個人的には正月なんて全然めでたいものではありませんが、長い間に定着した社会のしきたりにイチャモンをつける気などさらさらなく、現に昨日も某所であけおめしてきました。
しましま、こーゆー性分ですから、お正月はどうしてめでたいのか、私なりに考えてみることにします。
一般に、おめでとうという言葉をかける相手は、ノーベル賞や金メダルや福引の一等など、幸運や努力の結果、何か特別なよいものを得た人です。結婚、新築、創業、進学、昇進なども同様。これらは納得がいきます。
祝う人と祝われる人はいちおう線引きされています。
それに対して正月は特定の誰かを祝うものではありません。運が悪かろうと、怠けていようと、万人に公平に訪れます。
正月という特定の時期を祝うものなのです。
クリスマスは正月に似てはいますが、イエスさんという明確な対象がいます。
おお、それで不思議に思ったのは、誕生日を祝うのはなぜでしょう。
誕生日のいったい何がめでたいんですか?
幼いころは、1年間無事に生き延びて成長したという実感が(まわりには)あっても、現代日本では特別なことともいえず、本人の努力の成果でもないでしょう。
一定の年齢を過ぎると、とりわけ女性は、誕生日なんかちっともめでたくない気分に、いや、恐怖の的とさえなってしまいます。
誕生日を祝う風習は、おそらく近年、西欧から入ってきたものです。昔の日本では数え年が一般的で、個人の誕生日など問題にならなかったと思われるからです。
誕生日のおおもととなる、実際の誕生、これはめでたいものです。ほとんどの両親が我が子の誕生を嬉しく思うに違いありません。
そのめでたい気分を再現しようと、毎年の同月同日にお祝いをするというのが趣旨ではないでしょうか。結婚記念日などと同様です。
そうしてみると、誕生日にプレゼントをもらうのは本人ですが、ほんとうは両親を祝うべきだと思うのです。
少なくとも、自分の誕生日は両親へ感謝の気持ちを新たにする日だと思い直せば、年をとるのがいやだーというマイナーな感情を払拭できるかもしれません。
正月も一種の記念日ってとこでしょうか。その国の誕生日みたいなもので、それは建国の日みたいに厳密でない、つまり数え年の日。
だから国民ひとりひとりが自分を祝おうってことです。
お年玉をもらえるからめでたいと思ってる子どもたち、正月がめでたいからお年玉をもらえるんだぞ。
昔はその年のツケがチャラになるとかで、年末には借金取りから逃げ回る光景が見られたとか。うまく逃げ延びれば、正月はめでたしめでたし、ですなあ。だけど踏み倒し族に同調して国中がめでたがるのは本末転倒。正月がめでたいから借金も恩赦にしようってことでしょう。
商売人にとって正月はめでたいどころじゃないし、実際にどうだったのかよく知りませんが。
ともあれ、それくらい我が国では、正月を特別な日としてきたのです。
新年を祝う行事は世界中いろんな国で行われますが、日本ほど極端に雰囲気が変わる国は珍しいように思います。
全国いっせいにお正月モードになり、多くの日本人が自分が日本人であることを思い出すようにしむけられるって印象。着るものの食べるものも「和」に回帰しちゃうんですからね。太陽暦なのに。
お祭りだからそれでいいんです。
特別なことをするとお金がかかります。正月は人が動き、お金が動き、経済効果は莫大です。
毎日がお正月ならいいのになー。それではお祭りの意味ないだろ。
相変わらずしょうもないゴタクを並べている私って、1年中おめでたい人なのですよ。
2009年09月29日
名刺の悲劇
会社勤めをしていたころ、上司とふたりであちこち銀行回りをした経験があります。
今でも銀行というところは強い影響力を持っていて、若造の行員が慇懃無礼な態度で年配の経営者を振り回していますが、バブルの残り火がぽよぽよくすぶっていたあの時代、しかもこちとら吹けば飛ぶよな弱小新興企業、そりゃ銀行様には頭が上がりません。銀行の担当者が黒を白と言えば、はい白ですとうなずかないと会社はつぶれるって感じでしたよ。
弱小なりに戦略を練ったのか、我が社では取引銀行の関連会社から定年退職した人を迎え入れ、銀行との折衝に当たらせることになったのです。それが私の上司です。
銀行回りは重要な業務であります。失敗は許されません。ならば経験豊富な元銀行マン(単なる関連会社社員やんかー)に社内きっての美人秘書をつけて好印象を与え、確実に成功を収めねばならぬ、と。
誰よ、美人秘書って。
まあまあ、過去のことだし個人ブログですから、多少の捏造、じゃなくて脚色は大目に見ましょう。秘書が不美人では話になんないしー。
とゆーか、あの会社に秘書という職があったなんて話は聞いたことないぞ。はは、大目に大目に。
あるとき、隣県の某地方銀行本店を訪ねました。移動は汽車(JR)です。
緊張のせいか、長時間揺られたせいか、虚弱体質のせいか、汽車から降りたころ私は気分が悪くなっていました。乗り物酔いみたいです。断じて二日酔いではありません。
やむを得ず、駅のトイレに入りまして・・・。
駅のトイレってほんと汚いのですよね。最近ではだいぶ改善されてきましたが、当時はもう・・・。和式だし、床はびしょびしょ、ペーパーはないし。
ともあれその汚い個室でかがみこんで、ちょっとオエッとしてしまったのです。
立ち上がろうとしたとたん、スーツの胸ポケットに入れておいた名刺入れがするりと・・・。あぎゃー。
取り急ぎ、その吐瀉物まみれの(ほとんどが胃液だったけど)名刺入れを素手で(当然)拾い上げて個室を出、水をかけて外側を洗い流しました。
名刺入れはいちおうブランド品で本革製でした。それがもったいないということより、中の名刺がどうなったかが一番の気がかり。出張中だから予備の名刺なんてないのです。
ティッシュで水気をふき取り、どうか中までしみていませんようにと祈りつつ開けたところ、十数枚入っていた名刺はすべて端っこが濡れていました。何がしみこんでいたのかは深く考えたくありませんが。
その端っこをティッシュで押さえたりしてどうにか目立たなくして、名刺入れにしまいこみました。じっとりした名刺入れをまたポケットに入れるのは非常に気持ち悪いけど、バッグに入れるのはもっといや。バッグは洗えないから。
第一、銀行の人と会うのに、裸の名刺を出すわけにもいきません。ここはもう口をぬぐって何気なさを押し通そう。そこでやっと思い出してうがいをしたのでした。
上司はずいぶん待たされてやきもきしていましたが、私の顔色があまりに悪いので、今から銀行に行けるかどうかを心配したほどでした。
そのあと銀行での会見は首尾よくいったかって? 詳細はよく覚えていませんが、開き直りが幸いして差し障りなく済んだようです。
美人秘書のかぐわしい名刺は、銀行の担当者の宝物となったことでしょう。わはは。
封印していたその思い出を突如蘇らせたのは、先日起きたある事件でした。
実家の母が携帯電話をトイレに落っことしたそうなんです。買い替えて、データも全部入れ直し。
あんな大きいものがぼちゃっと落ちれば、その時点で気づくものでしょ、普通は。1時間以上も放置して、あちこち探し回ったあげくやっと発見したとは・・・私が介護のために帰省する日はそう遠くないような。
今でも銀行というところは強い影響力を持っていて、若造の行員が慇懃無礼な態度で年配の経営者を振り回していますが、バブルの残り火がぽよぽよくすぶっていたあの時代、しかもこちとら吹けば飛ぶよな弱小新興企業、そりゃ銀行様には頭が上がりません。銀行の担当者が黒を白と言えば、はい白ですとうなずかないと会社はつぶれるって感じでしたよ。
弱小なりに戦略を練ったのか、我が社では取引銀行の関連会社から定年退職した人を迎え入れ、銀行との折衝に当たらせることになったのです。それが私の上司です。
銀行回りは重要な業務であります。失敗は許されません。ならば経験豊富な元銀行マン(単なる関連会社社員やんかー)に社内きっての美人秘書をつけて好印象を与え、確実に成功を収めねばならぬ、と。
誰よ、美人秘書って。
まあまあ、過去のことだし個人ブログですから、多少の捏造、じゃなくて脚色は大目に見ましょう。秘書が不美人では話になんないしー。
とゆーか、あの会社に秘書という職があったなんて話は聞いたことないぞ。はは、大目に大目に。
あるとき、隣県の某地方銀行本店を訪ねました。移動は汽車(JR)です。
緊張のせいか、長時間揺られたせいか、虚弱体質のせいか、汽車から降りたころ私は気分が悪くなっていました。乗り物酔いみたいです。断じて二日酔いではありません。
やむを得ず、駅のトイレに入りまして・・・。
