2011年12月28日

グズにつける薬

自慢じゃないが私はグズです。筋金入りのグズです。骨の髄までグズです。私からグズを取ったら、抜け殻になってそよそよと飛んでいきます。ええい、取れるもんなら取ってみろ。

たとえば、メール1通書くのにさえ、何日もかかります。何日もぶっ続けで書き続けるという意味ではなく、何日も(どうかしたら何年も)なおざりにしてしまう(書き始めない)のです。借金の申込とか借金申込への断りなどのややこしい用件ならともかく、送信済みトレイからコピペして数十秒でできあがる簡単な内容であっても、です。
忘れているだけならただの脳天気ですみますが、あのメール早く片づけなきゃといつも心の隅に引っかかっていて、夢にまでみるのです。せっせとメールを書いている夢から醒め、メールが仕上がっていないことを知ったときの疲労感は、あらためてメールに取り組む気力を失わせてしまいます。

どうして私はメールいっこ書けないほどのグズなんだろ、そうだ、図書館に行ってグズ対策本でも読んでみよう。こういうときだけやけに身軽にホイホイ出かけてしまう。そんなヒマがあるならさっさと書いて出せば解放されるのに。

そういうわけで、目についたグズ本は片っ端から読みました。
今や私はグズのエキスパート。ますますグズ道を究めつつあります。

筆頭は『グズをなおせば人生はうまくいく ついつい“先のばし”する損な人たち』(斉藤茂太)
なんと魅力的なタイトルでしょう。これで人生がうまくいったかた、おめでとうございます。

『グズをきっぱりやめるコツ!』(ジェーン・ブルカ+レノーラ・ユエン)
グズな著者によるグズ脱却の指南。本書が完成したのは締め切りから2年後だったとか。えーっ、大丈夫?

『今日できることを、つい明日に延ばしてしまうあなたへ』(ウィンディ・ドライデン)
長年グズピープル指導を行ってきた人による実践的な本で、本人は全くグズでないと豪語しています。
人がやるべきことを先延ばしする理由を分析し、心理面からの解決策を提示。考え方を変えなければなおらないということ。
この本では「グズ」という言葉は使われていません。

『グズの人にはわけがある』(ランダ・サパディン+ジャック・マガイヤー)
グズのタイプを6つに分けて分析。それぞれ対処法が違います。

『「あとでやろう」と考えて「いつまでも」しない人へ』(和田秀樹)
「のろま」受難の時代を乗り切る仕事術、つまりビジネス書です。「グズ」はわりと愛嬌あるけど、「のろま」ってのはグサッとくる表現じゃないかなあ。

『あなたはなぜ段取りが悪いのか』(渋谷昌三)・・・副題『要領がよくなる心理学』
万事モタモタしてうまくやり遂げられない人へ、心理面からアドバイスしています。私に言わせれば、この本自体、あまり要領を得ないように感じられ、段取りが悪い見本のようです。

キッパリ! たった5分間で自分を変える方法』(上大岡トメ)
ミリオンセラーの人気本だから、手に取ったことのある人も多いはず。
一見グズとは関係がなさそうですが、『だらだら地獄を抜け出す』きっかけとなる小さな行動の提案です。『難しい仕事はカンタンな仕事をひとつ終えてからすぐにとりかかる』など、グズ対策の実践的項目もいろいろ。冒頭の『脱いだ靴はそろえる』のような些細なことでも、『あとで、ではなく、その場でやる』習慣を身につける第一歩なのだと。

こうしてみると、グズ本には海外の著書が意外に多い。グズで悩む人々は全世界に分布しています。
概してあちらの書は論理的・分析的で、本気でグズをなおしたい人々のために書かれた専門書って感じ。あまりかたくならないよう、訳者も苦労しているようです。
日本人の手になるものは、情緒的でやや未整理、読み物としては面白く、読めば納得するけど、グズ脱却にはあまり結びつかないような気もします。

英語でグズは“procrastination”といいます。正確な訳は「遅延、先延ばし」(“cras”は「明日」という意味)。

日本語のグズ(愚図)は「行動がのろいこと」です。ぐずぐずすることと先延ばしすることはたいていくっついているから、ひとくくりにできそうですが、世の中には先延ばしせず直ちに着手しても、あまりに不器用で要領が悪いからいつまでも仕上げることができない「真正グズ」だって存在します。
私がメールを書けないのは純粋な「先延ばし」です。汚れた食器をためこむのも「先延ばし」ですが、いざ洗い始めると、とろくてやたらと時間がかかるから、二重のグズなのです。

