2010年11月28日

悲しくないのに

新聞や雑誌の人生相談コーナー、くだらんと思いつつ、ついチラ読みしちゃいます。

他人の不幸は蜜の味。悩み苦しむ人々と引き比べて我が身のささやかな幸福を味わおうという魂胆? いえいえ、ひまつぶしです。

そもそもほんとうに困り果てている人は、返事をもらえる当てもない誌上相談室宛てに手紙を書く余裕なんかないと思いますよ。結果的に、採り上げられる悩みは「んなん自業自得だぜい」とか「しょーもないことに拘泥する前にもっとやることあるだろうに」などと突っ込みたくなる些末事ばかり。
でもまあ、本人にとってはそれが一番の重大事なのでしょうね。ある意味、うらやましい。

ある日見かけた相談。「真剣に話をしようとすると涙が出て困る」というような内容だったと思います。
ふーん、そんなこともあるんだなと読み流し、回答者の意見については全く覚えていません。

だいぶ日が経って唐突にそれを思い出し、私にも同様の経験があることに気づいたのです。会話の最中、決して涙が出るような局面ではないのに、なぜか涙ぐんでしまうといったことが。
若いころ、特に学生時代にはわりと頻繁に起きたような気がします。

とりわけはっきりと覚えているのは・・・。
カッコウが自分で子育てをせず、ほかの鳥の巣に卵を産んでを育てさせることはよく知られています。それをうまくやり遂げるために進化してきたようです。カッコウのヒナが孵化してまず行うのは、養い親の卵を巣から放り出すこと。そのためかヒナの背中は、卵をのせやすいようにくぼんでいます。
そのことを何かで読んだ私は、うわー、必要は外形を変えるのかと、造形の妙に感嘆しました。
数日後、友達に教えようと詳しく話して聞かせていると、急に涙がこみ上げてきて、驚くとともに、非常に当惑したのです。殺されるオオヨシキリのヒナはかわいそうだけど、別に泣くほどのことじゃあるまいし。

今思えば、まさに私は「真剣に話そうとしていた」のでした。

くだんの相談者は若くて、真剣に話す機会がたびたびあるから、どういう状況でそうなるということを分析できていたのでしょう。
私はその場その場では困ったとしても、過ぎればどうでもよくなり、引きこもっているうちに歳月が過ぎ、「真剣に話す」ことなどなくなりました。だからその悩みを読んだ当初は、完全に他人事としか捉えられませんでした。

涙は起きている間、常に分泌されています。それはごく少量です。目を守り、栄養を与えているのです。
ときたまどっと出ることもあります。あくびをしたり、ごみが入ったり、タマネギを刻んだり、わさび食ったり、ひどく痛い思いをしたときにだって。大笑いしても涙は出ます。
そういう反射性の涙のほか、人間特有の感情性涙があります。悲しい、悔しい、せつない、嬉しい、感動や同情・・・さまざまな感情に伴って涙が出ます。涙腺の分泌神経が頸部交感神経と顔面神経の中間にあるからとかなんとか、百科事典に書いてありましたが。

真剣に話すことは「行為」だから、「感情」とは無関係に見えます。だから涙が出ることは理解されにくく、当人も困ってしまうわけです。
しかし「普通に話す」から「真剣に話す」へ前進するには、なんらかの意志、やっぱり感情の後押しが必要。また真剣に話せば、表情筋だって普段よりもよく動くでしょう。いずれにせよ、神経の密集した部分が刺激を受けるのだから、ご近所の涙腺神経が連動する可能性は大いにあります。

「将来の夢を熱心に語る彼女の瞳はキラキラと輝いていた」
何の変哲もないありふれた文章です。この「キラキラと輝く瞳」は単なる比喩ではなく、きっと実際に輝いているのです。それには目が通常にうるおっているだけでは不十分。
真剣に話すときにいつもより余分の涙が分泌されるのは、特殊なことではない。これが私の結論です。
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投稿者:ルノ 13:26 | コメント(0) | トラバ(0) | 人生燻
2009年10月31日