駅のトイレってほんと汚いのですよね。最近ではだいぶ改善されてきましたが、当時はもう・・・。和式だし、床はびしょびしょ、ペーパーはないし。
ともあれその汚い個室でかがみこんで、ちょっとオエッとしてしまったのです。
立ち上がろうとしたとたん、スーツの胸ポケットに入れておいた名刺入れがするりと・・・。あぎゃー。
取り急ぎ、その吐瀉物まみれの(ほとんどが胃液だったけど)名刺入れを素手で(当然)拾い上げて個室を出、水をかけて外側を洗い流しました。
名刺入れはいちおうブランド品で本革製でした。それがもったいないということより、中の名刺がどうなったかが一番の気がかり。出張中だから予備の名刺なんてないのです。
ティッシュで水気をふき取り、どうか中までしみていませんようにと祈りつつ開けたところ、十数枚入っていた名刺はすべて端っこが濡れていました。何がしみこんでいたのかは深く考えたくありませんが。
その端っこをティッシュで押さえたりしてどうにか目立たなくして、名刺入れにしまいこみました。じっとりした名刺入れをまたポケットに入れるのは非常に気持ち悪いけど、バッグに入れるのはもっといや。バッグは洗えないから。
第一、銀行の人と会うのに、裸の名刺を出すわけにもいきません。ここはもう口をぬぐって何気なさを押し通そう。そこでやっと思い出してうがいをしたのでした。
上司はずいぶん待たされてやきもきしていましたが、私の顔色があまりに悪いので、今から銀行に行けるかどうかを心配したほどでした。
そのあと銀行での会見は首尾よくいったかって? 詳細はよく覚えていませんが、開き直りが幸いして差し障りなく済んだようです。
美人秘書のかぐわしい名刺は、銀行の担当者の宝物となったことでしょう。わはは。
封印していたその思い出を突如蘇らせたのは、先日起きたある事件でした。
実家の母が携帯電話をトイレに落っことしたそうなんです。買い替えて、データも全部入れ直し。
あんな大きいものがぼちゃっと落ちれば、その時点で気づくものでしょ、普通は。1時間以上も放置して、あちこち探し回ったあげくやっと発見したとは・・・私が介護のために帰省する日はそう遠くないような。
2009年08月29日
金メダルは誰のもの
自国の人が国際的に活躍するのは喜ばしいことです。ノーベル賞を受賞したといっては騒ぎ、金メダルを取ったといっては歓声を上げ・・・。
ニュースではイチローが何本ヒットを打ったとか報道するけど、チームが勝ったのか負けたのかわからずじまいってこともあります。
オリンピックでも世界選手権でも、日本人選手がメダルを獲得するたびに、「○○選手が日本にメダルをもたらしました」「これで日本は何個のメダルを獲得しました」みたいな表現をしますよね。
むろん勝った選手から国家がメダルを取り上げるなんて非道は行わず、それどころか褒賞金あげちゃったりすることもあるようです。
日本人選手がメダルを取れば、日本国がメダルを得たことになるのです。
練習中に冷遇されていた選手は内心「メダルを取ったのはオレだ、日本じゃない」とか思ったとしても、それを口にしようものなら総スカン喰うおそれがあるから黙っているのかも。
さて、金メダルを喜ぶにしても、地域によって温度差があるようです。
当該選手の出身都道府県の人は「我が県の誇りです」とか言うだろうし、同じ市町村民は「郷土の誇りです」、同じ学校の後輩は「母校の誇りです」と胸を張ります。
リッパな人と同じ学校出たからって、あなたが偉いわけじゃないし、賞金の一部やメダルのかけらをもらえるのでもないんですよ。いったい何が嬉しいのさ。
そういえばローカルニュースでは、地元の高校やプロ野球チーム、郷土出身力士の成績などを必ず報道しますね。
担当キャスターたちは転勤で回ってくることも多いから必ずしもファンとは限らないのに、地元の人と同じように一喜一憂しなければならず、内心鬱屈してるんじゃないかな。
とまあ、ずいぶん辛らつなことを書きましたが、別に私はこういった傾向をバカにしているのではありません。
私だって、名前も聞いたことのない中国人選手が優勝するよりは、名前も聞いたことのない日本人選手がメダルを獲得するほうが嬉しいし、相撲になんか興味ないのにK皇が勝ち越したと聞いたらちょっとホッとしたりします。まあフツーの人なんです。
私は単純に疑問を抱いているだけなのです。
どうして一般の人は同じ国の人にいいことがあると喜ぶんだろう。そして場所的に近ければ近いほど嬉しさが増すんだろう。
それは「愛国心」なのでしょうか。
愛国心というと、かつて邪道に利用されたせいか妙に拒絶反応を見せる人々もいるようですが、要は拡大された「自己愛」ですよね。
自己愛とは自己保存本能です。生物が生きてゆくのに必須の能力です。
自分個人が快適に生きるには家庭円満にこしたことはないから家族を大切に思うし、収入は多いほうがいいから会社への忠誠心も生まれるし、地域で揉め事に巻き込まれるとやりにくいからご近所と仲良くするし(どれもいちおう理想形ですが)・・・と徐々に広がっていって、国家まで来たら愛国心だ、と。
世界で国家間の紛争が絶えないのは、愛国心でとどまっているからではないでしょうか。もう一ランク上の愛星心となると、異星人が攻めてこない限り問題にならないようです。
ところであなた、お隣の奥さんが宝くじで高額賞金を当てたと聞いたら嬉しいですか?
どこか遠くの見知らぬ人が当てたのなら、そりゃ誰か当たることになってるんだからと平気だけど、近くの知り合いの誰かにそんな幸運が舞い込んだとなると、穏やかな気分ではいられないのが普通ではありませんか。やっかむあまり、ドロボーにでも入られればいいとのろったりするかも。
人の心理というものは実に・・・ですね。
ニュースではイチローが何本ヒットを打ったとか報道するけど、チームが勝ったのか負けたのかわからずじまいってこともあります。
オリンピックでも世界選手権でも、日本人選手がメダルを獲得するたびに、「○○選手が日本にメダルをもたらしました」「これで日本は何個のメダルを獲得しました」みたいな表現をしますよね。
むろん勝った選手から国家がメダルを取り上げるなんて非道は行わず、それどころか褒賞金あげちゃったりすることもあるようです。
日本人選手がメダルを取れば、日本国がメダルを得たことになるのです。
練習中に冷遇されていた選手は内心「メダルを取ったのはオレだ、日本じゃない」とか思ったとしても、それを口にしようものなら総スカン喰うおそれがあるから黙っているのかも。
さて、金メダルを喜ぶにしても、地域によって温度差があるようです。
当該選手の出身都道府県の人は「我が県の誇りです」とか言うだろうし、同じ市町村民は「郷土の誇りです」、同じ学校の後輩は「母校の誇りです」と胸を張ります。
リッパな人と同じ学校出たからって、あなたが偉いわけじゃないし、賞金の一部やメダルのかけらをもらえるのでもないんですよ。いったい何が嬉しいのさ。
そういえばローカルニュースでは、地元の高校やプロ野球チーム、郷土出身力士の成績などを必ず報道しますね。
担当キャスターたちは転勤で回ってくることも多いから必ずしもファンとは限らないのに、地元の人と同じように一喜一憂しなければならず、内心鬱屈してるんじゃないかな。
とまあ、ずいぶん辛らつなことを書きましたが、別に私はこういった傾向をバカにしているのではありません。
私だって、名前も聞いたことのない中国人選手が優勝するよりは、名前も聞いたことのない日本人選手がメダルを獲得するほうが嬉しいし、相撲になんか興味ないのにK皇が勝ち越したと聞いたらちょっとホッとしたりします。まあフツーの人なんです。
私は単純に疑問を抱いているだけなのです。
どうして一般の人は同じ国の人にいいことがあると喜ぶんだろう。そして場所的に近ければ近いほど嬉しさが増すんだろう。
それは「愛国心」なのでしょうか。
愛国心というと、かつて邪道に利用されたせいか妙に拒絶反応を見せる人々もいるようですが、要は拡大された「自己愛」ですよね。
自己愛とは自己保存本能です。生物が生きてゆくのに必須の能力です。
自分個人が快適に生きるには家庭円満にこしたことはないから家族を大切に思うし、収入は多いほうがいいから会社への忠誠心も生まれるし、地域で揉め事に巻き込まれるとやりにくいからご近所と仲良くするし(どれもいちおう理想形ですが)・・・と徐々に広がっていって、国家まで来たら愛国心だ、と。
世界で国家間の紛争が絶えないのは、愛国心でとどまっているからではないでしょうか。もう一ランク上の愛星心となると、異星人が攻めてこない限り問題にならないようです。
ところであなた、お隣の奥さんが宝くじで高額賞金を当てたと聞いたら嬉しいですか?
