかと言いたいが、これは「種子」。
厳密なようでいて、統一性があるとも見えません。

ブロッコリーの食用部分は「花序」とあります。花序とは花のつき方の種類じゃなかったかしらと調べたら、「花の集合」という意味もあるらしい。菜の花も蕾を食べますが、こちらは「花蕾」となっていました。ボリュームの差が影響するのでしょうか。
ブロッコリーを収穫すると脇からたくさんの蕾が出てきます。収穫せずに放置すると、びゃんびゃん伸びて、黄色い菜の花が咲きます。その豪華さはアブラナの菜の花など及びません。あれだけびっしりつぼみをつけるブロッコリーは生命力旺盛なのですね。アンチエイジングのトップバッターとして注目されているのもそのへんに理由が・・・?
菜の花は開いてしまうとあまりおいしくないし、ブロッコリーも未熟であればあるほど、パワーが強い(抗酸化物質が多い)そうです。

食品自体の名称も、私が知らないものがずいぶんあります。
ときたま水菜を買うのですが、なぜか表に見当たりません。「みずかけな」なんて得体の知れないものを載せておきながら、水菜のようなポピュラー野菜を落とすとはあんまりだーと怒ったら、実は水菜とは京菜の別称なのでした。みぶな(壬生菜)のことも水菜というらしいから、混乱を避けるためかと思ったけど、壬生菜はやや特殊だから載っていません。

赤魚を探したら「アラスカめぬけ」という名で出ていたし(たまーに食べるのは国産だと思ってたけど)、普通の鮭(塩ジャケなどになるヤツ)は「しろさけ(白鮭?)」が本名らしい。そんな呼び方誰もしないでしょ。食べ物の名前って、土地によっても違うし、魚は年齢でも変わるから、なかなか奥深いものです。
で、「ますのすけ」とはキングサーモンのことでした。たぶん食べたことはありません。
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投稿者:ルノ 15:25 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語
2011年02月27日

難しゅうございます

大盛況らしいツイッター、私はいまだに見たこともやったこともありません。ブログなど抱えているだけで精一杯なのに、これ以上手を出す余裕などないに決まってます。
この「余裕がない」はあいまいさが便利で、弁解に当たってよく使います。内心では「精神的な余裕」を指していて、要はやる気がないってことだけど、相手は「時間がない=忙しい」と受け止めてくれるだろうと期待してるんだよね(このへん、個人的つぶやき)。

ツイッターは「短文のつぶやき」って形だそうです。一般に「つぶやき」は独り言などに用いられ、他人に聞かせるものではなかったはず。
他人に読ませるものではなかった日記が、ウェブで公開を前提としたとたん発展・増殖していったのと同じような経過をたどっているのでしょう。

いちおう「つぶやき」という建前に気楽さがありそうですね。

普通、人は「ですます体」でつぶやいたりはしません。タラちゃんじゃないんだし。
しかしながら、半数以上のツイッター利用者がそれなりの文体を使っているだろうと推測します。ブログよりはくだけているとしても、公開するものである以上、あまりにぶっきらぼうだと、「このヒト、何様?」とか感じる人が出てきてやりにくいからです。

敬語が嫌いな私も、丁寧語はまあまあ便利なものだと思っています。ちょっとした防護服のようなもの。

丁寧語は聞き手・読み手に対して敬意をあらわす(または距離を置く)ものです。その基本が「ですます体」ということでしょうか。文末を「です」や「ます」で終える形式。「だ」「である」を「です」や「ます」に変えれば、とりあえず丁寧になるから、簡単といえば簡単です。もっと丁寧にするときは「ございます」となります。

その「です」はどんな語にも無条件でつけることができるかというと、むろんブンポーにのっとる必要があります。

たとえば、「きれいですね」も「美しいですね」も、日常の話し言葉では特に違和感なく言い聞きしていますが、この両者、決定的に違うのです。
「きれい」は形容動詞、「美しい」は形容詞です。形容動詞には「です」をつけることが可能ですが、形容詞にはつきません。「美しいです」は文法的に間違っているのです。

じゃあ、なんと言えばいいんだ?

「美しゅうございます」もしくは「美しゅう存じます」が正解。ひえっ。今どきそんな気取った言葉遣いする人なんかいるかよ。

形容詞に関しては、「美しい」からいきなり死語に近い「美しゅうございます」になって、中間がないという、たいそう不自由な空白を生じているのです。これは日本語の欠陥といえます。
尊敬語では「食う」→「食べる」→「召し上がる」→「お召し上がりになる」など、敬意に応じて段階があるのに(この上の「お召し上がりになられる」はNGだす)。

しいて「です」をつけるなら、「美しいのです」となりますが、ちょっと説明的というか、ニュアンスを考えると常に置き換え可能とは限りません。

文法的に間違いとはいっても、文章的に間違いってわけではありません。すでに広く使われていて、『文部省追認形』として認められています。「行きたいです」などはまだ非推奨のようですが。
「ら抜き」に嫌悪感を示す堅物でも「形容詞+です」は普通に使うことが多いようです。

そんなふうに口語ではなんとも感じませんが、手紙やメールなど書き言葉にすると、どうも稚拙な印象を与えます(そう感じる人は減ってきているとは思いますが)。「美しいと思います」など回りくどい表現にしたり、名詞化して「美しさが際立ちます」とかに変えたりで対処する人もいるでしょう。

言葉はめまぐるしい勢いで変化しつつあります。文法的些末事をゴチャゴチャ言う人もそのうちいなくなると願いたいものです。
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投稿者:ルノ 22:51 | コメント(0) | トラバ(0) | イチャモン日本語