一般のグズ本が問題にしているのは「真正グズ」よりも、やるべきことを先延ばしまたは放置してしまう習癖です。そのために自分も損をし、周囲にも迷惑をかけていて、本人もすぐにやればいいことはわかっているのに、なぜか絶対にとりかかれないという厄介な症状なのです。症状? 確かにグズは一種の病気だ。

人がものごとを先延ばしする心理は性格によって違ってきます。
その分類を見ると、まさしく私はこれだーというのやら、これも多少は当てはまるぞ、など、けっこう思い当たります。

強制されるのがイヤ、なんでも自発的にやりたいんだというタイプは、命令されたことをやりたがりません。職場では完全なダメ社員。
私がメールの返信を放置するのも、返事を強要されているように感じるからかもしれません。ならばホームページなどさっさと削除して、メールが来ないようにしろ。

スリルを味わいたくてギリギリまで手をつけない人々もいます。
夏休みの宿題を最後の1日で仕上げるのが常だった私は、典型的スリル派のようです。その裏には、もしそれが間に合わなかったり、出来が悪かった場合、早くからやっていればもっと良い結果を出せたはずという言い訳を隠しているのです。

自分もグズ本を読破してグズをなおそうとお考えのグズさん、いまだに私がグズのままであるという事実は、いくら本を読んでもグズはなおせないことを証明しています。読むだけ時間の無駄ですよ。

要は私、単なる怠け者なのです。先延ばしする理由も半端ながら分析できていて、それは苦あれば楽ありに記載したので、ここでぐだぐだ述べません。

留意すべきは、どんなグズでも、万事にグズなわけではないってこと。
私だって3度のごはんは遅滞なく食べますし、目先のメールを放置して図書館に行く行動力はある。生存に必要なこと、好きなことならちゃんとできるのです。

嫌いなこと、したくないことを先延ばししてもいちおう生きていける恵まれた環境が、グズを育てているというわけ。

ほんとうに「恵まれた環境」なら申し分ないのですが、私の場合、自己実現にはほど遠い、最低限の生活しかできていません。
人がそれなりのことを成し遂げるには、多少の無理と我慢が求められます。その「多少」に耐えられないから、いつまでもダメ人間に甘んじるはめになるのです。

とはいえ、実のところ、私は真に自分が「ダメ人間」だとは思っていません。昨日もできなかった、今日も怠けてしまった、と後悔の連続にありながら、明日こそは必ずちゃんとやって、すべてが好転するだろうと楽観しているのです。Tomorrow never comes という真理を延々と実践しているだけなのに。

そんなとき手に取った本『読んだらきちんと自分の知識にする方法』(宮口公寿)。読む片端から忘れてしまう私には、ズキンとくるタイトルなのでした。
が、案の定、自分の知識にはならず。ただ、procrastinationが成功への唯一の障害だというあたりは納得。

そしてこの本で一番印象に残ったのは、著者の姿勢です。『人生はチョロい。でも、もし失敗したら気のせいと思え』とかなんとか。
この底抜けの楽天主義、まさしく私の生き方と同じではないか。
ひとつ大きな違いは、向こうは成功者、こっちは敗残者ってこと。・・・などと自嘲しつつ、やっぱり私は決して真の敗残者ではないと思っています。今は敗残者に見えたとしても、そのうちバリバリ働いて華々しい人生に突入するぞう、と。
それでいて、多少の無理と我慢をおして立ち上がろうとはしない。

こんな私につける薬はありません。
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投稿者:ルノ 14:19 | コメント(0) | 人生燻
2010年12月30日

凡人だって幸福論をぶつぞう

新明解国語辞典によりますと、
幸福  現在(に至るまで)の自分の境遇に十分な安らぎや精神的な充足感を覚え、あえてそれ以上を望もうとする気持を抱くことも無く、現状が持続してほしいと思うこと(心の状態)。

凡人  自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人。
一生を終えたあとでなければその人が凡人であったかどうか判断できないのか。などと揚げ足とるつもりはないけど、『影響力が皆無』とはちと厳しすぎませんか? 孤島で独り暮らすのでない限り、どんなに非力な人でも他者になんらかの影響を及ぼすことはありえましょう。そしてまた、孤島で独り暮らす人は、そのことによってすでに非「凡人」です。

おっと、本日は凡人論ではなく、幸福論です。
生ける凡人ルノがぶち上げる幸福論は、他に対する影響力が皆無だろうから、気楽に好き勝手を言えますぞ。

ちなみに私は新明解国語辞典を持ちません。触ったこともありません。
「読める辞書」として名高い『新解さん』ですが、辞書好きの私には、いったん手に取ったら中毒しそうでコワい。老後の読書リストに掲げておきましょう。