どこか遠くの見知らぬ人が当てたのなら、そりゃ誰か当たることになってるんだからと平気だけど、近くの知り合いの誰かにそんな幸運が舞い込んだとなると、穏やかな気分ではいられないのが普通ではありませんか。やっかむあまり、ドロボーにでも入られればいいとのろったりするかも。
人の心理というものは実に・・・ですね。
2009年06月23日
女の子の名前
奥田英朗によれば、子どもの名前をつけることは生涯に1、2度しか巡ってこない『自己表現のチャンス』だとか。自己です、自己。親が自分自身をアピールする舞台が我が子の名前なのです。
そりゃもう、ブログみたいにさっと消え去るものと違い、子どもが生きている限り続くわけですからね、けっこう重みありますよ。
ここぞとばかりにスゴイ名前をつけたい気持ちもわからなくはないなあ。時として子どもは被害者になっちゃったりしますが。
名前って実に時代を反映するものであります。そしてそれは我が国特有の現象に見えます。
西欧では何千年も代わり映えしない聖人の名前とか伝統的なものが主体であり、自力で創造することはめったにないようです。
ちょっと前の日本人はわりと命名に無頓着でした。長男が太郎で次男は次郎。あるいは長男は一男、三男は三男。
家族計画なんてのもいいかげんで、もう打ち止めにしようと思ったら、スエ子とか〆男とか? 私にもトメ伯母さんがいます。叔母じゃなくて伯母ってことは・・・へえ、その下にも続々と。
現天皇ご成婚の際は美智子ちゃんが大量生産されたようです。
名前の流行りすたりに加えて、人名用漢字はコロコロ変遷してきました。おかげで名前を聞けばある程度トシがわかるというやばい事態に・・・。
とりわけ女性は名前の最後に「子」がつくかつかないかが判断材料になりそうです。ちなみに私の同級生は過半数が子持ちでした。あうう、自らばらしよる。私の母の世代は少なめだったようです。
新聞や雑誌では我が子を写真つきで紹介する投稿コラムが人気のようです。治安のよい我が国では、そうした情報公開が犯罪につながることはまれですし。
その特集版が新聞の折込に入っていたことがありました。乳幼児の顔写真と名前に親(99%母親)の名前とひとことをつけて並べたもの。記念になるからつい応募するんでしょうね。

この地方版には500人を超える子どもが載っています。その半分が女児として、ぱらっと数えたら「○子」「○○子」が9人いました。まだ絶滅してなかったんですねえ。哩璃子とか苺子みたいに、いくぶんか現代的だけど。
かたやコメントを寄せた母親は多くが30代と思われますが、子のつく名前は1/3程度。子が疎んじられ始めた世代ってところでしょうか。
上で述べたように、命名は自己表現のチャンスです。わずか2〜3文字のうち1字を「子」に占領されたら、表現の幅が狭まります。子が嫌われるのもちょっと納得です。
めいっぱい好きな字を使えることはハッピーとしても、「虹々南」「夢可愛」のような難読名は子どもも苦労するかもしれません。
国が人名漢字を制限したことは、歯止めとしては評価しますが、読み方が自由だなんて野放図すぎます。
むかーし筒井康隆を読んでいたら、ラリオという男が出てきました。薬夫だか薬男だか、まあそんな字でした。ヤクでラりるってとこから来たんだろうが、たいしたセンスだと感嘆したものです。
芥川龍之介は自分がしょっちゅう「たつのすけ」と呼ばれたうらみから、子どもたちには決して読み間違えられない名前をと工夫したと聞きました。ヤスンシくんとは呼ばれなかったのかな。
字面がきれいで、読みやすく、響きがよく、しかもありきたりでない名前を考えるのは至難の技です。
最近の親は個性を優先する傾向がありますが、ずいぶん変わった名前をつけたつもりが、同名人物に遭遇したとなると、平凡な名前のときよりもヤな気分じゃありませんか。子どもの将来も慮ってよくよく考えましょう。
さて、ヤングペアレントの皆さん。女の子の名前は男の子に比べてバリエーションが豊かで、なおも開発途上です。
ユニークな名前にしたければ、文字数にこだわってみませんか。
男の子には「りゅうざぶろう」みたいな長い名前が珍しくないのに、なぜか女の子の読みは3文字止まり。4文字はちらほら、5文字となるとまず見かけません。
村上春樹かぶれの連中がすでに空豆や緑豆などと名づけ始めたかもしれないが、これからのトレンドは長い名前です。
文字数が多いと表現の多様性も広がります。男の子はほとんど漢字に偏っているのに、女の子にはカタカナ・ひらがなという助っ人もいます。
それとパ行の活用(性別には無関係みたいですが、パ行の漢字はないのでやはり女の子向け)。
パズル系ミステリ作家高田崇史のキャラクターぴいくんの本名は「パズル」だと推理した小説家がいました(その後撃沈?)。漫画家ますむらひろしはP音愛好者らしく、葉鈴(ぱりん)ちゃんとか辺太(ぺんた)くんとか、いろいろこじつけています。
イニシャルPは日本人には珍しいから、存在感を示すのにもってこいです。
「巴里絵羅ポ」「ぷまのん蝶」などは絶対に模倣者は現れませんって。それが人の名前か。
参考文献:
赤ちゃんに最高の名前をつける本 2009-2010
たまひよ女の子赤ちゃんのしあわせ名前事典
試験に出るパズル(高田崇史)
モバイルのかたはこちらのほうがわかりやすいでしょう。
赤ちゃんに最高の名前をつける本 2009-2010
たまひよ赤ちゃんのしあわせ名前事典〈2010~2011年版〉
そりゃもう、ブログみたいにさっと消え去るものと違い、子どもが生きている限り続くわけですからね、けっこう重みありますよ。
ここぞとばかりにスゴイ名前をつけたい気持ちもわからなくはないなあ。時として子どもは被害者になっちゃったりしますが。
名前って実に時代を反映するものであります。そしてそれは我が国特有の現象に見えます。
西欧では何千年も代わり映えしない聖人の名前とか伝統的なものが主体であり、自力で創造することはめったにないようです。
ちょっと前の日本人はわりと命名に無頓着でした。長男が太郎で次男は次郎。あるいは長男は一男、三男は三男。
家族計画なんてのもいいかげんで、もう打ち止めにしようと思ったら、スエ子とか〆男とか? 私にもトメ伯母さんがいます。叔母じゃなくて伯母ってことは・・・へえ、その下にも続々と。
現天皇ご成婚の際は美智子ちゃんが大量生産されたようです。
名前の流行りすたりに加えて、人名用漢字はコロコロ変遷してきました。おかげで名前を聞けばある程度トシがわかるというやばい事態に・・・。
とりわけ女性は名前の最後に「子」がつくかつかないかが判断材料になりそうです。ちなみに私の同級生は過半数が子持ちでした。あうう、自らばらしよる。私の母の世代は少なめだったようです。
新聞や雑誌では我が子を写真つきで紹介する投稿コラムが人気のようです。治安のよい我が国では、そうした情報公開が犯罪につながることはまれですし。
その特集版が新聞の折込に入っていたことがありました。乳幼児の顔写真と名前に親(99%母親)の名前とひとことをつけて並べたもの。記念になるからつい応募するんでしょうね。

この地方版には500人を超える子どもが載っています。その半分が女児として、ぱらっと数えたら「○子」「○○子」が9人いました。まだ絶滅してなかったんですねえ。哩璃子とか苺子みたいに、いくぶんか現代的だけど。
かたやコメントを寄せた母親は多くが30代と思われますが、子のつく名前は1/3程度。子が疎んじられ始めた世代ってところでしょうか。
上で述べたように、命名は自己表現のチャンスです。わずか2〜3文字のうち1字を「子」に占領されたら、表現の幅が狭まります。子が嫌われるのもちょっと納得です。
めいっぱい好きな字を使えることはハッピーとしても、「虹々南」「夢可愛」のような難読名は子どもも苦労するかもしれません。
国が人名漢字を制限したことは、歯止めとしては評価しますが、読み方が自由だなんて野放図すぎます。
むかーし筒井康隆を読んでいたら、ラリオという男が出てきました。薬夫だか薬男だか、まあそんな字でした。ヤクでラりるってとこから来たんだろうが、たいしたセンスだと感嘆したものです。
芥川龍之介は自分がしょっちゅう「たつのすけ」と呼ばれたうらみから、子どもたちには決して読み間違えられない名前をと工夫したと聞きました。ヤスンシくんとは呼ばれなかったのかな。
字面がきれいで、読みやすく、響きがよく、しかもありきたりでない名前を考えるのは至難の技です。
最近の親は個性を優先する傾向がありますが、ずいぶん変わった名前をつけたつもりが、同名人物に遭遇したとなると、平凡な名前のときよりもヤな気分じゃありませんか。子どもの将来も慮ってよくよく考えましょう。
さて、ヤングペアレントの皆さん。女の子の名前は男の子に比べてバリエーションが豊かで、なおも開発途上です。
ユニークな名前にしたければ、文字数にこだわってみませんか。
男の子には「りゅうざぶろう」みたいな長い名前が珍しくないのに、なぜか女の子の読みは3文字止まり。4文字はちらほら、5文字となるとまず見かけません。
村上春樹かぶれの連中がすでに空豆や緑豆などと名づけ始めたかもしれないが、これからのトレンドは長い名前です。
文字数が多いと表現の多様性も広がります。男の子はほとんど漢字に偏っているのに、女の子にはカタカナ・ひらがなという助っ人もいます。
それとパ行の活用(性別には無関係みたいですが、パ行の漢字はないのでやはり女の子向け)。
パズル系ミステリ作家高田崇史のキャラクターぴいくんの本名は「パズル」だと推理した小説家がいました(その後撃沈?)。漫画家ますむらひろしはP音愛好者らしく、葉鈴(ぱりん)ちゃんとか辺太(ぺんた)くんとか、いろいろこじつけています。
イニシャルPは日本人には珍しいから、存在感を示すのにもってこいです。
「巴里絵羅ポ」「ぷまのん蝶」などは絶対に模倣者は現れませんって。それが人の名前か。
参考文献:
赤ちゃんに最高の名前をつける本 2009-2010
たまひよ女の子赤ちゃんのしあわせ名前事典
試験に出るパズル(高田崇史)
モバイルのかたはこちらのほうがわかりやすいでしょう。
赤ちゃんに最高の名前をつける本 2009-2010
たまひよ赤ちゃんのしあわせ名前事典〈2010~2011年版〉
2009年01月19日
他人の歯ブラシ
歯ブラシを他人と共有して平気な人はあまりいないと思います。
タオルや箸などに無頓着な人でも、歯ブラシの使い回しだけはごめんだと言うに決まってます。
どうして嫌なのでしょうか。
赤瀬川原平によれば、『粘膜と外皮の差』だとか。
タオルなら外皮だから大丈夫だけど、歯ブラシは口中の粘膜に触れるから許せないのだと。
えっ、そんなもんかいな。
粘膜の接触を辞さない夫婦や恋人間だって、最低限、歯ブラシは分けたいのが普通の心理ですよね。
はっきり言って、歯ブラシは汚いものです。
歯磨きのあと水ですすいだ程度では、毛の間にはさまったペーストや食べかすは完全に落ちていません。固形物をきれいに洗い流しても、細菌だらけです。ぬれたまま放置すると、次に使うまでに菌の数は爆発的に増えているはずです。
それは他人の歯ブラシも自分の歯ブラシも同じこと。自分のが人のより清潔なわけじゃないでしょうもん、一般的に。
ならば徹底的に消毒すればオッケーなのか。漂白液に浸し、アルコールを吹きつけ、熱湯をかけ、日光で乾燥させる。
・・・やっぱり嫌ですよねー。完全滅菌したパパの歯ブラシよりも、バイ菌うようよの自分の歯ブラシのほうが安心できると思いません?