あきらめる技法

人生、あきらめちゃなんねえよ。と、先般申しました。トランプゲームでの話ですから、ちっとも説得力ないんですけど。
実際の話、どんな苦境にあってもあきらめずに方策を探れば必ず道は開ける・・・わけでもないことは、ゲームでも人生でも同じ。

あきらめて方向転換したほうが有利なことだって多いのです。

それを見極める方法があるのでしょうか。

あきらめる方法について書かれた書物はあると思いますが、読んだことはありません。

座右の書『道は開ける』(デール・カーネギー)には、いとも簡単な説明があります。
事態を好転させるチャンスがある限り戦うべきだ! けれども常識で判断してもはや万事休すとなれば、「悪あがきをしたり逆転を望んだりしない」ことが正気の沙汰というものだ。
『事態を好転させるチャンスがある』かどうかわからないときにはどうすべきでしょう。
もう万事休すと思ってあきらめたあと、実はまだチャンスがあったと知ったら悔しいものです。だからあきらめたあとにはそれに関することにはいっさい目を向けないという人もいます。
それでは次の機会への情報を逃すかもしれません。

たとえば家族が末期癌など難病を宣告されたとして、どの時点であきらめれば納得がいくのでしょう。
「家族が」とわざわざ書いたのは、自分自身のことであれば、仮に完治したなら「あの時あきらめなくて良かったなあ」と笑って回想できるけど、あきらめて死んでしまえば後悔もできず、検証のしようがないからです。

現代は情報格差の時代とも言われます。
「知らない」ことが死につながることさえあるのです。
インターネットに入り浸って最新の治療法や最先端医療を行う病院などを探し出し、その恩恵にあずかることができる人と、無能かもしれない主治医と保険診療にすべてお任せって人では結果に差が出る可能性は大いにあります。

さりとて、情報を得られれば万事OKとも限りません。
人生にはいろんな制約があります。せっかく素晴らしい治療法があると知りながら、経済・時間・空間などの事情で受けられないとしたら、これはもう知らないほうが良かったと思いたくなるのでは。その治療を受けさせられなかったことが、後々まで心のしこりとなるならば、かえって不幸です。

一般的に、できる範囲内で最善を尽くせばあきらめていいのです。
しかし『できる範囲』というのも、『常識で判断して』と同じくあいまいな言葉で、突き詰めようとしたらきりがありません。

世の中には、絶対にあきらめず、とことん突っ走る人がいます。
気がつけば、仕事も財産も家族も失い、にっちもさっちもいかなくてボー然・・・てなことになったり。しかし世界を変える大発見をするような人々はこのようなタイプかもしれません。
もしあきらめるタイミングがわからなければ、いつまでもあきらめないのもひとつの方法です。そのうち誰か(もしくは何か)が無理やりあきらめさせてくれます。

片や、常に冷静に引き際を見極めようとしていて、損失を最小限に抑えることに意を砕く人もいます。
こんな人は家族が癌になれば、医療費・保険金・葬式代・有給休暇の残り日数などを計算してバランスを取り、最良の看護をすることでしょう。別に皮肉ではありません。これも「あきらめる技法」のひとつです。

昨今は「がんばらない」「しがみつかない」など、一見努力放棄、上昇志向無視の生き方が奨励される傾向にあるようです。それはあっさりあきらめることにつながるようにも思えます。

あきらめるのは簡単です。あきらめてばかりいたら、忍耐のあとの果実を味わう経験ができません。
いつあきらめるかを決めるのは困難ですが、現在の自分の能力では最大ここまでやれそうと思ったところの、さらにほんの少し先を設定してはいかがでしょうか。
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投稿者:ルノ 23:54 | コメント(0) | トラバ(0) | 人生燻