じゃあ上記引用はどこから取ってきたんだ?
夏石鈴子『新解さんリターンズ』です。つまり、引用の引用というものぐさぶり。

この『リターンズ』と出世作『新解さんの読み方』は、面白いところだけ抜き出している分、本家本元『新解さん』より面白いようです。あちこちで笑っちゃいます。
とりわけ引用順序の妙とでもいいましょうか。凡人でも3人タッグを組めば、その並び方しだいでは天才をしのぐ可能性があると思えてきます。
新解さんでも事例の掲載順序が面白いみたいで、それは『リターンズ』の『物の順コーナー』で堪能できます。

おっと、本日は新解さん論ではありませぬ。

「幸福」とほぼ同じ状況をあらわす「幸せ」、両者はどう違うのでしょうか。

「幸福」は二字熟語で硬い印象だから、とりわけ口語では「幸せ」が使われる傾向にあります。

「幸せ」は「仕合わせ(為合わせ)」から来ています。運命の巡り合わせです。字面に良い悪いの判定は含まれませんが、通常良い方面に使います。「幸運」のことです。

仕合わせや運は自分ではどうすることもできません。

幸福ならば、上にも引いたように「心の状態」だから、自力でどうにかなりそうです。
傍目にはどんなに「不仕合わせ」でも、本人が「幸せ」だと思っていれば、その人は「幸福」なのです。

現実には「心の状態」なんて、そう簡単にコントロールできるもんじゃありません。できないからこそ、世の中トラブルだらけなのです。

『幸福論』の大御所アランは『意志で自分の感情をどうこうすることできないが、態度はただちにコントロールできる』と述べています。

そっか、幸せそうな態度をしていれば、幸せ気分になれるのかも。それって、どんな態度?
まずはニコニコ。幸せならきっと笑顔がこぼれるでしょうから。はい、チーズ。ニコニコ、にっこり、むふふ、わははは、がっはっは・・・。
そもそも笑いの効用はすごいらしくて、おかしくなくても笑っていれば免疫力が上がって癌さえ退治するのだとか。

しかし・・・幸せそうに振る舞い、笑ってさえいれば、飢えや失業が解決するだろうか。

ここでいきなり根源的な質問。
幸福ってそんなにいいものか?

戻って、新解さんの定義を再読しましょう。そこはかとなく「幸福」をバカにしているように感じられません?
幸福とは向上心を失った状態です。というか、向上が不要(不可能)になった、最上の段階です。幸福な人は、幸福を維持できなければ、不幸になるしか道がないのです。

むろん語句の意味に関すれば、新明解が「絶対正しい」わけではない。
たとえば当辞典には『全知全能を振り絞る』という用例が載っているようです。
神が天地を創造する際は全知全能を振り絞ったかもしれません。が、振り絞らずともできるのが全知全能のゆえんじゃないですかね。
おーっと、またも脱線。

別の(まともな)辞書を開いてみます。
幸福  すべてのことにみちたりていて、心がおだやかなこと。しあわせ。
すべてに満ち足りるってこと、人生にありうるのでしょうか。
仮にそうなって幸福を満喫していたとして、たとえば、ふと外を見たら雨が降ってきた。
「うわー、これから出かけようとしていたのに、やだなー」と顔をしかめた時点で、「すべて」の片隅にひびが入ります。
「わーい、雨だ。昨日買ったピンクのレインブーツを履ける」と喜ぶポリアンナイストもいましょうが、出かけておニューのブーツが泥はねで汚れたら悲しくなるかもしれません。

テレビをつければ戦争や自爆テロ、殺人、いじめ自殺など悲惨なニュースが目白押しです。それらを見て、いささかも心が痛まない人がいるでしょうか。引き比べて自分の幸せを再認識するだけの人間は、幸福だとしても、客観的にはあわれです。

人は幸福でなくたっていいんです。満ち足りていなくていいんです。心穏やかでなくたっていいんです。
満ち足りた愚者よりも、不遇のソクラテスたれ、ですよ。

むろん幸福に価値がないわけではありません。努力目標として、まっとうな方法で目指せばよろしい。
『幸福は目的として望ましいただひとつのものである』とか言ったのは、経済学的に幸福を求めたミルです。『その他は幸福という目的の手段だ』とも。

一般に、人は幸せになるために行動します。
ただし、幸福そのものは目指すには漠然としすぎています。「幸福」という言葉はさほど意識せず、自分自身や生活をより良くしたいといった感覚で、具体的な目標を設定するものです。

目標を決めた時点では、達成したときのことを考えてワクワクします。
途中ではいろんな障害が発生し、しばしば挫折も味わいますが、やり直したり軌道修正したりと努力の結果、どうにか乗り越えてもう少しで手が届くところまできたら、かなりの充実感があるはずです。