きっと歯ブラシには、単に衛生観念では割り切れない、何かまがまがしくも頑なな所有意識がつきまとっているのです。
だけど自分の歯ブラシだって躊躇するときがあります。歯磨きの途中、口の中が泡だらけになったり持ち替えたりして一旦出したら、その生ぬるいままの歯ブラシを歯茎に当てるのは気持ち悪いじゃありませんか。
このごろはタオルや食器、スリッパなども家族と共同使用したがらない人が増えています。
手を拭くタオルならいいけど、顔を拭くタオルは断固別にするという人もいます。その手で顔を触るくせにさ。
私は実家に帰ると、トイレの温水洗浄は使いません。箸は塗りかプラスティックなら洗えば平気。
どれもこれも気分の問題なのです。
先日図書館に行きましたら、素足にサンダル履きの、見るからに不潔っぽい人が椅子に座って本を読んでいました。片足を膝にのせて、その真っ黒な足指を手でもみもみしながらページをめくってるんですよ。うへえ。どうか本の好みが同じでありませんようにと祈ったのでした。
しかし。見た目だけで判断しちゃいけません。
小奇麗なカッコしてても、はなをすすってぬれた指で本に触ってる人だっているんだ、全くもう。
タダで本を借りる以上、多少のことは覚悟しておかなきゃとは思うんですけどね。
確かに気にし始めたらきりがありません。
本屋でもスーパーでもデパートでも、私たちは誰がどんな手で触ったか知れないものを、選び、買っているわけです。
焼きたてパン屋さんでは、むき出しのパンが並んだ棚のそばで咳をする客もいます。
ブティックで倉庫からまっさらの新品を出してきてもらったとしても、そのパッケージにはすでに店員さんほか相当数の人の指紋が残っておりましょう。
普通程度に健康な人間なら、ちょっとやそっと汚い目に遭ったって、病気になることはまずありません。
わかっちゃいるけど、気分ってものは理屈よりも強いんですよね。
タオルや箸などに無頓着な人でも、歯ブラシの使い回しだけはごめんだと言うに決まってます。
どうして嫌なのでしょうか。
赤瀬川原平によれば、『粘膜と外皮の差』だとか。
タオルなら外皮だから大丈夫だけど、歯ブラシは口中の粘膜に触れるから許せないのだと。
えっ、そんなもんかいな。
粘膜の接触を辞さない夫婦や恋人間だって、最低限、歯ブラシは分けたいのが普通の心理ですよね。
はっきり言って、歯ブラシは汚いものです。
歯磨きのあと水ですすいだ程度では、毛の間にはさまったペーストや食べかすは完全に落ちていません。固形物をきれいに洗い流しても、細菌だらけです。ぬれたまま放置すると、次に使うまでに菌の数は爆発的に増えているはずです。
それは他人の歯ブラシも自分の歯ブラシも同じこと。自分のが人のより清潔なわけじゃないでしょうもん、一般的に。
ならば徹底的に消毒すればオッケーなのか。漂白液に浸し、アルコールを吹きつけ、熱湯をかけ、日光で乾燥させる。
・・・やっぱり嫌ですよねー。完全滅菌したパパの歯ブラシよりも、バイ菌うようよの自分の歯ブラシのほうが安心できると思いません?
きっと歯ブラシには、単に衛生観念では割り切れない、何かまがまがしくも頑なな所有意識がつきまとっているのです。
だけど自分の歯ブラシだって躊躇するときがあります。歯磨きの途中、口の中が泡だらけになったり持ち替えたりして一旦出したら、その生ぬるいままの歯ブラシを歯茎に当てるのは気持ち悪いじゃありませんか。
このごろはタオルや食器、スリッパなども家族と共同使用したがらない人が増えています。
手を拭くタオルならいいけど、顔を拭くタオルは断固別にするという人もいます。その手で顔を触るくせにさ。
私は実家に帰ると、トイレの温水洗浄は使いません。箸は塗りかプラスティックなら洗えば平気。
どれもこれも気分の問題なのです。
先日図書館に行きましたら、素足にサンダル履きの、見るからに不潔っぽい人が椅子に座って本を読んでいました。片足を膝にのせて、その真っ黒な足指を手でもみもみしながらページをめくってるんですよ。うへえ。どうか本の好みが同じでありませんようにと祈ったのでした。
しかし。見た目だけで判断しちゃいけません。
小奇麗なカッコしてても、はなをすすってぬれた指で本に触ってる人だっているんだ、全くもう。
タダで本を借りる以上、多少のことは覚悟しておかなきゃとは思うんですけどね。
確かに気にし始めたらきりがありません。
本屋でもスーパーでもデパートでも、私たちは誰がどんな手で触ったか知れないものを、選び、買っているわけです。
焼きたてパン屋さんでは、むき出しのパンが並んだ棚のそばで咳をする客もいます。
ブティックで倉庫からまっさらの新品を出してきてもらったとしても、そのパッケージにはすでに店員さんほか相当数の人の指紋が残っておりましょう。
普通程度に健康な人間なら、ちょっとやそっと汚い目に遭ったって、病気になることはまずありません。
わかっちゃいるけど、気分ってものは理屈よりも強いんですよね。
2009年01月08日
うるさい身体
公共手洗所の婦人用個室で昨今よく見かける小さな装置・・・ボタンを押したり手をかざすと、水の流れるような音を出します。『音姫』などというこじゃれたネーミングのものも。
これはつまり、用足しの音をはばかる上品な方々が水を流して音消しをすることを防止しようとの意図で生まれたアイデア商品です。
水を余分に流すことが反エコでもったいないのは認めますが、装置の費用、設置費、維持費や電気代が水道代よりも安くつくかどうかは大いに疑問です。
そもそもその音を恥ずかしいと感じなければ、そんなへんてこな商品が生まれることもなかったはず。
排尿・排泄音はなぜ聞かれたくないのでしょうか。
短時間とはいえ、何か起きてもおいそれとは中断できない無防備な状態でありますゆえ、敵や大型獣に襲われたらわややーってことで、できるだけ静かに済ませようと祖先が努力した結果・・・とはこじつけっぽいですねえ。音だけ隠しても臭いはごまかしにくいでしょ。
ほんとうに重大事なら、音を抑える方向に身体が変化しても不思議はない。実際の話、量や勢い・角度などによっては無音で終えることがままあります。
第一、これを恥ずかしがるのは主に日本人女性のようです。
男性は平気だし、欧米の女性はあまりかまわないようです。たぶん多くのアジア女性も同様ではないでしょうか。
じゃあなぜ日本女性はそうなっ(てしまっ)たのか?
水洗トイレが普及する前は気にする余裕などなかったと思われます。気になっても隠しようがなかったし。
きっと学校あたりで始まったんでしょう。我が国の女子中学生や高校生は、なぜだか連れ○○○が大好きなんです。トイレだけでなく、何事もひとりで行うことを避けたがる、みたいな。ドアの外で友達が待ってるから派手な音をたてては決まり悪い、しかも水代は自分が払うわけじゃない・・・とだんだん広がり、OLになっても引き継がれた、とか。
公共の水を無駄遣いする人も、家庭では慎んでいるはず。実に悪しき習慣です。
座って水を流すのは衛生上も危うい気がしますが、『音姫』をつければ済むという問題ではないと思うんですよね。日本女性の意識改革が必要です。
もっと一般的な話として、体が出す音というのは、往々にして「はしたない」「下品だ」ということになってるみたいです。
はなをすする音は気持ち悪い、咳やくしゃみは控えめにすべきだし、空腹時におなかが鳴るのはおならと同じくらい恥ずかしいと思う人もいれば、舌打ちや関節をポキポキ鳴らすのは野蛮な印象。
人間、極力静かに生きるのが無難といえば無難なようです。
いつだったか、スーパーでレジ待ちの列に並んでいるとき、スニーカーの底が床とこすれた拍子に、ぶりっと妙な音がして赤面したことがあります。こんな局面では平然と同じ音を何度も出してみると誤解されにくいかと思いますが、再現できないことも多かったりして。
それらの音も、受け止め方は歴史・文化や国民性に左右されます。
欧米では下の音にはわりと寛容だけど、上の音にはかなり神経質らしい。大きな音立ててそばをすする日本のマナーは、海外ではときとしてひんしゅくを買うでしょう。
中国人は食事の席でゲップをするのは「おいしかった」という意味であり、招かれたときの礼儀だと聞いたことがあります。かの国の人と伴食した経験はなく、真偽のほどは知りませんが。
それはそうと、このごろ私の右膝は、曲げたときにガギッと音を立てるようになってしまいました。なんだか不安を呼び起こすような音だなあ。
これはつまり、用足しの音をはばかる上品な方々が水を流して音消しをすることを防止しようとの意図で生まれたアイデア商品です。
水を余分に流すことが反エコでもったいないのは認めますが、装置の費用、設置費、維持費や電気代が水道代よりも安くつくかどうかは大いに疑問です。
そもそもその音を恥ずかしいと感じなければ、そんなへんてこな商品が生まれることもなかったはず。
排尿・排泄音はなぜ聞かれたくないのでしょうか。
短時間とはいえ、何か起きてもおいそれとは中断できない無防備な状態でありますゆえ、敵や大型獣に襲われたらわややーってことで、できるだけ静かに済ませようと祖先が努力した結果・・・とはこじつけっぽいですねえ。音だけ隠しても臭いはごまかしにくいでしょ。
ほんとうに重大事なら、音を抑える方向に身体が変化しても不思議はない。実際の話、量や勢い・角度などによっては無音で終えることがままあります。
第一、これを恥ずかしがるのは主に日本人女性のようです。
男性は平気だし、欧米の女性はあまりかまわないようです。たぶん多くのアジア女性も同様ではないでしょうか。
じゃあなぜ日本女性はそうなっ(てしまっ)たのか?
水洗トイレが普及する前は気にする余裕などなかったと思われます。気になっても隠しようがなかったし。
きっと学校あたりで始まったんでしょう。我が国の女子中学生や高校生は、なぜだか連れ○○○が大好きなんです。トイレだけでなく、何事もひとりで行うことを避けたがる、みたいな。ドアの外で友達が待ってるから派手な音をたてては決まり悪い、しかも水代は自分が払うわけじゃない・・・とだんだん広がり、OLになっても引き継がれた、とか。
公共の水を無駄遣いする人も、家庭では慎んでいるはず。実に悪しき習慣です。
座って水を流すのは衛生上も危うい気がしますが、『音姫』をつければ済むという問題ではないと思うんですよね。日本女性の意識改革が必要です。
もっと一般的な話として、体が出す音というのは、往々にして「はしたない」「下品だ」ということになってるみたいです。
はなをすする音は気持ち悪い、咳やくしゃみは控えめにすべきだし、空腹時におなかが鳴るのはおならと同じくらい恥ずかしいと思う人もいれば、舌打ちや関節をポキポキ鳴らすのは野蛮な印象。
人間、極力静かに生きるのが無難といえば無難なようです。
いつだったか、スーパーでレジ待ちの列に並んでいるとき、スニーカーの底が床とこすれた拍子に、ぶりっと妙な音がして赤面したことがあります。こんな局面では平然と同じ音を何度も出してみると誤解されにくいかと思いますが、再現できないことも多かったりして。
それらの音も、受け止め方は歴史・文化や国民性に左右されます。
欧米では下の音にはわりと寛容だけど、上の音にはかなり神経質らしい。大きな音立ててそばをすする日本のマナーは、海外ではときとしてひんしゅくを買うでしょう。
中国人は食事の席でゲップをするのは「おいしかった」という意味であり、招かれたときの礼儀だと聞いたことがあります。かの国の人と伴食した経験はなく、真偽のほどは知りませんが。
それはそうと、このごろ私の右膝は、曲げたときにガギッと音を立てるようになってしまいました。なんだか不安を呼び起こすような音だなあ。
2008年05月12日
コミュニケーション過剰症
全国学力テストの問題が新聞に載っていたので、ぱらっと眺めました。
解こうとしたのではありません。小学生にも劣るなんて認めたくない。丸や三角の図形を見ただけで、すでに頭痛。
中学国語に『今昔物語』から『親子で馬盗人を追いかける話』を題材にしたものがあり、ちょっと感銘を受けました。
駿馬を盗まれた父と子が闇の中無言で盗賊を追跡し、協力して馬を取り戻す話。我が国の美風「以心伝心」「不言実行」をテーマとしているとか。
だいぶ前のことで、新聞はすでに処分しました。
個人的な考えでは、以心伝心を日常のコミュニケーションに取り入れることには否定的です。低レベルの人間が扱うにはリスクが大きすぎます。
言うべきことをきちっと伝える欧米方式のほうがミスが少ないに決まってます。
近年我が国では、会話や行動様式が洋風化してきました。
エゴ丸出しと感じる人もいましょうが、自分の考えをはっきり言う傾向はいいことです。
配偶者に毎日「愛している」と言おう。そんなことが奨励されています。黙ってても伝わってるという思い込みが熟年離婚の第一歩なのだ、と。
言ったとしても、ほかがいっさい変わらなければ同じことだろうに。
いえいえ、口に出すことで、おのずと行動にも変化が現れるのですよ。それがアファーメーションの力です。
そのわりには離婚率がアップしておりますなあ。
これまで離婚が少なかったのは、片方が忍従していたからで、そこを割り引いて考える必要があるんじゃないですかね。
しかし。
現代日本人は饒舌になりすぎたのではありませんか。
インターネットと携帯電話の普及が、無意味な会話を増幅させているような気がします。
「今帰ったよ」「おつー」こんなこと、いちいち打ち込んで記録に残して何が楽しいんでしょう。犯罪被害に遭ったとき、足取りを調べる参考になる程度でしょ。
そういうやり取りに支えられた人間関係がいかほどのものか検証しないほうが幸せです。
毎日何十、何百通もメールを打つ若者や子どもたちの間では、即時返信が義務づけられているとか。加えてSNSやブログでは読み逃げ厳禁だし、足あと返しやコメント返しをしなければ仲間はずれ・・・いやもうタイヘンです。
そんなことばかりに血道を上げていたんじゃ、学力低下は必然事態。
恋人同士が四六時中ケータイで相手を監視し、縛りつけておかないと気が済まない事例もあると聞きました。
ビジネスパーソンも平日には数百通のメールをこなさなきゃ一人前とはいえないらしい。ご飯食べるヒマあるんでしょうか。
そうしたインフォマニア現象に巻き込まれていない私は、量的には楽なほうです。でも質はよろしくない。
なにぶん内気で気弱な性格でして、面と向かうと言いたいことも言えず、迎合と阿諛追従に身を投げてしまいます。自虐的だがいくばくかは自分の利益になるだろうし・・・とか卑しいことも考える。
ごくたまに、ひょっとしてこのヒトには以心伝心(に近いもの)が通じるのではないかという幻想にくすぐられる出会いがあります。むろん錯覚ですが。
一方、どんなに言葉を尽くしても通じ合えない相手だなと、初対面で決めつけたくなる人もいます。こっちはめったに外れませんね。