達成してしまったら、実はこんなもんじゃなかったと失望することもままありますが、それはそれでOK。自分が成長しているから、次はより高いものを目指したくなるのです。
そうやってチャレンジし続けることが人生の醍醐味です。「幸福」とやらにはいつまでも手が届かないかもしれないけど、満足(停滞)してしみじみと幸福を味わうよりも、ずっと素晴らしいことだと思いませんか?
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投稿者:ルノ 22:21 | コメント(0) | トラバ(0) | 人生燻
2010年11月28日

悲しくないのに

新聞や雑誌の人生相談コーナー、くだらんと思いつつ、ついチラ読みしちゃいます。

他人の不幸は蜜の味。悩み苦しむ人々と引き比べて我が身のささやかな幸福を味わおうという魂胆? いえいえ、ひまつぶしです。

そもそもほんとうに困り果てている人は、返事をもらえる当てもない誌上相談室宛てに手紙を書く余裕なんかないと思いますよ。結果的に、採り上げられる悩みは「んなん自業自得だぜい」とか「しょーもないことに拘泥する前にもっとやることあるだろうに」などと突っ込みたくなる些末事ばかり。
でもまあ、本人にとってはそれが一番の重大事なのでしょうね。ある意味、うらやましい。

ある日見かけた相談。「真剣に話をしようとすると涙が出て困る」というような内容だったと思います。
ふーん、そんなこともあるんだなと読み流し、回答者の意見については全く覚えていません。

だいぶ日が経って唐突にそれを思い出し、私にも同様の経験があることに気づいたのです。会話の最中、決して涙が出るような局面ではないのに、なぜか涙ぐんでしまうといったことが。
若いころ、特に学生時代にはわりと頻繁に起きたような気がします。

とりわけはっきりと覚えているのは・・・。
カッコーが自分で子育てをせず、ほかの鳥の巣に卵を産んでを育てさせることはよく知られています。それをうまくやり遂げるために進化してきたようです。カッコーのヒナが孵化してまず行うのは、養い親の卵を巣から放り出すこと。そのためかヒナの背中は、卵をのせやすいようにくぼんでいます。
そのことを何かで読んだ私は、うわー、必要は外形を変えるのかと、造形の妙に感嘆しました。
数日後、友達に教えようと詳しく話して聞かせていると、急に涙がこみ上げてきて、驚くとともに、非常に当惑したのです。殺されるオオヨシキリのヒナはかわいそうだけど、別に泣くほどのことじゃあるまいし。

今思えば、まさに私は「真剣に話そうとしていた」のでした。

くだんの相談者は若くて、真剣に話す機会がたびたびあるから、どういう状況でそうなるということを分析できていたのでしょう。
私はその場その場では困ったとしても、過ぎればどうでもよくなり、引きこもっているうちに歳月が過ぎ、「真剣に話す」ことなどなくなりました。だからその悩みを読んだ当初は、完全に他人事としか捉えられませんでした。

涙は起きている間、常に分泌されています。それはごく少量です。目を守り、栄養を与えているのです。
ときたまどっと出ることもあります。あくびをしたり、ごみが入ったり、タマネギを刻んだり、わさび食ったり、ひどく痛い思いをしたときにだって。大笑いしても涙は出ます。
そういう反射性の涙のほか、人間特有の感情性涙があります。悲しい、悔しい、せつない、嬉しい、感動や同情・・・さまざまな感情に伴って涙が出ます。涙腺の分泌神経が頸部交感神経と顔面神経の中間にあるからとかなんとか、百科事典に書いてありましたが。

真剣に話すことは「行為」だから、「感情」とは無関係に見えます。だから涙が出ることは理解されにくく、当人も困ってしまうわけです。
しかし「普通に話す」から「真剣に話す」へ前進するには、なんらかの意志、やっぱり感情の後押しが必要。また真剣に話せば、表情筋だって普段よりもよく動くでしょう。いずれにせよ、神経の密集した部分が刺激を受けるのだから、ご近所の涙腺神経が連動する可能性は大いにあります。

「将来の夢を熱心に語る彼女の瞳はキラキラと輝いていた」
何の変哲もないありふれた文章です。この「キラキラと輝く瞳」は単なる比喩ではなく、きっと実際に輝いているのです。それには目が通常にうるおっているだけでは不十分。
真剣に話すときにいつもより余分の涙が分泌されるのは、特殊なことではない。これが私の結論です。
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投稿者:ルノ 13:26 | コメント(0) | トラバ(0) | 人生燻