解こうとしたのではありません。小学生にも劣るなんて認めたくない。丸や三角の図形を見ただけで、すでに頭痛。
中学国語に『今昔物語』から『親子で馬盗人を追いかける話』を題材にしたものがあり、ちょっと感銘を受けました。
駿馬を盗まれた父と子が闇の中無言で盗賊を追跡し、協力して馬を取り戻す話。我が国の美風「以心伝心」「不言実行」をテーマとしているとか。
だいぶ前のことで、新聞はすでに処分しました。
個人的な考えでは、以心伝心を日常のコミュニケーションに取り入れることには否定的です。低レベルの人間が扱うにはリスクが大きすぎます。
言うべきことをきちっと伝える欧米方式のほうがミスが少ないに決まってます。
近年我が国では、会話や行動様式が洋風化してきました。
エゴ丸出しと感じる人もいましょうが、自分の考えをはっきり言う傾向はいいことです。
配偶者に毎日「愛している」と言おう。そんなことが奨励されています。黙ってても伝わってるという思い込みが熟年離婚の第一歩なのだ、と。
言ったとしても、ほかがいっさい変わらなければ同じことだろうに。
いえいえ、口に出すことで、おのずと行動にも変化が現れるのですよ。それがアファーメーションの力です。
そのわりには離婚率がアップしておりますなあ。
これまで離婚が少なかったのは、片方が忍従していたからで、そこを割り引いて考える必要があるんじゃないですかね。
しかし。
現代日本人は饒舌になりすぎたのではありませんか。
インターネットと携帯電話の普及が、無意味な会話を増幅させているような気がします。
「今帰ったよ」「おつー」こんなこと、いちいち打ち込んで記録に残して何が楽しいんでしょう。犯罪被害に遭ったとき、足取りを調べる参考になる程度でしょ。
そういうやり取りに支えられた人間関係がいかほどのものか検証しないほうが幸せです。
毎日何十、何百通もメールを打つ若者や子どもたちの間では、即時返信が義務づけられているとか。加えてSNSやブログでは読み逃げ厳禁だし、足あと返しやコメント返しをしなければ仲間はずれ・・・いやもうタイヘンです。
そんなことばかりに血道を上げていたんじゃ、学力低下は必然事態。
恋人同士が四六時中ケータイで相手を監視し、縛りつけておかないと気が済まない事例もあると聞きました。
ビジネスパーソンも平日には数百通のメールをこなさなきゃ一人前とはいえないらしい。ご飯食べるヒマあるんでしょうか。
そうしたインフォマニア現象に巻き込まれていない私は、量的には楽なほうです。でも質はよろしくない。
なにぶん内気で気弱な性格でして、面と向かうと言いたいことも言えず、迎合と阿諛追従に身を投げてしまいます。自虐的だがいくばくかは自分の利益になるだろうし・・・とか卑しいことも考える。
ごくたまに、ひょっとしてこのヒトには以心伝心(に近いもの)が通じるのではないかという幻想にくすぐられる出会いがあります。むろん錯覚ですが。
一方、どんなに言葉を尽くしても通じ合えない相手だなと、初対面で決めつけたくなる人もいます。こっちはめったに外れませんね。
2008年04月01日
4月ダンサー
数年前、正確には2002年の今日、ODPがマイクロソフトに接収されました。接収とは不穏な表現だな。買収でもないし、平たく言えば、乗っ取られたのです。
だから、何?
う・・・。
とりあえず私の知る限りの事情を説明しましょう。間違ってても無視してね。
興味をお持ちの方はご自分で検索してお調べください。民主主義の我が国ではたやすいことです。誰にでもできることを私がわざわざするには及びません。情けないまでに卓越した記憶力をもとにオリジナル文を書くことのほうが貴重ではありませんか?
ODP(Open Directory Project/オープン・ディレクトリ・プロジェクト)は『世界最大のディレクトリ』を標榜するボランティアサイトです。自分のホームページを申請すれば載せてもらえることがあるので、ありがたい存在です。
当時の我が国ではそれほど注目されていませんでした。大ヤフーのほか、ライコスやインフォシークもディレクトリを持ってたし。
しかし英語サイトオーナーにとってはことのほか重要でした(詳細はこのページで)。
その大サイトが突如として、Microsoft Directory Projectと名を変え、各ページにはマイクロソフトのロゴが麗々しく冠されたのです。事前のアナウンスはいっさいなし。
一般社員やODPで働くエディタたちにも寝耳に水の出来事でした。
当日知り合いのエディタさんが「こんなことになってる」と驚きのメールをよこさなければ、普段ODPに用のない私は目にする機会を逸したことでしょう。
さて、ODPの運営母体はネットスケープです。
ネットスケープといえば、ブラウザのシェアでマイクロソフトとしのぎを削り、すでに敗退しつつありました。
ODPがMSNの傘下に入ったということは、マイクロソフトとネットスケープの合併に結びつきます。
これはインターネット上のビッグニューズです。
だからって、誰も騒ぎませんでした。
4月1日ですから。
翌日には元に戻っていました。
1日だけのジョークにしては、ずいぶん大がかりな作業だったに違いありません。
数十万あるいは数百万ページのすべてが一夜にして模様替えしたのですよ。メインコンピュータで一括変更すれば済むとしても、そこにライバルサイトのロゴマークを無断で埋め込むんだから、無謀のきわみ。
無断? 事前にマイクロソフトとの打ち合わせがあったとは思えません。それじゃ面白くないでしょ。
著作権侵害されたゲイツさんも大喜びだったはず。
欧米人はこういうお遊びが大好きです。
昔からエイプリルフールにはめいっぱいはめを外してきました。世間を騒がせ過ぎたことも度々あります。
本日もウェブではいろんなイベントが発生することでしょう。
私もその翌年の4月1日に、サイト上でトライしました。弱小サイトのしょーもないおふざけにしては、身に余る反応をいただいたような・・・。常連さんはありがたいものです。感謝。
日本ではエイプリルフールは不人気です。四月馬鹿と訳されたせいでしょうか。さっぱり定着しません。
せいぜい4コマ漫画のネタになる程度。
しかも、そこそこ楽しむ人々がいた昔に比べると、確実に衰退しつつあります。
なんでも欧米の真似をせよとは言いませんが、ちょっとつまんないですね。
日本に向かない理由はいろいろ考えられます。
日本人が生真面目な民族だから、ではなさそう。
まず、「嘘」というものに対するスタンスの違いです。
これについては以前和製英語のページに書きました。
キリスト教に支配される国々において、嘘は大罪なのです。年に1度くらい解放される日を設けたいわけですね。
その点日本人は年中嘘ばっかりついてるので、さあ嘘をつけと言われると窮してしまう。それはそうと「嘘をつけ」「嘘言え」が「嘘を言うな」の意味になるとは、フカカイな表現。
嘘を言え。欧米人にもウソつきはうじゃうじゃいるぞ。
その通りです。それが「スタンスの違い」(文化の違い)なのです。あまり深入りはしませんが、どうも嘘の性格が異なるみたいです。
ドーピング疑惑に関する『偽証罪』でメダルを返還した選手がいましたが、しらばっくれればわかんなかったのにと思った日本人もいることでしょう。
英語には white lie という罪のない嘘もあり、日常的に許容されているようです。また嘘とジョークは紙一重ですが、そのあたりの機微もあっちの人は上手いですね。
もうひとつ。こちらのほうが大きいと思うのですが、4月1日という日がまずいんですね。
なにしろ日本社会にとって大切な区切りの日です。新年度の始まりであり、さまざまな制度変更や法改正が実施される日でもあります。こんな日にウソなんかつくのは不謹慎だ。てわけ。
大会社の社長が新入社員を前に嘘八百の訓示を垂れるのも愉快なのにね。
エイプリルフールのようなものに嬉々として取り組む学生たちが春休みでばらけてしまってるのも、不利な要素かもしれません。
2011年から新学期が秋に移行しますが、それをきっかけにエイプリルフールも必ずや人々の支持を得るだろうと、密かに期待しています。
だから、何?
う・・・。
とりあえず私の知る限りの事情を説明しましょう。間違ってても無視してね。
興味をお持ちの方はご自分で検索してお調べください。民主主義の我が国ではたやすいことです。誰にでもできることを私がわざわざするには及びません。情けないまでに卓越した記憶力をもとにオリジナル文を書くことのほうが貴重ではありませんか?
ODP(Open Directory Project/オープン・ディレクトリ・プロジェクト)は『世界最大のディレクトリ』を標榜するボランティアサイトです。自分のホームページを申請すれば載せてもらえることがあるので、ありがたい存在です。
当時の我が国ではそれほど注目されていませんでした。大ヤフーのほか、ライコスやインフォシークもディレクトリを持ってたし。
しかし英語サイトオーナーにとってはことのほか重要でした(詳細はこのページで)。
その大サイトが突如として、Microsoft Directory Projectと名を変え、各ページにはマイクロソフトのロゴが麗々しく冠されたのです。事前のアナウンスはいっさいなし。
一般社員やODPで働くエディタたちにも寝耳に水の出来事でした。
当日知り合いのエディタさんが「こんなことになってる」と驚きのメールをよこさなければ、普段ODPに用のない私は目にする機会を逸したことでしょう。
さて、ODPの運営母体はネットスケープです。
ネットスケープといえば、ブラウザのシェアでマイクロソフトとしのぎを削り、すでに敗退しつつありました。
ODPがMSNの傘下に入ったということは、マイクロソフトとネットスケープの合併に結びつきます。
これはインターネット上のビッグニューズです。
だからって、誰も騒ぎませんでした。
4月1日ですから。
翌日には元に戻っていました。
1日だけのジョークにしては、ずいぶん大がかりな作業だったに違いありません。
数十万あるいは数百万ページのすべてが一夜にして模様替えしたのですよ。メインコンピュータで一括変更すれば済むとしても、そこにライバルサイトのロゴマークを無断で埋め込むんだから、無謀のきわみ。
無断? 事前にマイクロソフトとの打ち合わせがあったとは思えません。それじゃ面白くないでしょ。
著作権侵害されたゲイツさんも大喜びだったはず。
欧米人はこういうお遊びが大好きです。
昔からエイプリルフールにはめいっぱいはめを外してきました。世間を騒がせ過ぎたことも度々あります。
本日もウェブではいろんなイベントが発生することでしょう。
私もその翌年の4月1日に、サイト上でトライしました。弱小サイトのしょーもないおふざけにしては、身に余る反応をいただいたような・・・。常連さんはありがたいものです。感謝。
日本ではエイプリルフールは不人気です。四月馬鹿と訳されたせいでしょうか。さっぱり定着しません。
せいぜい4コマ漫画のネタになる程度。
しかも、そこそこ楽しむ人々がいた昔に比べると、確実に衰退しつつあります。
なんでも欧米の真似をせよとは言いませんが、ちょっとつまんないですね。
日本に向かない理由はいろいろ考えられます。
日本人が生真面目な民族だから、ではなさそう。
まず、「嘘」というものに対するスタンスの違いです。
これについては以前和製英語のページに書きました。
キリスト教に支配される国々において、嘘は大罪なのです。年に1度くらい解放される日を設けたいわけですね。
その点日本人は年中嘘ばっかりついてるので、さあ嘘をつけと言われると窮してしまう。それはそうと「嘘をつけ」「嘘言え」が「嘘を言うな」の意味になるとは、フカカイな表現。
嘘を言え。欧米人にもウソつきはうじゃうじゃいるぞ。
その通りです。それが「スタンスの違い」(文化の違い)なのです。あまり深入りはしませんが、どうも嘘の性格が異なるみたいです。
ドーピング疑惑に関する『偽証罪』でメダルを返還した選手がいましたが、しらばっくれればわかんなかったのにと思った日本人もいることでしょう。
英語には white lie という罪のない嘘もあり、日常的に許容されているようです。また嘘とジョークは紙一重ですが、そのあたりの機微もあっちの人は上手いですね。
もうひとつ。こちらのほうが大きいと思うのですが、4月1日という日がまずいんですね。
なにしろ日本社会にとって大切な区切りの日です。新年度の始まりであり、さまざまな制度変更や法改正が実施される日でもあります。こんな日にウソなんかつくのは不謹慎だ。てわけ。
大会社の社長が新入社員を前に嘘八百の訓示を垂れるのも愉快なのにね。
エイプリルフールのようなものに嬉々として取り組む学生たちが春休みでばらけてしまってるのも、不利な要素かもしれません。
2011年から新学期が秋に移行しますが、それをきっかけにエイプリルフールも必ずや人々の支持を得るだろうと、密かに期待しています。
2008年01月31日
名前がブランドになるとき
良い意味でも有名になってくると、知らん人から姓名を呼び捨てにされても致し方ないようです。
その時点で名前はひとり歩きをしているというか、個人を指すよりも、名前が喚起するバリューやら副産物のほうが先にイメージされるからです。
業績もなく名前だけが知れ渡るのは、本人や家族にとって不名誉な事態であることが多いようです。
「綾辻行人が好き」とか書いたが、別に恋愛感情ではないし、綾辻個人についての知識はさっぱり持ちません。
一般の人が作家や芸能人を「さん付け」で論評するのを見ると、なんだかムズムズすることがあります。名前はブランドだからモノとして扱うべきじゃないですか。
などと言う当人が別の場所では杉浦日向子さんなどと書いておる。杉浦日向子に対して失礼千万であります。まして名字を取っ払って「日向子さん」呼ばわりとは、馴れ馴れしさきわまれり。
私が「ますむらひろし」を呼び捨てにするのは、ゴッホに画伯をつけないのと同様です。ますむらとゴッホは同格か。別にゴッホの絵に感銘を受けたことはないけど。
「猫十字社」というペンネームの漫画家がいます。社名っぽいから呼び捨てられてもあまり気にならない、という理由で名づけたと、昔どこかで聞きました。「一条ゆかり」みたくキラキラなネーミングが流行っていたころの人と思えば、いいセンスですだ。
個人名がブランド化するのはいつなのか。
決まったルールはないので、その場その場で判断するしかありません。名前を聞けば大多数が「ああ、あの人」と思い浮かべるころが呼び捨てどきかな。
むろんジャンル・地域・歴史や習慣によって事情が異なるので、ルールの制定など無理な話。
数年前、某小国の独裁者が某大国(英語使用)の独裁者にミスター付けで呼ばれて気をよくしたという話がありました。それ以前は呼び捨てだったようです。
某小国が存在するアジアの人は英語のミスターやミセスが敬意を含むと単純に信じていますが、実態は違うとは、某ページで述べたとおりです。
日に1回くらいGoogle Newsの英語版を見ます。「読む」のではなく「見る」だけなので、1分で済みます。
プリンス・ウィリアムは称号つきで、そのガールフレンドは呼び捨てでした。有名だ(誰でもMissだと知っている)からでしょう。
欧米では名前につける称号の類は「識別」の意味合いが強いのです。
我が国では政治家を呼び捨てにせず肩書きをつける風習があります。
彼らは名前で仕事をしているわけではない。個人個人のパフォなどどうでもいい、個性だの独創性だの発揮せずともかまわぬ、そのポストが執り行うべき最低限の仕事だけでもしてくれー。国民の切実な願いをよそに、その最低限のことさえできないのが政治家という人種のようですな。
それら無能(無脳?)な連中が牛耳る国だから、国民の程度もリンクしてます。ほんの短期間椅子を温めただけの輩にいつまでも元○○大臣の呼称を奉ってしまうのです。
「元」がつくことは、「今」がそれよりも低いと知らしめているわけで、これはまるきり蔑称ではないですか。よって、元○○大臣の「元」の字には「おちぶれ」とルビを振るのが正しいマナーでありましょう。
その時点で名前はひとり歩きをしているというか、個人を指すよりも、名前が喚起するバリューやら副産物のほうが先にイメージされるからです。
業績もなく名前だけが知れ渡るのは、本人や家族にとって不名誉な事態であることが多いようです。
「綾辻行人が好き」とか書いたが、別に恋愛感情ではないし、綾辻個人についての知識はさっぱり持ちません。
一般の人が作家や芸能人を「さん付け」で論評するのを見ると、なんだかムズムズすることがあります。名前はブランドだからモノとして扱うべきじゃないですか。
などと言う当人が別の場所では杉浦日向子さんなどと書いておる。杉浦日向子に対して失礼千万であります。まして名字を取っ払って「日向子さん」呼ばわりとは、馴れ馴れしさきわまれり。
私が「ますむらひろし」を呼び捨てにするのは、ゴッホに画伯をつけないのと同様です。ますむらとゴッホは同格か。別にゴッホの絵に感銘を受けたことはないけど。
「猫十字社」というペンネームの漫画家がいます。社名っぽいから呼び捨てられてもあまり気にならない、という理由で名づけたと、昔どこかで聞きました。「一条ゆかり」みたくキラキラなネーミングが流行っていたころの人と思えば、いいセンスですだ。
個人名がブランド化するのはいつなのか。
決まったルールはないので、その場その場で判断するしかありません。名前を聞けば大多数が「ああ、あの人」と思い浮かべるころが呼び捨てどきかな。
むろんジャンル・地域・歴史や習慣によって事情が異なるので、ルールの制定など無理な話。
数年前、某小国の独裁者が某大国(英語使用)の独裁者にミスター付けで呼ばれて気をよくしたという話がありました。それ以前は呼び捨てだったようです。
某小国が存在するアジアの人は英語のミスターやミセスが敬意を含むと単純に信じていますが、実態は違うとは、某ページで述べたとおりです。
日に1回くらいGoogle Newsの英語版を見ます。「読む」のではなく「見る」だけなので、1分で済みます。
プリンス・ウィリアムは称号つきで、そのガールフレンドは呼び捨てでした。有名だ(誰でもMissだと知っている)からでしょう。
欧米では名前につける称号の類は「識別」の意味合いが強いのです。
我が国では政治家を呼び捨てにせず肩書きをつける風習があります。
彼らは名前で仕事をしているわけではない。個人個人のパフォなどどうでもいい、個性だの独創性だの発揮せずともかまわぬ、そのポストが執り行うべき最低限の仕事だけでもしてくれー。国民の切実な願いをよそに、その最低限のことさえできないのが政治家という人種のようですな。
それら無能(無脳?)な連中が牛耳る国だから、国民の程度もリンクしてます。ほんの短期間椅子を温めただけの輩にいつまでも元○○大臣の呼称を奉ってしまうのです。
「元」がつくことは、「今」がそれよりも低いと知らしめているわけで、これはまるきり蔑称ではないですか。よって、元○○大臣の「元」の字には「おちぶれ」とルビを振るのが正しいマナーでありましょう。
2007年12月20日
他山の品格
本にお金をかける余裕のない身に、図書館はありがたい存在です。
習慣として、調べたいことがあれば、インターネットよりも書物を優先します。情報の信頼性や新鮮さ等々はあまり問題ではなく、画面よりも紙のほうが目に優しいから。
本を買うことに及び腰なのは、経済的事情や収納場所の問題もさりながら、お金をかける値打ちのある本が少ないのも理由。
ほとんどの本は読後ゴミと化します。読んでる最中から腐臭を放つものだって少なくない。いやこれは、タダの本を漁ることで事前の吟味がおろそかになり、カスにぶち当たる確率が高いだけなのかもしれません。
もちろん身銭を切ることだってあります。
仕事(?)で必要なアニメ、コミック、ゲーム関連本は、公共図書館では品揃えが薄く、書店へ行くしかありません。こういう種類の本は使い終えたらほぼ無価値なので、古書店を中心に捜しますが、なかなか適当なものに巡り会いませんねえ。
まれですが、図書館で借りて読んだ本が気に入り、欲しくなることもあります。愛蔵目的で買うわけですから、古本ではダメです。
わが町の図書館では1年ほど前にICタグが導入されました。
さらにこのたび、借りたい本がインターネットで予約できるようになりました。
これまでも館まで出向いて予約票みたいな書類を提出すれば予約ができましたが、予約・借り入れ・返却と3度にわたって訪問しなければならず、面倒なものでした。少しは進歩した(便利になった)と受け止められていることでしょう。
私自身は予約してまで読みたい本などなく、図書館サイトを訪れたことはありません。
予約システムは人迷惑なものだと思っております。
1冊の本をひとりが占有する期間が大幅に延びてしまうのです。
しくみがこれまでと大差ないのなら、ある人が何かの本を予約すると、それを貸し出しできる状態になったら図書館から連絡が来ます。2週間以内に借りに行き、返却は2週間以内に行います。つまり確保から返却までに最大4週間、その本は書架から消えてしまうのです。
中には何か月も借りっ放しの不届き者も大勢います。
人気の本・話題の本・ベストセラーなどは予約がぎっしり詰まっていて、館内でお目にかかることはほとんどありません。
それではまずいと思うのか、図書館では貸し出し要望の多い本を何冊も購入します。結果、予算配分が偏り、もっと価値ある本に充てる費用が削られるのです。
本は現物を目にしたときのインスピレーションのようなものが重要だと感じます。なんの先入観も持たず、タイトルと著者名だけで未知の作家と出会い、豊作だったときの満足感は読書の醍醐味です。
たとえ結果的に豚の餌であっても、経験を積むことで本を見る目が徐々に養われると期待できます。
テレビや新聞やあまぞんでこれこれの本が売れてると聞きつけ、ならば乗り遅れないために目を通しとこう。そんな経緯で本を選んだところで、書物に対する感性が磨かれましょうか。
私はベストセラーなんてものには興味がありません。大勢の人が熱狂していること自体、わざわざ避けて通る理由になり得ます。
ただし「売れた=無価値」と決めつけるほどの偏屈でもない。数年後、顧みられなくなってボロッとしているものを借りて読んだらおもしろかった、てなことはけっこうあります。
新聞の書評も全然参考になりません。取り上げられる本が全般に高尚過ぎて、自分とは無関係な世界だなーって感じ。そんな低レベルでいながら「本への感性」を云々するんだからね、ヌケヌケと。
今年一番売れた本は『女性の品格』だそうです。
むろん読んだことはありません。手に取る気にもなれん。タイトルからして品格に欠ける。世の品格ブームに乗ってやろう=売ってやろう=儲けてやろう・・・と、さもしい根性が見え見え。思惑通りに飛びついた日本人(女性)の品格の程度も知れますわね。と、200万女性を敵に回すことを辞さないのであった。
せめてヨイショしてみますと、品格を得ようとして読んだ人々は、我が身の品格のなさを自覚しているわけですよね。それさえも気づかない人々よりはずっとエライ。その謙虚さをあらゆる局面で活かせば、きっと人生品格だらけになることでしょう。
ベストセラー本でなくとも、品格を身につける方法は転がっておりますぞ。
たとえばこの『貧盗恋歌』をじっくり読む。世の中には「他山の石」という言葉だってありますからね。
習慣として、調べたいことがあれば、インターネットよりも書物を優先します。情報の信頼性や新鮮さ等々はあまり問題ではなく、画面よりも紙のほうが目に優しいから。
本を買うことに及び腰なのは、経済的事情や収納場所の問題もさりながら、お金をかける値打ちのある本が少ないのも理由。
ほとんどの本は読後ゴミと化します。読んでる最中から腐臭を放つものだって少なくない。いやこれは、タダの本を漁ることで事前の吟味がおろそかになり、カスにぶち当たる確率が高いだけなのかもしれません。
もちろん身銭を切ることだってあります。
仕事(?)で必要なアニメ、コミック、ゲーム関連本は、公共図書館では品揃えが薄く、書店へ行くしかありません。こういう種類の本は使い終えたらほぼ無価値なので、古書店を中心に捜しますが、なかなか適当なものに巡り会いませんねえ。
まれですが、図書館で借りて読んだ本が気に入り、欲しくなることもあります。愛蔵目的で買うわけですから、古本ではダメです。
わが町の図書館では1年ほど前にICタグが導入されました。
さらにこのたび、借りたい本がインターネットで予約できるようになりました。
これまでも館まで出向いて予約票みたいな書類を提出すれば予約ができましたが、予約・借り入れ・返却と3度にわたって訪問しなければならず、面倒なものでした。少しは進歩した(便利になった)と受け止められていることでしょう。
私自身は予約してまで読みたい本などなく、図書館サイトを訪れたことはありません。
予約システムは人迷惑なものだと思っております。
1冊の本をひとりが占有する期間が大幅に延びてしまうのです。
しくみがこれまでと大差ないのなら、ある人が何かの本を予約すると、それを貸し出しできる状態になったら図書館から連絡が来ます。2週間以内に借りに行き、返却は2週間以内に行います。つまり確保から返却までに最大4週間、その本は書架から消えてしまうのです。
中には何か月も借りっ放しの不届き者も大勢います。
人気の本・話題の本・ベストセラーなどは予約がぎっしり詰まっていて、館内でお目にかかることはほとんどありません。
それではまずいと思うのか、図書館では貸し出し要望の多い本を何冊も購入します。結果、予算配分が偏り、もっと価値ある本に充てる費用が削られるのです。
本は現物を目にしたときのインスピレーションのようなものが重要だと感じます。なんの先入観も持たず、タイトルと著者名だけで未知の作家と出会い、豊作だったときの満足感は読書の醍醐味です。
たとえ結果的に豚の餌であっても、経験を積むことで本を見る目が徐々に養われると期待できます。
テレビや新聞やあまぞんでこれこれの本が売れてると聞きつけ、ならば乗り遅れないために目を通しとこう。そんな経緯で本を選んだところで、書物に対する感性が磨かれましょうか。
私はベストセラーなんてものには興味がありません。大勢の人が熱狂していること自体、わざわざ避けて通る理由になり得ます。
ただし「売れた=無価値」と決めつけるほどの偏屈でもない。数年後、顧みられなくなってボロッとしているものを借りて読んだらおもしろかった、てなことはけっこうあります。
新聞の書評も全然参考になりません。取り上げられる本が全般に高尚過ぎて、自分とは無関係な世界だなーって感じ。そんな低レベルでいながら「本への感性」を云々するんだからね、ヌケヌケと。
今年一番売れた本は『女性の品格』だそうです。
むろん読んだことはありません。手に取る気にもなれん。タイトルからして品格に欠ける。世の品格ブームに乗ってやろう=売ってやろう=儲けてやろう・・・と、さもしい根性が見え見え。思惑通りに飛びついた日本人(女性)の品格の程度も知れますわね。と、200万女性を敵に回すことを辞さないのであった。
せめてヨイショしてみますと、品格を得ようとして読んだ人々は、我が身の品格のなさを自覚しているわけですよね。それさえも気づかない人々よりはずっとエライ。その謙虚さをあらゆる局面で活かせば、きっと人生品格だらけになることでしょう。
ベストセラー本でなくとも、品格を身につける方法は転がっておりますぞ。
たとえばこの『貧盗恋歌』をじっくり読む。世の中には「他山の石」という言葉だってありますからね。